長野堰用水
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疏水の概要 | |||||||||||
■疏水の所在 群馬県高崎市街地を中心として、井野川右岸、烏川左岸の地域。(約1,000ha) ■所在地域の概要 群馬県の西南部に位置する高崎市は、昔から交通の要所として経済が発展し、商業の町として現在も栄えている。大型店は郊外に多く出店し、旧市街地では若き経営者が工夫を凝らして粋な街並みに替え、老若男女を呼び込んでいる。人口は24万人、来年1月に高崎市は3町1村と合併し、31万人の中核都市となる。 ■疏水の概要・特徴 今から約一千年前、長野康業(上野国守)が水路のもとを造ったと云われている。その後、戦国時代康業の子孫である長野業政(長野信濃守業政)が整備し、それまで天水で耕作していたこの地域は飛躍的にかんがい区域が拡大された。 明治21年には、高崎市の水道用水にも取水されたり、水車を使っての米つきや、防火用水としても利用されていた。その後、素堀水路を石積にし漏水防止を図り、やがて水路が老朽化、加えて食糧増産による用水不足を来たし、これらを解消するため、県営かんがい排水事業にて三面コンクリート水路を施工した。 かんがい用水はもとより、現在は防火用水、環境用水として、幹線水路上はポケットパークに提供し市民の憩いの場となっている。 |
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長野堰
長野堰(ながのぜき)[1]は、群馬県高崎市中部に農業用水を供給する用水路である。


建設
928年(延長6年)に長野康業が長野堰の開発に着手したと伝えられている[2]。
時代が下って1551年(天文20年)長野康業の子孫である4代目箕輪城主の長野業正は長野堰を整備し、現在の長野堰の原型を作った。当時、現在の頭首工付近で烏川と合流していた榛名白川から取水して、榛名山南麓を中心に灌漑していた。その後、支配者が後北条氏、井伊氏、松平氏などに変わったが、各時代で用水路の延伸や整備が進められていった[3][4]。
1708年(宝永5年)高崎藩主・大河内輝貞は、榛名湖から隧道(ずいどう)を掘ることで引水しようと試みたが頓挫した[5]。1904年(明治37年)長野堰の水量を確保するために、榛名湖から榛名川を経由して烏川に流すために榛名山天神峠に隧道が開削された[6]。
概要
烏川中流の町屋橋から300メートル上流の高崎市本郷町に長野堰頭首工を設けて取水している。水路は概ね南東方向に進み高崎市街地北部を横切る。この間、暗渠の部分もあるが主に地表の3面コンクリートの水路を流れる。住吉町から一部分水し堰代町をへて高崎城の堀割に流している。その先は高崎市東町で佐野分水が分岐し南の佐野地域を灌水する。さらにその先の江木町の城東小学校南側の地点で地獄堰・上中居堰・矢中堰・倉賀野堰の4水路に分流する。この分流の水量の多少をめぐって争いが絶えなかったため、1962年(昭和37年)に円筒分水堰[7]を建設した。これは、円筒形の施設でサイフォンの原理を利用して水量を公平に分ける斬新な方法である。4水路は各地域に用水を供給した後、烏川や井野川に注ぐ。
2016年(平成28年)、国際かんがい排水委員会のかんがい施設遺産に登録。
脚注
- ^ 先人たちが作り上げた「農」の遺産を知っていますか (PDF) - 農林水産省
- ^ 中島宏氏の「長野堰の水と光」より
- ^ 「長野堰改修紀功碑」(上並榎町)
- ^ 「長野堰功徳碑」(請地町)
- ^ スルス岩下に幻の隧道をもとめて(2015年9月10日閲覧)
- ^ 「長野堰疏水紀功碑」(榛名湖町)
- ^ 土木ツアー長野堰用水 - 一般社団法人 建設コンサルタンツ協会
固有名詞の分類
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