終了時点まで継続されていたプロデュース企画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:16 UTC 版)
「紳助社長のプロデュース大作戦!」の記事における「終了時点まで継続されていたプロデュース企画」の解説
宮古島活性化プロジェクト 第1シリーズ お笑いコンビのレギュラーの2人が、仕事を全部キャンセルして宮古島に移住。最低でも2年間の帰京禁止(但しどうしても外せない仕事や、紳助が作詞した歌を松本がレコーディングする時には東京に戻る)、所持品は塩害対策済みの軽トラ1台のみで、失恋などで心が傷付いた女性を癒す為の民宿『夢来人(むらびと)』をオープンさせる為、2人が物件探し、民宿の建築、無農薬の畑を作って自給自足をしながらオープンの準備を進めていく。また、民宿のお手伝いをする「ビーチボーイズ」オーディションが行われ、選ばれた3人が派遣されるが、オープン後に2人が脱落して1人だけとなり、後に緊急オーディションが開催され、新たに3人が派遣される。オープン後には民宿『夢来人』の公式サイトが開設され、宿泊予約の応募受付を開始した。様子は毎週番組やブログで報告している。レギュラー陣やゲストが視察やモニター名目で訪れることもある。特に紳助はプライベートでよく宮古島に行くが、空港で待ち構えているスタッフに「民宿の偵察」という体で、ピンマイクを付けられて半ば強制的に民宿へ連れて行かれる。その為、結果的に紳助の自費で民宿の偵察に行く事となり、この事についてスタジオでボヤく事がある。 前述の通り当初は2年間移住の予定だったが、宮古島の観光客数を過去最大にした功績が認められ1年で課長昇進・帰京が許された。しかし、直後にナガンヌ島への海の家建設プロジェクトに参加することとなる。 第2シリーズ ノッチ夫妻が3か月限定で夢来人の支配人に就任し、ビーチボーイズ達の指揮を行う。当日はドッキリという形でノッチに知らされた(妻と事務所は了承済み)。ノッチを選んだのは紳助と親交が深い他に、気が小さく常に妻に怒られてばかりのノッチを支配人にし、ビーチボーイズに指図する立場になることで自信を付けてもらうという「リハビリ」の一環も兼ねている。なお、今回は帰京禁止のレギュラーと違い、月1回の相方安田和博との仕事の際には帰京することができる。 ノッチは事前に紳助から指揮官として頑張るよう言われたことから何かとビーチボーイズを下に置いてかっこいいところを見せようとするが、口とは裏腹に相変わらず妻や社外役員として来た平林・北斗晶に怒られてばかりのため、そのギャップが出演者にウケており、紳助社長も「彼は人の上に立たせて面白さが発揮される。」「毎週スタジオに来てVTRを見るのが楽しみ。」「3か月限定の予定だがどうにかして伸ばしたい」とも語っている。 打ち切り決定後、民宿の動向が注目されたが、報道や支配人であるノッチのブログによると、民宿の土地は借地のため既に地主に返却。建物は今後の話し合いで決定するというが、民宿としての営業は予約していた最後の客を迎えた9月25日を以って終了した。また、ノッチ一家は元々8月いっぱいで夢来人を卒業し、東京へ転勤していたことや、既にその映像も撮影されたがお蔵入りになったことを明かしている。その後、9月30日の「金スマ・夫婦波乱万丈」にて宮古島プロジェクトのドキュメントをノッチ夫妻のインタビューを交えて放送。 お蔵入りとなった番組VTRを公開するとともに、9月27日に行われた民宿の撤去作業と解散の様子が流された。また、民宿で飼育されていた動物達は近隣の農家へ、犬の「マモル(♂)」は金スマディレクターの渡辺ヘルムート直道(制作会社ディレクター)に託された。 ビーチボーイズCDデビュープロジェクト 8か月の間支配人を支えてきたビーチボーイズへのプレゼントとしてCDデビューが決定。作詞は紳助社長、作曲はサーターアンダギーや嵐の「明日の記憶」の作詞・作曲などを手掛けた平義隆、編曲と歌唱指導は野口五郎が行う。また、あくまでも素人のビーチボーイズに代わり、秘書の関が責任者としてビーチボーイズに参加、全責任を負う。7月13日にデビューシングル「ビーチボーイズ」発売、東京・大阪ほか全国で発売記念イベントも行われた。「オリコン初週20位以内なら秋に2ndシングル発売、21位以下なら解散」というルールが定められ、結果は初登場(最高位)17位を記録したが、打ち切りにより2ndシングル発売は立ち消えとなった。 サンゴ復活プロジェクト 課長となったレギュラーがナガンヌ島(沖縄県渡嘉敷村慶良間諸島チービシ環礁)に住みながら減りゆく沖縄のサンゴを復活させるべく活動していく。同時に海の家を建設(当初はこれが目標となっていた)しサンゴ復活への啓蒙活動を行う。 今回は帰京禁止の夢来人とは違い、営業が入れば本土に戻ることができる。 番組打ち切りによってレギュラーのプロジェクト参加は中止となったが、プロジェクトそのものは今後も地元の人によって継続される。 お見合い大作戦 嫁不足で悩む島や村で集団お見合いをする、かつて紳助が司会を務めた特番「沼島の春よ再び!お見合い大作戦」の復活企画。進行も実際に務めた佐藤B作らが立会人を行う。番組打ち切り後はナインティナイン司会の『もてもてナインティナイン』に企画を移行し、終了後も引き続き特番『ナイナイのお見合い大作戦!』で継続中で、佐藤B作やレギュラーだった陣内智則も立会人として引き続き出演している。 鈴鹿8耐参戦 鈴鹿8時間耐久ロードレースに参戦を夢見るも昨年引退、さらに宮城県出身で先の東日本大震災にて実家が被災してしまった中木亮輔選手が「日本を元気づけるため16年前に活動休止したチーム・シンスケを復活させてほしい」と紳助に依頼。その頼みを紳助が了承し16年ぶりに鈴鹿8耐に参戦することになった。資金面では紳助と親交のある来来亭の社長に協力を依頼、また、社員からは関・ヨンア・陣内・はるな・にしおか・親太朗・森・波田が、さらに紳助に計画を聞いて賛同した渡辺正行と同じく宮城出身のサンドウィッチマンもメカニックやチームスタッフとして参加した。各担当は以下の通り メカニック(タイヤ交換)…サンドウィッチマンの2人 給油…渡辺、親太朗 ストップボード…陣内 サインボード…森、関 計測(ラップタイムの計測)…波田 消火器(規定上義務付けられているピット作業時の消火器持ち)…はるな サポート(ライダーのケア)…ヨンア、にしおか 通常1年以上かけて行う準備をわずか2か月で行い、上記の通りプロがやるべきピットを素人が行うという無謀な挑戦だったが、結果は目標となる15位を上回り、チーム・シンスケ過去最高タイの14位を記録した。また、ピット作業に関しても目標の22秒には届かなかったが、最高23.1秒という素人集団としては非常に良い成果を出すことができた。
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