白木屋乗っ取り事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 01:04 UTC 版)
横井は財を築いたとはいえ、財界からはただの成り上がりにしかみられなかった。横井は財界人と認められたいという野望を抱き日本橋にある白木屋の買収を画策する。当時の取引先の一つに老舗百貨店、白木屋の関連企業である白木金属工業があり、いつまで経っても決済できないので同社の内情を調べると、親会社の白木屋が経営的に不安定だったことが判明。これを動機として1950年(昭和25年)に同社の乗っ取りを決意、株の買い占めにかかり1953年(昭和28年)1月には発行株式数の4分の1を超す102万8000株を買った。同じく白木屋の株を買い占めていた日活の堀久作と手を結び白木屋の資本金2億円、額面50円として発行済株式総数400万株のうち100万株を買い占め、堀の持ち株を含めると過半数となった。これに焦った白木屋側は財界に働きかけ、同年2月1日、堀の提案で、日活ホテルの堀の部屋でそれぞれの財界人を後ろ盾にして白木屋陣営と横井陣営との対話の場が用意された。 白木屋の社長である鏡山忠男は「白木屋は江戸時代から300年続く名門だ。横井君がどのような手段で株を集めたのかは知らないが、どこの馬の骨とも素性の明らかでない者を重役に迎え入れることは絶対にできない」と言い放った。すると横井は「私は、なるほど、鏡山さんのいわれる血統とかは素性とかはたいしたことないかもしれない。しかし現在は資産30億円、借金20億円、差し引き10億円を持っている。たとえ私が最後の一人になっても、この資材を投げこんで、全株数を握ってみせる!」と反論した。ところが堀は所有していた株を突如売却。堀の所有した持ち株は山一證券を経て三信建物の林彦三郎に渡ってしまう。堀は買収から撤退。 その一方で白木屋の社長の鏡山は、総会屋の大物である久保祐三郎を参謀格にし、横井の買い占めに対抗する。久保からすれば戦後の繰り上がりで社長になった鏡山は、親交面でも財界人の格にしても若干の不安のある相手だったが横井の遣り口に反発して参画した。久保は横井の株式が繊維関係の株式会社の名義であったことに着目。白木屋の株を買うことは独占禁止法違反という理由で、横井側の株式を議決権行使停止の仮処分で塩漬けにしてしまう。しかし、横井の執念はこれで抑えることはできず、既に買い占めた持ち株を抱えながら彼は当時の価格として4億以上を持ち出しあくまで買い続けた。また、久保に対抗できる大物として総会屋の田島将光を招き入れて経営陣に相対した。財閥本家にコネを持つ田島からしても横井の財界人の格は下だったが、かつて田島が鏡山に和解を忠告した際に格下の鏡山に拒絶された経緯があり此方も面子を重んじる稼業の感情面が働いていたとされる。 翌年の1954年(昭和29年)3月31日、浜町中央クラブにて白木屋の株主総会が行われた。横井側の財界人は千葉銀行の古荘四郎彦、山種証券の山崎種二、高利貸しの森脇将光、のちの買い占め王となる鈴木一弘が肩入れ、総会屋は白木屋側は久保祐三郎を配し、横井側は田島将光を配し総会場には2つの入り口が設けられ、白木屋側に新田組・安藤組・殉国青年隊らが動員された。株主総会では決着は付かず法廷闘争まで及んだ。裁判は長期化し、白木屋側、横井側も疲弊しきっていた。そこで横井は東急の五島慶太に買収を頼む策を講じる。横井は白木屋の株を買い取りをお願いするため、ほぼ毎日朝の6時に五島の家の前に立ち出勤を見送り、旅行に行く際には東京駅まで列車が出発するまで見送るなどしていた。その熱意によって五島は白木屋の買収に乗ることになる。ただし1株350円でしか引き受けないという条件であった。結果的に横井は5億8000万も損したことになる(その後、白木屋は東急百貨店日本橋店となるが、横井没後の1999年(平成11年)に経営効率化のため閉鎖された)。 1956年(昭和31年)1月半ば、五島は築地にある料亭に横井と鈴木一弘を招き、五島は「君たち“五島学校”に入学せんかね、君たちのような生きの良い若い勝負師と組んで、まだまだ面白い仕事をしてみたい」と言い、それを聞いた横井は「五島会長、お言葉ありがたくちょうだいさせていただきます。今回の株の損は五島学校の入学金と思えば別に高いとも思えなくなってきました」と五島学校の門下生となった。しかし鈴木は門下生にはならなかった。白木屋乗っ取り騒動の一件で横井は五島という後ろ盾を得、その後も五島の企業買収にエージェントとして関わることが多かった。この間の1958年(昭和33年)6月11日、横井英樹襲撃事件が発生する。 1959年(昭和34年)には東洋精糖の株買占めに乗り出す。買占め側にも、一方秋山正太郎を始めとする経営陣側にも、総会屋やヤクザ・右翼が大勢絡む格好となり、さながらオールスター総出演の様相を見せていた(株主総会でも平気な顔で座っていたらしく、面の皮の厚さを見せつけた)。ところが後一歩で経営権を取得できるところまでいったところで、五島が急死。東急を継いだ五島の長男・昇は、東急が横井に協力して買い占めていた東洋精糖の株式を東洋精糖の経営陣側に譲渡するなどの調停案(岸信介の絡みで永田雅一がまとめた)で合意し、東急は乗っ取りから撤退、東洋精糖の乗っ取りは結局横井が一人孤立してしまう格好になってしまう。このため、五島邸へ直接出向いて抗議している。 横井にとって五島慶太の急死とともに衝撃だったのは五島昇から終生出入りを断られたことである。しかし同じ五島門下生である、国際興業社主・小佐野賢治は昇から敬意が払われ、後に富士屋ホテルの買収で対立することになる。
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