港湾横断形式・ルートの変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 17:11 UTC 版)
「名港トリトン」の記事における「港湾横断形式・ルートの変遷」の解説
名古屋環状2号線の名古屋港横断が具体化した1960年代半ば、新聞紙上で様々な横断方法が記載され、トンネルもしくは「夢の大橋」で横断すると報じられた。しかしそれは所詮構想であって具体的な検討は1969年(昭和44年)以降に行なわれた。地盤調査や海洋気象調査は建設省が行なったが、概略設計は委託先の本州四国連絡橋公団が担当した。 設計は地盤調査の進捗具合やその他諸条件によって変化したが、初期案は海底トンネル(沈埋トンネル)式、あるいは橋梁式とトンネル式両方の組み合わせが主流であった。しかし、トンネル式では建設費が高く、換気や道路照明に要する費用も高額であることから採算性が劣るとされた。また高潮による浸水被害が心配され、車両火災等のリスクも懸念された。さらに、海底から20メートル (m) という長い距離で泥土層が存在することで、トンネル構造物を支えきれないとされた。そして海底トンネルであるために、危険物積載車輛の通行制限がかかることは、当該区間の利用交通がタンクローリー等の港湾業務に従事する車であることを考えた場合、利用実態にそぐわないことからトンネル方式は破棄された。また橋との複合案も、トンネルと橋の移行区間で掘割となることで工業地帯の分断が生じ、急勾配(4.2 %)となることで走行性が劣ることから、こちらも破棄された。なお、複合案における移行区間は金城ふ頭が該当し、西大橋が橋梁式、ほかはトンネル式であった。 この点、全てが橋であれば、船舶追突防止対策のほか、場所によっては船舶の航路制限がかかるにしても、土地利用上の問題が少なく、美観的に好ましいことや港のランドマークともなりえることから、橋梁案が採用された。ただし、橋梁案は船舶関係者からは安全面で憂慮されたことから、海難事故防止策として橋桁の最高潮位面高さを十分に取ることのほかに、海中の橋脚に防護柵を設置するなどの対策を講じることになった。当初は橋脚で支えるゲルバートラス橋で構想されたが、大型船の通過に橋脚が障害となることから、1976年(昭和51年)には吊橋式と斜張橋式に変更された。 しかしながら、この時点では港湾計画として正式決定された訳ではなく、依然として構想の領域を超えるものではなかった。決定がなされなかったのは国の財政事情もさることながら、船舶関係者による架橋反対の兆しが芽吹いていたためである。しかし、名古屋環状2号線の中でも当該区間だけが都市計画されておらず、既に建設省によって要求されていた西大橋の関連予算請求手続きを迅速化するためにも計画決定を急ぐ必要に迫られたことから、1978年(昭和53年)12月の名古屋港湾審査会に諮問され、了承を得た。そして中央港湾審議会の承認を得たうえで、都市計画決定の手続きを行い、ここに工事開始の前提手続きが全て終了するが、3大橋を含む伊勢湾岸道路の都市計画決定を見たのは1979年(昭和54年)8月10日であった。 この都市計画決定に先立って横断ルートの変更が行なわれた。この時までのルートは、1964年(昭和39年)の立案ルートに若干の修正を加えたもので、東海 - 西二区間はカーブがない東西一直線であった。金城ふ頭や南1区で既に用地確保がされている等の理由からである。今回はこれを再度変更するもので、理由は石油関連企業が密集する9号地では防災上の問題があり、「危険物の規制に関する政令」の改正もあって、防災上の保安距離を確保するためである。決定は1979年(昭和54年)3月である。 都市計画決定ののち、以前から懸念されていた中央大橋の橋梁形式を再検討する意見が強まった。中央大橋は当初は水域内に主塔が1本のみで計画され(もう1本は9号地に設置)、これは船舶の航行条件による制約であった。このため橋長1560 m、中央径間780 mと規模が大きいために吊橋式で計画された。吊橋はケーブルの張力を得るためにアンカーブロックとケーブルを連結させる必要があるが、通常は堅固な地盤に設置されるべきアンカーブロックが、当該区域は軟弱地盤であることから基礎地盤の変形にともなうアンカーブロック傾斜の危険性が以前から指摘されていた。そして中央径間が長すぎることは事業費が多額で、有料道路事業における採算性に問題があること、および9号地(現・潮見ふ頭)に計画されているインターが片方向アクセスとなってサービスレベルダウンとなることが問題視された。そこで、アンカーブロックの支持層の負担軽減、および9号地インターの双方向アクセスを実現するために橋梁規模を縮小することになり、航路の変更について海事関係者と協議した結果、了解を得た。これによって主塔は水域内に2本設置することが可能となり、併せて橋長が1170 mに短縮された。橋梁規模縮小により斜張橋の選択も可能となり、最終的に工期や経済性に優れる斜張橋式が選択された。これらは1985年(昭和60年)5月に正式決定をみた。 ところで、名古屋港には海底トンネルが少なくとも2本設けられている。1本目は、木曽川近辺に位置する笹川取水場から知多浄水場に送水するための導水路で、1960年代における知多半島の水需要の増加によって、従来の愛知用水からの供給では間に合わなくなっていたことから設けられたものである。建設にあたり、ルート候補の一つに名古屋環状2号線の海上区間(名港トリトン区間)が挙げられた。名古屋環状2号線に添架できればそれに越したことはないが、計画当時は海上区間の施工時期が未定で、仮に海上横断が橋梁方式となった場合は橋に載せる導水管の構造が複雑化するうえ、海面から約50 mの高さまで揚水する必要があるなど問題点が多く、当該候補は早々と却下されている。なお、海底トンネルは飛島ふ頭と東海元浜ふ頭の間で敷設された。このほか、名古屋港には、知多第二火力発電所(愛知県知多市)から西名古屋火力発電所(愛知県海部郡飛島村)まで天然ガスを送るパイプラインを収容する延長4.6 kmの海底トンネルが存在する。
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