杜弢との攻防
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この時期、司馬睿は江州を勢力下に収めていたが、その上流に当たる荊州・湘州の大部分は杜弢率いる流民の蜂起によって占拠されていた。司馬睿は陶侃に杜弢討伐を命じ、振威将軍の周訪と広武将軍の趙誘をその指揮下に置いた。陶侃は二将を前鋒とし、兄の子である陶輿を左翼に配置して杜弢を攻撃し、これを破った。 建興元年(313年)、荊州刺史の周顗は潯水城で杜弢の兵に包囲された。陶侃は配下の朱伺を救援として派遣し、杜弢は泠口まで退いた。陶侃は諸将に対し「賊は必ずや陸路より武昌に向かうであろうから、我は城に還らねばならぬ。昼夜を徹すれば三日で行くことができるが、卿等の中でこの飢えに耐え得る者はいるか」と問うと、武将の呉奇は「もし十日飢えを凌ぐ必要があるならば、昼に賊を撃ち、夜には魚を捕れば、双方とも事足ります」と言ったので、陶侃は「卿こそ勇健なる将軍である」と喜んだ。陶侃は近路を通って迅速に行軍し、武昌に到着すると周囲に兵を伏せた。果して賊軍は兵を増して攻め寄せてきたが、陶侃は伏兵の朱伺らに一斉に反撃させ、これを大破した。これにより輜重を奪い、多数の敵兵を殺傷した。陶侃は参軍の王貢を派遣し、王敦へ戦勝報告をさせると、王敦は「もし陶侯がいなければ、すぐに荊州を失っていたであろう。伯仁(周顗の字)は荊州に着任した途端に、賊軍に敗れおった。彼がどうして刺史たりえるであろうか」と言うと、王貢は「我らが荊州はまさに多難の時期であり、陶龍驤のほかに治められる者はおりません」と答えた。王敦はこれに同意し、すぐに上表して陶侃を使持節・寧遠将軍・南蛮校尉・荊州刺史に任じた。また、西陽・江夏・武昌の三郡を統治を任せ、沌口を鎮守させた。その後、沔口に移った。 陶侃は朱伺を派遣して江夏の賊を討伐させて、彼らを尽く滅ぼした。当時、賊の王沖は荊州刺史を自称し、江陵を占拠していた。参軍の王貢は陶侃のもとへ戻る途上に竟陵に至った時、陶侃の命と偽って杜曾を前鋒大都護に任命し、軍隊を進軍させて王沖を斬り、その衆を尽く降伏させた。 陶侃は杜曾を召喚したが、彼は応じなかった。王貢は偽りの命を下したために罰せられることを恐れ、遂に杜曾と共に反乱を起こした。王貢は沌陽において陶侃の参軍である鄭攀を攻撃して討ち破り、さらに朱伺を沔口で破った。陶侃は準備に後退して守りを固めようとしたが、部下の張奕は陶侃に背こうと謀り「賊が至っているのに軍を動かすのは、決して良いことではありません」と偽りの進言をした。陶侃はこれを聞くと心中に迷いが生まれ、兵を留めて時機を待つことにした。だが、しばらくして王貢軍が至ると、陶侃は大敗を喫した。賊軍は陶侃の船に鉤を掛けたが、陶侃は運良く小船に移って脱出することが出来た。さらに、朱伺が苦しみながらも奮戦を続けた為、陶侃はどうにか難を逃れることが出来た。混乱の最中に張奕は賊に投降した。この敗戦により、陶侃は免官を命じられたが、王敦は上表して陶侃を無官のままで職務を継続させた。 陶侃は再び周訪らを率い、進軍して湘州に至った。都尉の楊挙を先鋒として杜弢を攻撃し、これを大破した。その後、軍を城西に駐屯させた。陶侃配下のある佐史(刺史の属官)が王敦の下を訪れると「州将である陶君は孤児の身から立ち、次第に名を上げ、その功績を各地に残しました。南夏(荊州)に出征して劉征南(劉弘)を補佐し、前に張昌、後に陳敏という難に遭遇しましたが、陶侃は単独で彼らに立ち向かい、勝利しない戦は一つとして無く、諸々の賊を滅ぼしました。その後、王如が北方を乱し、杜弢が南方に跨り、両者は奔走して星の如く一州を駆け、他の郡県は土が崩れるように崩壊しました。陶侃は礼を以って賢者を招き、徳を以って遠方を懐け、子が慕って来るかの如く、人々が続々と集まりました。命が下されると、単独で死地の防衛に当たりましたが、誰一人動じず、誰一人離散しませんでした。軍の統領となると、直ちに湘城に至り、その志は雲霄をしのぎ、機知を一人の力で巡らせました。ただ、その兵は少なく食糧に懸念があり、結果として勝利を告げることができませんでした。しかしながら、夏口へ逃げ帰った杜弢が不安から建平の流民等と共に反乱を起こすと、陶侃はすぐに軍を返して長江を遡り、悪人どもを平らげました。荊州の西門は鍵を掛ける必要も無く、中華全土の憂いを取りん除いたのは、陶侃の功績であります。明将軍は荊・楚の民を愍れみ、塗炭の苦しみより救わんと思い、陶侃を派遣して窮した生き残りの者を統率させ、凍える者には衣服を、飢える者には食を与えられましたので、家々は互いに君の温情に喜び、あたかも身に綿を付けているようあります。江浜は孤立して危機にあり、地は険阻ではなく、一軍のみでこの地を固守するのは難しい故に、高所に移って要衝を避けました。賊は我々を軽んじて先に至り、大軍が後に続きましたが、陶侃はこれを幾日も阻み、遂に将帥を討ちました。賊はやがて犬羊の如き者共と結託し、兵を併せて来寇しましたが、陶侃は忠臣の節義を持ち、退いて顧みることは無く、堅い鎧を着け鋭い武器を持ち、身をもって敵に当たりました。将士は奮撃し、命を守らない者はおりませんでした。敵の死者は数えきれないほどになりましたが、賊軍は交互に休み、交互に戦いました。対して陶侃は一軍しか率いておらず、力を尽くしても守りきれず、軍を全うすべきだと考え、機を待ちました。しかしながら、主者は陶侃の責を咎め、重い黜削(身分を下げ、官位を削る事)を加えられました。陶侃は謙虚な性格で、功を挙げればすぐさま身を退き、今受けた物を奉還する覚悟であり、ただそれが遅くなることを恐れております。それがしは取るに足らない者でありますが、彼が罰せられることで、内では道理が失われ、外では賊に敗れるのを恐れます。些細な事でも影響は千里に広がり、荊州の蛮族のさらなる離反を招きます。これにより西の片隅を守る事はできず、『唇亡びて歯寒し』の譬えのように中央に危険を及ぼします。彼らの侵略に限りはありません」と懇願した。これを聞いた王敦は上奏して、陶侃の官職を復活させた。 杜弢は王貢に三千の精鋭を与えて武陵に出撃させた。王貢は五渓蛮を誘い、船団をもって官軍の水路を断ち、すぐさま武昌へ向かった。陶侃は鄭攀と伏波将軍の陶延を夜中に巴陵へ行軍させ、奇兵を用いて敵の不意を衝き、これを大破した。千人余りの首を斬り、一万人余りを降伏させた。王貢は湘城へ撤退した。反乱軍の内部では不和が生じ、杜弢は張奕を疑ってこれを殺害した。彼の部下たちは益々不安に駆られ、降伏者は日増しに増えた。 王貢が再び来寇してくると、陶侃は遠くから彼へ「杜弢は益州の小役人に過ぎないのに、官庫の金銭を盗用し、父が死んだにも関わらず喪に駆けつけなかった。汝は本来常識をわきまえた人であるのに、何故あのようなでたらめな者に従うのか。この天下において、天寿を全う出来た反徒がいたと思うか」と語った。王貢は最初馬の背上にて脚を横に架け、傲慢で無礼な態度を取っていた。だが、陶侃の言葉が終わると、王貢は粛然として脚を下へ着けて姿勢正しく座り、言動や顔色は甚だ従順であった。陶侃は彼の心が動いたと知ると、再びこれを説得し、髪を切って誓いを立てると、王貢は遂に降伏した。杜弢は王貢の降伏を知ると大いに驚き、一目散に敗走した為、陶侃は軍を進めて長沙を攻め落とし、将軍の毛宝・高宝・梁堪らを捕らえた後に帰還した。杜弢の乱は遂に平定された。
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