杜弢との攻防とは? わかりやすく解説

杜弢との攻防

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 08:59 UTC 版)

陶侃」の記事における「杜弢との攻防」の解説

この時期司馬睿江州勢力下に収めていたが、その上流に当たる荊州湘州大部分杜弢率い流民蜂起によって占拠されていた。司馬睿陶侃杜弢討伐命じ、振威将軍周訪広武将軍趙誘をその指揮下に置いた陶侃は二将を前鋒とし、兄の子である陶輿を左翼配置して杜弢攻撃し、これを破った建興元年313年)、荊州刺史周顗は潯水城杜弢の兵に包囲された。陶侃配下伺を救援として派遣し杜弢は泠口まで退いた陶侃諸将対し「賊は必ずや陸路より武昌に向かうであろうから、我は城に還らねばならぬ昼夜徹すれば三日で行くことができるが、卿等の中でこの飢え耐え得る者はいるか」と問うと、武将の呉奇は「もし十日飢え凌ぐ必要があるならば、昼に賊を撃ち夜にを捕れば、双方とも事足ります」と言ったので、陶侃は「卿こそ勇健なる将軍である」と喜んだ陶侃は近路を通って迅速に行軍し武昌到着する周囲に兵を伏せた果して賊軍は兵を増して攻め寄せてきたが、陶侃伏兵伺らに一斉に反撃させ、これを大破した。これにより輜重奪い多数敵兵殺傷した陶侃参軍王貢派遣し王敦戦勝報告をさせると、王敦は「もし陶侯がいなければ、すぐに荊州失っていたであろう伯仁周顗の字)は荊州着任した途端に賊軍敗れおった。彼がどうして刺史たりえるであろうか」と言うと王貢は「我ら荊州はまさに多難時期であり、陶龍驤のほかに治められる者はおりません」と答えた王敦はこれに同意し、すぐに上表して陶侃を使持節寧遠将軍南蛮校尉荊州刺史任じたまた、西陽江夏武昌の三郡を統治任せ、沌口を鎮守させた。その後、沔口に移った陶侃伺を派遣して江夏の賊を討伐させて、彼らを尽く滅ぼした当時、賊の王沖荊州刺史自称し江陵占拠していた。参軍王貢陶侃のもとへ戻る途上竟陵至った時、陶侃の命と偽って杜曾前鋒大都護に任命し軍隊進軍させて王沖を斬り、その衆を尽く降伏させた。 陶侃杜曾召喚したが、彼は応じなかった。王貢偽りの命を下したために罰せられることを恐れ遂に杜曾と共に反乱起こした王貢は沌陽において陶侃参軍である鄭攀を攻撃して討ち破り、さらに伺を沔口で破った陶侃準備後退して守り固めようとしたが、部下張奕陶侃背こう謀り「賊が至っているのに軍を動かすのは、決し良いことではありません」と偽りの進言をした。陶侃はこれを聞く心中迷い生まれ、兵を留め時機を待つことにした。だが、しばらくして王貢軍が至ると、陶侃大敗喫した賊軍陶侃の船に鉤を掛けたが、陶侃は運良く小船移って脱出することが出来た。さらに、伺が苦しみながらも奮戦続けた為、陶侃はどうにか難を逃れることが出来た混乱最中張奕は賊に投降した。この敗戦により、陶侃免官命じられたが、王敦上表して陶侃無官のままで職務継続させた。 陶侃は再び周訪らを率い進軍し湘州至った都尉の楊挙を先鋒として杜弢攻撃し、これを大破したその後、軍を城西駐屯させた。陶侃配下のある佐史(刺史属官)が王敦の下を訪れると「州将である陶君孤児の身から立ち、次第に名を上げ、その功績各地残しました。南夏(荊州)に出征して劉征南(劉弘)を補佐し前に張昌、後に陳敏という難に遭遇しましたが、陶侃単独で彼らに立ち向かい勝利しない戦は一つとして無く諸々の賊を滅ぼしました。その後王如北方乱し杜弢南方に跨り、両者奔走して星の如く一州駆け、他の郡県は土が崩れるように崩壊しました陶侃は礼を以って賢者招き、徳を以って遠方懐け、子が慕って来るかの如く人々続々集まりました。命が下されると、単独死地防衛当たりましたが、誰一人動じず誰一人離散しませんでした。軍の統領となると直ちに湘城に至り、その志は雲霄をしのぎ、機知一人の力で巡らせました。ただ、その兵は少なく食糧懸念があり、結果として勝利を告げることができませんでしたしかしながら夏口逃げ帰った杜弢が不安から建平流民と共に反乱を起こすと、陶侃はすぐに軍を返して長江遡り悪人どもを平らげました荊州西門は鍵を掛ける必要も無く中華全土憂い取り除いたのは、陶侃功績であります。明将軍の民を愍れみ塗炭の苦しみより救わんと思い陶侃派遣して窮した生き残りの者を統率させ、凍える者には衣服を、飢える者には食を与えられましたので、家々互いに君の温情喜びあたかも身に綿を付けているようあります。江浜は孤立して危機にあり、地は険阻ではなく一軍のみでこの地を固守するのは難し故に高所移って要衝避けました。賊は我々を軽んじて先に至り大軍が後に続きましたが、陶侃はこれを幾日阻み遂に将帥討ちました。賊はやがて羊の如き者共結託し、兵を併せて来寇しましたが、陶侃忠臣節義持ち退いて顧みることは無く堅い鎧を着け鋭い武器持ち身をもって敵に当たりました将士奮撃し、命を守らない者はおりませんでした。敵の死者数えきれないほどになりましたが、賊軍交互に休み交互に戦いました対して陶侃一軍しか率いておらず、力を尽くして守りきれず、軍を全うすべきだと考え、機を待ちましたしかしながら、主者は陶侃の責を咎め、重い黜削(身分下げ官位を削る事)を加えられました。陶侃謙虚な性格で、功を挙げればすぐさま身を退き、今受けた物を奉還する覚悟であり、ただそれが遅くなることを恐れておりますそれがし取るに足らないでありますが、彼が罰せられることで、内では道理失われ、外では賊に敗れるのを恐れます。些細な事でも影響千里広がり荊州蛮族さらなる離反招きます。これにより西の片隅を守る事はできず、『唇亡びて歯寒し』の譬えのように中央に危険を及ぼします。彼らの侵略限りはありません」と懇願した。これを聞いた王敦上奏して、陶侃官職復活させた。 杜弢王貢三千精鋭与えて武陵出撃させた。王貢は五渓蛮を誘い船団をもって官軍水路断ちすぐさま武昌向かった陶侃は鄭攀と伏波将軍の陶延を夜中に巴陵へ行軍させ、奇兵用いて敵の不意を衝き、これを大破した千人余りの首を斬り、一万余り降伏させた。王貢は湘城へ撤退した反乱軍内部では不和生じ杜弢張奕疑ってこれを殺害した彼の部下たちは益々不安に駆られ降伏者は日増しに増えた王貢が再び来寇してくると、陶侃遠くから彼へ「杜弢益州小役人に過ぎないのに、官庫金銭盗用し、父が死んだにも関わらず喪に駆けつけなかった。汝は本来常識わきまえた人であるのに、何故あのようなでたらめな者に従うのか。この天下において、天寿全う出来た反徒がいたと思うか」と語った王貢最初馬の背上にて脚を横にけ、傲慢無礼な態度取っていた。だが、陶侃言葉が終わると、王貢粛然として脚を下へ着け姿勢正しく座り言動顔色甚だ従順であった陶侃彼の心が動いたと知ると、再びこれを説得し、髪を切って誓い立てると、王貢遂に降伏した杜弢王貢降伏を知ると大い驚き一目散に敗走した為、陶侃は軍を進めて長沙攻め落とし将軍毛宝高宝堪らを捕らえた後に帰還した杜弢の乱遂に平定された。

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