村岡川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 16:48 UTC 版)
現在、宇田川と呼ばれる川は、第二次大戦後まで村岡川という名称であった。村岡という地名は現在、藤沢市東部の柏尾川北岸に村岡東として残る。『新編相模国風土記稿』の原宿村(現戸塚区)の項には、「抑村岡郷は鎌倉七郡の一なり、此地名最古く聞えし唱にて高望王始て平氏を賜ひ、総介に任せらる、上の五男良文始て当郷に住せ□をもて村岡五郎と称呼せり」とある。同書の渡内村(現藤沢市)の項には、「村岡五郎良文宅跡」と題された記述があり、村岡(平)良文、村岡忠道、鎌倉景成、鎌倉景政らが代々居住したところであるとの旨を伝える。『藤沢の地名』は藤沢市宮前の南町稲荷社付近の小地名である古館が彼らの居館の地であるとの伝承、鎮守府将軍として都から東国へ下向した後、当地方へ移り住んだ平良文により村岡城が築城されたのが村岡の起源であるとの伝承、藤沢市宮前の御霊神社はその良文により天慶3年(940年)に勧請され総鎮守となったとの伝承、良文の家系に連なる村岡五郎忠道、鎌倉源五郎景政が村岡と呼ばれる地域を治めたとの伝承を伝える。 汲沢を流れる村岡川という名称については、旧汲沢町字一丁ヶ谷小字五三枚が村岡良文によって開墾され、そこに源を発する村岡川もまた良文と関係するとの旨の伝承がある。室町期、玉縄城主北条綱成の知行地であり汲沢もその一部であると比定される「村岡上」という地名、あるいは、宮前御霊神社を勧請し創建された汲沢五霊神社の祭神である村岡良文、村岡公致、村岡致成という人名の存在に加え、『新編相模国風土記稿』も鎌倉郡の11郷を概説する中で村岡郷の「管する村十六」として、原宿、深谷、汲沢、高谷、小塚、宮前、弥勒寺、東俣野、上俣野、柄沢、城廻、関谷、植木、岡本、渡内、山谷新田を挙げる。 『皇国地誌』は汲沢村の項に以下のように記す。「村岡川 源は本村西北の方、中田村山間に発し、潺々たる小流の末、或いは村内北の方、耕地に起り、其支流数条を合併し、西の方、字畑田に至りて、始めて川となる。屈曲して湾流すること十二町三十間にして、西南の方、深谷村に入る。幅広き処八間、狭き処三間、最も深き処一丈二尺、浅き処三尺、水勢緩にして清し。舟筏通せず。」まさがりが淵の滝についての言及はないが、これは深谷村の項においても同様である。1970年代に入り名称の変更があったが、それに対して『汲沢小史』は、村岡良文の子孫にして三浦義明の弟、芦名三郎為清を祖と仰ぐ著者 の写真も入る前書きにおいて、「数年前より横浜市の事業の一つとして宇多川改修が上がっておりますが、宇多川とは何時、誰が改名したか、歴史を知らぬ行政の落度として、地元の人は憤慨しております。」と怒りを露わにしている。 村岡川を中心に、流域の深谷、原宿、汲沢、中田各村の草創について論じた郷土史家による論文がある。そのなかで著者は、平安時代の終わり、新興勢力である武士が開墾を行うことで村岡川およびその近隣に俣野、飯田、長尾、村岡などの郷が新たに生まれたとはいえ、『新編相模国風土記稿』に「閑地」と表現されるような開拓が不十分なままの土地が狩猟や採集の場として広く残されており、利用に際しての優先度合いが徐々に決まっていったにせよ、「閑地」がそのような郷と郷との間の境としての役目を担うこととなったとの旨を述べる。そのうえで、深谷、原宿、汲沢、中田の名が鎌倉時代から室町時代の資料に見られない理由を「村岡川の流域も似たような閑地として存在し」ていたことに求める。さらに著者は、時代が下り室町末期の戦国時代になってようやく、実力と実利がものを言う時代背景もあって村岡川一帯の開発が進んだことから、「閑地は消滅して郷も細分化され、新たに境界を定めた近世村落への形成へと移行」したとするとともに、「村岡川流域の開発は、中世から近世への移行過程における地域的歴史現象」と位置づけ、そのような移行過程において「流域の閑地は玉縄城主の所領となり、村岡郷に編入されて細分化が進み、郷から自立し近世四ヶ村の誕生へと移行した。」とまとめる。そして、『汲沢往来』等に伝えられ、今なおこの地に子孫が居住する「草分け祖先へと遡る開発の歴史」を有するからこそ、村岡川という名称に対する地元の人々の深い思いがあるとの認識を示している。 『皇国地誌』では深谷村より上流が村岡川と呼称されていたのにもかかわらず、宇田川と公的に呼ばれていることに対する異議は平成14年(2002年)、旧中田村地域の河川愛護団体「なかだ村岡川愛護会」による横浜市泉区長への申し入れという形をとる。区長を通じて回答を寄せた神奈川県は、横浜市下水道局発行の資料を基に、宇田川との名称が下流部分へ堰を大正期に建設した宇田氏の功績をたたえるものであるとしつつ、「昭和46年に神奈川県が管理する二級河川として指定した際、法の規定に基づき、横浜市長の意見をきいたうえで、その名称を「宇田川」として公示したものです。」と決定の経緯を説明。さらに、河川名称の変更手続きに関し、市町村議会の議決を踏まえた市町村長の意見をきいたうえで県が変更、公示することになるとの旨を述べ、「「宇田川」を変更したいというご提案でしたら、まずは、流域の皆様や市におきまして、合意形成を図っていただくことが必要であると考えております。」と回答している。 旧村岡川沿いに昭和52年(1977年)横浜市によって創立されたのが市立汲沢中学校であるが、七五調文語文で書かれた校歌では、この川のことが、「村岡川」でも「宇田川」でもなく、「白雲なびく汲沢に 歴史を刻む柏尾川」と詠まれている。作詞者は作詞当時新聞記者であり、葛野小学校の校歌も作詞している。
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