五霊神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 16:48 UTC 版)
神奈川県神社庁によると元亀2年(1571年)、当時の汲沢村が村岡郷に属していたことから、同郷の総鎮守であった宮前村(現在の藤沢市宮前)の御霊社を勧請して創建。村岡良文、村岡公致、村岡致成を祭神とするが、後に鎌倉景成、鎌倉権五郎景政を合祀。祭神が五柱となったことに伴い、五霊神社と称される。慶長2年(1580年)、社殿を再興した際に、氏子から松苗を集めて境内に植林したという。 創建事情について『汲沢往来』は「鎮守五霊権現勧請ハ慶長二年丁酉九月十九日也、宝寿院桂順の代、七条袈裟上に当来り、宮の前村より」とし、汲沢が「元ハ村岡と申也、百姓十二、三軒なり、松苗十二本ヅツ植付申候」と伝えるといい、五霊神社と宝寿院の創建についての同書の記録を合わせ読むと、「室町末期の戦国時代(天正年中)に古義真言宗の修験が村(汲沢)に住み着き、村人(森家や石井家)の支援により寺(宝寿院)や社(御霊神社)を創建していく様子が具体的に記されている」と解釈されるとともに、御霊神社の分布と、境川の氾濫に関係するサバ神社の分布とが異なるとする説がある。『汲沢小史』は勧請時に宮前まで赴いた12名の名前を伝えている。鎌倉権五郎景政を祀る御霊神社は、名称の変更を伴うものも含め、旧鎌倉郡を中心に神奈川県内に14か所現存する。関東平家五家、すなわち村岡、鎌倉、梶原、大庭、長尾の各氏の祖神として武運長久や子孫繁栄を願って設けられ、宮前御霊社の由来を伝える文書に記された霊験の数々を見るとさらに、江戸時代には国津罪からの除罪や除災、除病などの万能神として広く民衆に信仰されていたことがうかがえるという。 慶長年間に植えられた松のうちの2本については、『皇国地誌』に「社地中老松二株アリ蓋シ四百年余ノモノナリ」との記録があり、うち1本は御神木として第二次世界大戦後まで残ったが現存しない。鎌倉郡役所文書では、明治12年(1880年)「神社明細帳」に五霊神社についての記載も見られるほか、「神職名簿」にも資料が残る。鳥居3基のならぶ石段脇には、日露戦役凱旋記念と記された狛犬、青蔦戦役凱旋記念と刻まれた灯篭が配置されるほか、江戸中期から昭和に至るまでの石造物が数多く残されている。境内上部には昭和57年(1982年)に竣工した社殿が立つ。樹齢180年樹高30mのモミノキがあり、横浜市の名木古木として指定されている。
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