日本での国際電信事業
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「GN (デンマークの企業)」の記事における「日本での国際電信事業」の解説
1869年6月、デンマークがロシアと組んでリバウ経由の両国間ケーブルが竣工した。この事業でロシアから信用を得た。このころインド・中国・東南アジアのケーブル事業はイギリスが掌握し、ロシアのシベリアケーブルが内陸から接続するのを許さなかった。そこでロシアは、大東電信会社と協定し香港以北を営業圏に収めた大北電信会社をパートナーに、ウラジオストクから日本経由で中国へケーブル事業を進出させようと試みた。 1870年から日本と交渉するようになったが、後にハリー・パークスまで進出を支援した。具体的には、外務省にせっついて長崎-東京間の電信線を1871年9月に着工させている。なお、このときの器械はオリエンタル・バンクに注文されていた。 日本への進出 1871年(明治4年)、後に長く社長を務めたエドゥアルド・スエンソンを責任者として長崎-上海間、次いで長崎-ウラジオストク間の海底ケーブルを敷設し、日本の国際電信事業を開始した。さらに、翌年開通した欧亜陸上電信線経由で日欧間の通信が始まった。国際通信主権をめぐっては日本側から抵抗に遭い、1878年に国際電報営業権を日本政府へ返還する。 アジア大陸・朝鮮半島との対外通信の独占 1883年(明治15年)、日本政府は、当時急がれていた朝鮮半島との通信確保のため、同社に呼子-釜山間の海底ケーブル敷設を要請し、その実現と引き換えに前年の特許状で20年間のアジア大陸や朝鮮半島との通信事業の独占権を与えた。その6条は独占域で「官線」の敷設を禁じている。同条では、ロシア又は清が延長を認めた場合にはさらに10年間延長されることとされており、実際に延長された。1884年(明治16年)11月に呼子-壱岐-対馬-釜山間の海底ケーブルの敷設が完了した。 なお、1904年2月の日露戦争において、ロシア政府は万国電信条約第8条により長崎-ウラジオストク間のケーブルを無期限停止する旨を各国に通知した。また、ロシア国内は大北線が維持されていた。 陸揚権の無期限化 1913年(大正2年)8月、長崎-上海間に日本が同社線とは別の海底ケーブルを敷設すること(ただし、取り扱いは和文(片仮名)電報及び日本と中華民国との官報(政府間に発受する電報)に限られた。)、樺太及び朝鮮半島で日露間陸上電信線の架設を認めることと引き換えに、同社の陸揚権を認めること、日本-中華民国間通信から生じる収益は合併計算とし、過去3年間の実績による同社の収入を補償する分配率(長崎-上海間に日本が敷設した海底ケーブルの収益の64.6%を得る)とすること等からなる協定が締結された。協定には期限が明記されなかった。大北側の主張により、免許状ゆえ無期限と解釈された。その結果、引き続き国際電信の大部分は同社に依存することとなり、日本が支払う通信料は膨大なものとなった。 陸揚権の返還 ナチス・ドイツによるデンマーク占領(ヴェーザー演習作戦)の翌月となる1940年(昭和15年)5月、日本政府との協議により、日本における海底ケーブルの陸揚権は1943年(昭和18年)4月をもって終了すること、それまでの間、同社所有の日本領土・領海内の施設は日本(逓信省)が運営し、期限満了後は同社の負担で撤去することとされた。実際には、1941年(昭和16年)12月に長崎-上海間、1942年(昭和17年)1月に長崎-ウラジオストク間の海底ケーブルの運用が停止された。 終戦後 1947年(昭和22年)11月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から、「長崎-上海間及び長崎-ウラジオストク間海底ケーブルの長崎側の諸施設を1940年5月の約定前の状態に復すべし」との覚書が出され、日本政府の負担で復旧。長崎-ウラジオストク間については1948年(昭和23年)11月に1回線の運用が再開、1955年(昭和30年)12月にもう1回線が再開された。この際、既に米英の通信会社による回線により、大部分の通信が可能となっていたことから、大北の通信対地は北欧を中心とするヨーロッパに限られることとなった。なお、長崎-上海間については国共内戦の影響もあり再開されず、1949年に上海駐在員を引き揚げた。 1954年(昭和29年)5月の協定により、長崎局の施設すべて及び日本の領海(当時3海里)内の海底ケーブルを国際電信電話(KDD)に無償譲渡するとともに、1953年(昭和28年)実績の語数を超える分の料金の分収率については両社平等とすることとなった。 1967年(昭和42年)8月の協定により、同社とKDDは直江津(上越市)-ナホトカ間に電話換算120回線の海底同軸ケーブルを新設することで合意し、1969年(昭和44年)8月に日本海ケーブル(JASC)として運用開始。これにより長崎-ウラジオストク間は廃止された。なお、JASCは1995年(平成7年)7月24日に運用停止されたが、その後継として同年1月に運用開始したR-J-Kケーブル(英語版)(ロシア・日本・韓国の英語頭文字を取り、直江津-ナホトカ間及び途中分岐して釜山を結ぶ海底光ケーブル)はロステレコム(英語版)、KDD及び韓国通信(現KT)が運用し、大北は子会社を通じた参加に留まった。
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