指定護国神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 09:59 UTC 版)
指定護国神社は、1939年(昭和14年)4月1日の「護國神社指定」(昭和14年内務省告示第142號)により内務大臣が指定した下記34社の護国神社で、以後必要に応じて追加指定され、太平洋戦争(大東亜戦争)末期までに51社が指定された。このほかに内務大臣指定護国神社に相当する、樺太庁長官指定の樺太護國神社(豊原市)、台湾総督指定の台湾護國神社(台北市)、朝鮮総督指定の京城護國神社(京城府)及び羅南護國神社(清津府)が存在した。 神社名鎮座地(指定当時、官報記載順)北海道護國神社 北海道旭川市字近文 札幌護國神社 北海道札幌市南十三條南十四條西四丁目 函館護國神社 北海道函館市汐見町 京都靈山護國神社 京都府京都市東山區淸閑寺靈山町 兵庫縣姫路護國神社 兵庫縣姫路市本町 埼玉縣護國神社 埼玉縣北足立郡大宮町 栃木縣護國神社 栃木縣宇都宮市相生町 三重縣護國神社 三重縣津市大字下部田 愛知縣護國神社 愛知縣名古屋市西區南外堀町六丁目 靜岡縣護國神社 靜岡縣靜岡市北番町 滋賀縣護國神社 滋賀縣彦根市尾末町 濃飛護國神社 岐阜縣大垣市郭町 長野縣護國神社 長野縣松本市大字桐 宮城縣護國神社 宮城縣仙臺市字川内壱番 福島縣護國神社 福島縣福島市駒山 岩手護國神社 岩手縣盛岡市志家 靑森縣護國神社 靑森縣弘前市大字下白銀町 山形縣護國神社 山形縣山形市宮町 秋田縣護國神社 秋田縣秋田市上中城町 石川護國神社 石川縣金澤市出羽町一番丁 富山縣護國神社 富山縣富山市安野屋町 鳥取縣護國神社 鳥取縣鳥取市上町 松江護國神社 島根縣松江市殿町 濱田護國神社 島根縣那賀郡濱田町 岡山縣護國神社 岡山縣岡山市門田 廣島護國神社 廣島縣廣島市基町 福山護國神社 廣島縣福山市三之丸町 和歌山縣護國神社 和歌山縣和歌山市一番丁 德島縣護國神社 德島縣德島市德島町 愛媛縣護國神社 愛媛縣松山市新立町一丁目 高知縣護國神社 高知縣長岡郡五臺山村 大分縣護國神社 大分縣大分郡東大分村 佐賀縣護國神社 佐賀縣佐賀市松原町 鹿兒島縣護國神社 鹿兒島縣鹿兒島市山下町 指定護国神社は1府県1社を原則として指定されたが、崇敬地域の広い北海道は3社が指定され、岐阜県・兵庫県・島根県・広島県は2社が指定された。これは、県内に複数の陸軍聯隊区が存在して各々の地元意識が強く、県内1箇所に調整できなかったことに起因する。例えば広島県の場合、福山市(備後国、歩兵第41聯隊)と広島市(安芸国、歩兵第11聯隊)にそれぞれ1社ずつ存在する。なお、全国の英霊を祀る靖国神社のある東京都には指定護国神社は存在しない。また、社名については指定護国神社以外は道府県名を冠することが出来ない。なお、指定護国神社の中で社名に道府県名を冠していない県は島根県のみである。 このうち、神奈川縣護國神社、宮崎縣護國神社、熊本縣護國神社の3社は1945年(昭和20年)8月15日時点で完成に至らず、日本の敗戦に伴い造営が中止された。 神奈川縣護國神社は、1942年(昭和17年)7月27日、横浜市神奈川区三ツ沢西町・南町(現在の三ツ沢公園)に創立許可を得て社殿造営が開始されたが、完成間近の1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲により焼失した。第二次世界大戦後も再建されず、神奈川縣護國神社跡地には、1953年(昭和28年)3月に横浜市戦没者慰霊塔が建てられた。また、同年11月5日竣工した神奈川県戦没者慰霊堂(横浜市港南区最戸)には戦没者及び戦災死者5万8千余名の名簿が納められ、毎年5月10日に神奈川県主催の神奈川県戦没者追悼式が行われるほか、多宗教による合同祭祀が行われている。なお、神奈川県内での護国神社の役割は横浜市西区宮崎町に鎮座する伊勢山皇大神宮(神奈川県宗社・横浜総鎮守)が担っており、1879年(明治12年)に境内に建立された、西南戦争での神奈川県出身戦没者の慰霊碑である「明治十年西征陣亡軍人之碑」は「野毛山招魂社」と呼ばれ、秋には県主催の神奈川県戦没者慰霊祭が執り行われていた。大正期には、県の殉職警察官・消防官の慰霊祭も行われ、その奉納行事として撃剣競技の大会も開催された。戦時下になると、県主催の戦勝祈願祭や戦勝奉告祭が度々行われた[要出典]。2012年(平成24年)、有志により「神奈川縣護國神社を再創建する會」が組織され、2018年(平成30年)5月29日に神奈川縣護國神社が仮宮として創建、2020年(令和2年)12月5日に鎌倉市台4-1199-19の地に鎮座(遷座)している。 宮崎縣護國神社は、1943年(昭和18年)4月23日、宮崎市下北方町に創立許可を得て造営に着手したが、勤労奉仕による整地作業が終わり建築用材及び建設資金を集めた時点で終戦を迎えたため、GHQ宮崎軍民政部長官の厳命で建設放棄を余儀なくされた。主権回復後の1953年(昭和28年)4月に宮崎県護国神社再建奉賛会を組織して再建に着手し、宮崎神宮の境内に建設された。1955年(昭和30年)3月10日竣工、同日鎮座祭が斎行された。 熊本縣護國神社は、花岡山招魂社から改称して、新社殿建設のため熊本市黒髪町立田山山麓に県民奉仕により1万坪の新社地を造営し、1944年(昭和19年)3月5日に内務大臣の許可を得て新社殿の造営に着手したが、終戦に伴い中止された。1953年(昭和28年)5月11日、造営予定地だった立田山山麓から現在地の藤崎台招魂祭場跡に造営敷地が変更された。1955年(昭和30年)1月7日に熊本県護国神社御造営奉賛会が設立されて同年10月着工、1957年(昭和32年)4月末に竣工。同年5月10日に御鎮座大祭が斎行された。
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