審判時代
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1955年にパ・リーグ審判部に入局、以後30年パ・リーグ審判を務めた。1974年~1976年には審判部長。審判員袖番号は16(1977年初採用から1981年病気による引退まで、16は1983年から2010年まで山本隆造がつけている。)。 日本シリーズには11回、オールスターには5回出場している。 1981年に脳血栓で倒れ、引退。その後再起を果たし1987年アマ資格を取得、スポーツニッポン野球教室講師を務めるなど社団法人少年軟式野球国際交流協会に勤務し少年野球の指導を続けた。最晩年には、マスターズリーグの規則委員を務めた。 2005年7月25日死去。享年84。
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審判時代
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引退後すぐ、パ・リーグ審判部に入局。審判に就任した年齢は遅いが、2005年にはオールスター・日本シリーズにダブル出場を果たすなど、パ・リーグでは出場の多い審判の一人である。 2018年シーズン終了時点で、公式戦2018試合。オールスター4回(1998年、1999年、2005年、2014年。内1998年第1戦で球審)、日本シリーズ6回出場(2000年、2005年、2006年、2008年、2012年、2015年。内2005年第3戦、2008年第6戦、2012年第1戦でそれぞれ球審)している。また、2001年9月26日大阪ドームでの近鉄対オリックス戦(北川博敏が大久保勝信から代打逆転満塁サヨナラリーグ優勝決定弾を放った試合)では球審を務めていた。 2009年8月6日に京セラドーム大阪で行われたオリックス対楽天戦の12回表、2死一塁の場面で打者の内村賢介はボテボテの一塁ゴロを打つが、投手と一塁手が緩慢な守備をし、ボールが一塁に到達する前に打者走者の内村は一塁ベースを駆け抜けた。しかし、このプレーをアウトと判定。監督の野村克也、一塁ベースコーチの佐竹学、内村が猛抗議したが判定は覆らなかった。 2009年8月12日にKスタ宮城で行われた楽天対ソフトバンク戦の初回、2死満塁から多村仁の遊ゴロで一塁走者の小久保裕紀が二塁へ滑り込んだプレーをアウトと判定。監督の秋山幸二は制限時間の5分間抗議したが判定は覆らなかった。なお当時楽天監督だった野村は「あれはだれが見てもセーフだ」と発言した。ソフトバンクは13日、この判定を不服として日本プロ野球組織の加藤良三コミッショナーへ意見書を郵送とファクスで提出した。 現役末期は眼鏡をかけてプレイしていたが、現在は眼鏡をかけておらず、コンタクトを使用している。 フォアボールの際には、一塁方向へ軽く突き出した両手を胸の前に引き寄せて握るジャッジに特徴がある。 2007年にパ・リーグ関西審判部主任に就任した。役職名変更により2011年からクルーチーフ、2016年からはクルーチーフを解かれ一般審判員となる。2018年にかつての審判部の最高定年年齢となる58歳を迎えたが、同年シーズンから導入されていた定年延長制度の恩恵に預かる形になり、翌シーズン以降も審判員を継続している。この制度が導入されてからの実際の実施例は佐藤が初めてである。体力と技術面が維持されれば、65歳まで審判員を続けることが可能であるという。 2012年7月18日には、ヤフードームで行われたソフトバンク対オリックス戦で球審を務め、現役の審判員としては13人目となる通算1500試合出場を達成した。 2016年5月17日のイーグルス対バファローズ戦で一塁塁審を務めていたが、6回裏のイーグルスの攻撃中の判定を巡って近鉄時代の同僚だった梨田昌孝(当時イーグルス監督)を抗議による遅延行為で退場にしている。 2018年8月17日、京セラドーム大阪で行われたオリックス対ソフトバンク第16回戦で一塁塁審を務め、通算2000試合出場を達成した。 2020年シーズンを最後に審判を引退。最終出場試合は同年11月6日に京セラドーム大阪で行われたオリックス対北海道日本ハム第24回戦の一塁塁審。30年間の一軍出場試合数は通算2148試合だった。 2021年シーズンより、台湾プロ野球で審判員と指導員を務める。
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審判時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 01:08 UTC 版)
1997年よりパシフィック・リーグ審判部に入局。審判員袖番号は1997年~2010年までは8、2011年以降は5。2020年終了時点の出場試合数は2077。オールスターゲームには2002年に出場、第2戦で球審をつとめている。2007年には日本シリーズに初出場、中日ドラゴンズの山井大介と岩瀬仁紀による継投での完全試合となった第5戦では球審を務めた。選手、審判の両方で日本シリーズに出場したのは久保田治(東映フライヤーズ投手→セ・リーグ審判員)、井上忠行(西鉄ライオンズ内野手→セ・リーグ審判員)に次いで3人目である。 審判転身後も「昌夫」の名前を使用していたが、2006年から2008年までは現役時代当初の「浩一」に戻していた。 2007年は審判員奨励賞を受賞。2009年7月5日の東北楽天ゴールデンイーグルス対埼玉西武ライオンズ第9回戦(Kスタ宮城)で一塁塁審を務め、通算1000試合出場を達成した。 2010年に主任に昇進、役職名変更により2011年からクルーチーフとなる。 2013年から球審での構えを『シザースタンス』から基本構えの『スロットスタンス』に変更した。 2014年6月3日、北海道日本ハムファイターズ対広島東洋カープ第1回戦(札幌ドーム)で三塁塁審を務め、NPB審判員としては史上86人目、現役では15人目となる通算1500試合出場を達成した。 2019年5月10日、読売ジャイアンツ対東京ヤクルトスワローズの試合にて球審を務めた栁田は4回裏2アウトの場面で巨人の打者丸佳浩のファウルチップをまともにマスクに受け、マスクが大きく変形する形となり、額から流血してしまった。一度ベンチ裏にて治療を受け、数分後に一旦復帰したが、その後4回裏が終了した後に負傷交代するという形になり、5回表からは二塁塁審の佐々木昌信が球審、控え審判の本田英志が二塁塁審に入り試合は続行された。その後2019年5月21日、埼玉西武ライオンズ対福岡ソフトバンクホークス戦(沖縄)で二塁塁審として復帰している。 2020年シーズンはクルーチーフの役職を解除され一般の審判員となったが、2021年シーズンからはサブクルーチーフに就任。再び役職に就くこととなる。 2020年6月25日、明治神宮野球場で行われた東京ヤクルトスワローズ対阪神タイガース3回戦で一塁塁審を務め、史上69人目となる通算2000試合出場を達成した。
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