審判歴・監督歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/12 13:39 UTC 版)
オーデイはプレイヤーズ・リーグ参加から5年後の1895年に75試合の審判を務め、この年以降審判員として本格的に活動しはじめる。ナショナルリーグでの審判歴は1927年まで30年以上に及ぶが、この間1912年と1914年の2年は、シンシナティ・レッズとシカゴ・カブスの監督をしていたため、審判としては試合に出場していない。2年間の監督時代の戦績は2年ともほぼ5割だった。 審判としてのオーデイは、他人がどれだけ非難しようが、勇気をもって正しい判定を下す人物として評価されていた。その最たるものが、1908年9月23日に行われた、ニューヨーク・ジャイアンツ対シカゴ・カブス戦での、"マークルズ・ボナー"の判定であろう(フレッド・マークルの項を参照)。ジャイアンツのサヨナラ安打に歓喜した一塁走者のマークルが、フォースプレーにもかかわらず二塁を踏まずにベンチを下がったことをカブスのジョニー・エバースがアピールし、この試合主審だったオーデイはマークルにアウトの判定を下し、その試合を引き分け再試合と宣告した。ジャイアンツの監督だったジョン・マグローは、「オーデイがペナントを奪った」と非難したが、判定が変わることはなかった。ただこの判定には伏線があり、このプレーの二週間前、オーデイはカブスとパイレーツの試合で全く同じ状況(サヨナラ安打で一塁走者が二塁を踏まずにベンチに下がったことをアピールされる)に遭遇している。その時はプレーをよく見ていなかったためエバースのアピールを認めていなかった。 オーデイはナショナルリーグの審判を1927年まで務めた。出場試合数3986試合は引退当時史上3位の試合数で、主審試合数2710試合と10度のワールドシリーズ出場はビル・クレムについで史上2位の記録である。1935年にシカゴで死去。 2013年にベテランズ委員会の選考により、アメリカ野球殿堂入りを果たした。
※この「審判歴・監督歴」の解説は、「ハンク・オーデイ」の解説の一部です。
「審判歴・監督歴」を含む「ハンク・オーデイ」の記事については、「ハンク・オーデイ」の概要を参照ください。
- 審判歴・監督歴のページへのリンク