国際政治の動きの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/25 22:53 UTC 版)
「地球温暖化に関する動きの歴史」の記事における「国際政治の動きの経過」の解説
1972年6月、ストックホルムで国際連合人間環境会議が開かれた。これは地球規模で行われた初めての環境問題の会合であり、国連環境計画(UNEP)が設立されるなど一定の成果を挙げた。 1970年代頃までは、「地球寒冷化」が学会の定説となりつつあった。しかし、温暖化に関する研究結果が充実してくるにつれ、1970年代後半から学会の方向も変わってきた。世界気象機関(WMO)主導で1979年2月にジュネーヴで開かれた世界気候会議では、気候変動全般について学術的な話し合いが行われるとともに、気候変動研究をさらに推進する「世界気候計画」を採択した。1984年には国連の環境と開発に関する世界委員会(WCED)が発足、1985年のフィラッハ会議の報告によって学会は大方が地球は温暖化するとの見方に傾いていたが、国際政治や市民の間ではまだ方向性が見えていなかった。 ただ、地球温暖化説が浸透するにつれ、「オゾン層の破壊(オゾンホール問題)」と同様に、「人為的な原因を除いては説明できないため、それを制限する」という考えに基づく会議の必要性が取り沙汰されるようになった。地球温暖化を含めた気候変動に関する問題が初めて話し合われたのが、1987年11月にベラジオで開かれたベラジオ会議であった。 1988年6月23日、アメリカ上院エネルギー委員会の公聴会において、NASA所属のJ.ハンセンが行った「最近の異常気象、とりわけ暑い気象が地球温暖化と関係していることは99%の確率で正しい」との発言が、「地球温暖化による猛暑説」と報道された。これを契機として、当時の『ニューズウィーク』誌等の雑誌やTV放送等のメディアを通して、地球温暖化説が一般に広まり始めた。公聴会の議長を勤めた上院議員のティモシー・ワースは過去の気象から最高気温が記録された日を公聴会の開催日に選び、当日は委員会の冷房を切るなどの行為を行ったといわれている。この年8月には、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が設立された。その後、ティモシー・ワースは1997年にCNNの創業者であるテッド・ターナーによる10億ドルの資金提供によって設立された環境問題(特に、地球温暖化問題)への取り組みを活動の柱とする国連財団の筆頭理事に就任した(国連財団会長はテッド・ターナー、専務理事はエンマ・ロスチャイルド)。 その後、1988年10月にはトロント会議において「先進国が2005年の二酸化炭素排出量を1988年より20%減らす」という数値目標(トロント目標)が初めて提示され、行政レベルでの活動のきっかけとなった。1989年11月の大気汚染と気候変動に関する環境大臣会議では温室効果ガス排出量の安定化に初めて言及するノールトヴェイク宣言を採択した。アルシュサミット、ヒューストンサミットでも地球温暖化問題が話し合われた。 1990年11月に開かれた第2回世界気候会議では地球温暖化防止に向けた条約の交渉が開始し、翌月気候変動に関する枠組条約交渉会議が設立され、数回にわたる議論を経て1992年5月に決定した。1992年6月にはリオ・デ・ジャネイロで環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)が開かれ、気候変動枠組条約(UNFCCC)を採択した。UNFCCCでは定期的な会合(気候変動枠組条約締約国会議、COP)の開催を規定するなど、気候変動に関する議論を後押しするものであった。そこで中心的役割を果たしたのが、当時ブラジル環境大臣でもあった原子物理学博士ホセ・ゴールデンバーグである。 1995年のCOP1および1996年のCOP2では、地球温暖化対策の必要性が合意されるとともに、温室効果ガスの削減目標や削減手法について協議を行った。ただ、意見の対立に伴う議論の停滞や先送りといった問題も続出した。 1997年のCOP3では、初めて具体的に排出量の削減を義務づける内容を盛り込んだ京都議定書が議決された。これは世界的に様々な温暖化の緩和策の進展を促すこととなった。しかし主要な排出国である中国に削減義務が無かったり、また国によって義務の厳しさが異なるなどの規定は、その後も議論の焦点となった。 これ以降のCOPでは、京都議定書の運用事項について細かい部分まで協議が進められ、2001年のCOP7では、最終的な合意(マラケシュ合意)に至った。2002年に開かれた持続可能な開発に関する世界首脳会議やこれ以降のCOPでは、対策に関して途上国と先進国の南北問題による対立も濃くなっていった。ただ、IPCC第3次評価報告書やスターン報告などにおいて科学的にリスクの大きさと対策の必要性がより確かになるにつれ、政治や経済の場においても地球温暖化への対策が検討されることが増えていった。 2005年には京都議定書が発効し、法的にも削減義務が発生した。2007年末の時点では、欧州などは再生可能エネルギーの普及を中心とした強力な政策により、最も厳しい-8%の義務を達成する見込みである。その一方で義務の無い中国の排出量は激増し、米国が離脱し、カナダも目標達成をあきらめ、日本も排出量を増やすなど、各国の達成状況はまちまちである。 また温室効果ガスの削減としては、現在京都議定書による削減目標提示が最も大規模なものであるが、スターン報告やIPCC第4次評価報告書により集約された科学的知見によれば、それよりも一桁多い削減量が必要とされている。このため京都議定書以上の削減目標(ポスト京都議定書)についての議論も現在行われている。 2007年のハイリゲンダムサミットにおいては、議論の末に「温室効果ガスを2050年までに半減する」との合意が為された。しかしどの温室効果ガスをいつを基準に半減させるのかなど、詳細は規定されていない。 2007年9月28-29日には、アメリカ主導でエネルギー安全保障と気候変動に関する主要排出国会議が行われた。ここでは排出量削減目標を拘束力のないものにすること、次回の会議をCOP13以降に開催することが合意された。 2007年10月には、気候変動に関する活動に対してIPCCが、人為的な気候変動問題の啓発に対してアル・ゴアが、それぞれノーベル平和賞を受賞することが発表され、同年12月に受賞した。 2007年12月のCOP13においては、欧州やインドネシアによる数値目標導入の主張に日本や米国、カナダなどが反対し、また途上国と先進国との間での反発も顕在化した。辛うじて合意には至ったものの、数値目標の設定は見送られ、AR4の指摘への言及がなされるに留まった。こうした日米などの動きに対しては激しい批判も見られた。 このように、現時点では京都議定書以降の国際的な削減の道程は不明瞭である。その一方、京都議定書の目標達成の目処がついた欧州連合(EU)では、2007年2月の環境相理事会において、2020年までに温室効果ガスの排出量を1990年比で20%削減する目標で合意するなど、更なる削減を推進している国々もある。
※この「国際政治の動きの経過」の解説は、「地球温暖化に関する動きの歴史」の解説の一部です。
「国際政治の動きの経過」を含む「地球温暖化に関する動きの歴史」の記事については、「地球温暖化に関する動きの歴史」の概要を参照ください。
- 国際政治の動きの経過のページへのリンク