国際政治とシノロジーの発展
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「中国学」の記事における「国際政治とシノロジーの発展」の解説
19世紀以降、産業革命と工業化に成功した西欧諸国は、それまで通商・外交関係において劣位に立っていた中国に対して全面的な攻勢に転じた。すなわちアヘン戦争以後、政治的・経済的・軍事的な優位に立った西欧の列強は、自由貿易を通じて中国を国際的な資本主義経済のシステムに編入し、市場や領土の支配に乗り出したのである。これにより、シノロジーにはそれまでの布教以外に、植民地的進出という新たな目的が付け加えられるようになった。これにより中国学者の中では宣教師出身者よりも世俗的な学者が多数を占めるようになっていく。 この時期、西洋におけるシノロジーの中心となったのは、17世紀以来の伝統と蓄積をもつフランスである。この国ではフランス革命後の1795年に東洋語学校が設立、次いで1814年には中国語と満州語の講座が、最高学府であるコレージュ・ド・フランスに創設され、ヨーロッパの大学では最初のシノロジー講座となった。そして独学で中国語を学んだレミュザが、ヨーロッパでは最初の中国語の教授になった。彼に続いて、シノロジーにおける文献批判の方法を確立したシャヴァンヌが現れ、彼のもとで敦煌学のペリオ、道教研究のマスペロ、『詩経』研究のグラネが出てくるに及び、フランスの古典学的シノロジーはヨーロッパでも最高水準のものとなった。フランスに続いてイギリス・ドイツなどでもシノロジーの発展がみられ、英ではキッド(英語版)(1797年 - 1843年)、独ではショット(ドイツ語版)(1807年 - 1889年)がそれぞれの国で、フランスにおけるレミュザの役割を果たした。そしてレッグ(英)とガベレンツ(独)が両国で初めてキリスト教との関係を持たない著名な中国学者になった。 19世紀後半になりシノロジーはその知見をさらに広げていくことになる。アロー戦争後外国人に中国内地の自由旅行が認められ、西洋列強と中国との非対称的関係がさらに質量ともに深化していくと、それまで情報源を漢文の古典典籍や中国沿岸部に点在するヨーロッパ人居留地での見聞に依存していたシノローグたちは、さらに広く深く中国の内部に分け入ったのである。例えば、イギリスのスタイン、フランスのペリオ、ドイツのル・コックによって行われた西域地方の考古学的探検調査は、各国でのシノロジーの発展に大きく貢献した。またシノロジーの対象分野も拡大していった。すなわち、従来からの古典研究や語学に加え、侵略戦争遂行のための兵要地誌作成や、経済進出のための市場・物産の調査、植民地支配のための慣行調査(19世紀末以後の「中国分割」の結果列強各国は中国領土の一部を直接支配下に置くことになり、行政上このような調査も必要となった)もまたシノロジーの名において行われるようになったのである。とはいえ後者のような同時代の中国を対象とする研究は、古典学としてのシノロジーとは区別されるべきであるとする考え方もあり、現状分析としての中国学は、どちらかというと地域研究の一分野としての「中国研究」(チャイニーズ・スタディーズ)とみなされ、次第に古典文化を研究する従来のシノロジーとは異なる分野とみなされるようになった(とはいえ、現在においても「シノロジー」といえば双方を包括する概念とされている)。 20世紀に入ると中国学の講座は徐々にヨーロッパの大学で増加していった。特に第二次世界大戦後、それまで中国学への貢献で大きく後れをとっていたアメリカにおいては、朝鮮戦争以後冷戦の焦点となった中国を研究する国際戦略上の必要から、フェアバンクやラティモアに代表される、社会科学的方法論を駆使した、地域研究としての中国学(中国研究)が大きく進展した。このような、地域研究としての中国学は、現代においては、シンクタンクの活躍を通じて政治的・政策的な影響力を増している。
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