信忠軍団の副将
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天正2年(1574年)、前年に元服を終えたばかりの信長の嫡男・織田信忠付きの武将となり、その補佐役を任せられる。 同年2月、武田勝頼の軍勢により明知城が落城し、武田氏の勢力が岐阜を脅かす事態となった。この時、武田氏の抑えとして最前線である神箆城(または肥田城)に河尻秀隆が、小里城に池田恒興がそれぞれ守備を任せられた(天正2年、岩村城の戦い)。 信長公記によれば同年6月の伊勢長島一向一揆攻めにも参加したとされる。しかし信長は同時期に秀隆に書状を送って長島攻めの状況について説明しており、実際は引き続き神箆城の守備についていたと考えられている。さらに同書状では秀隆に対して、池田恒興が担当した小里城についても警備を厳重にするようにとの指令がなされている。 天正3年(1575年)2月26日、小笠原貞慶に書状を送り今秋の信濃出兵予定を知らせるとともに、武田家臣への調略を促している。信濃への出兵を約束していた上杉謙信が動かなかったこともあり、織田氏の信濃出兵も行われなかったが、6月には飯田城の坂西氏が謀反を起こし、矢沢又兵衛尉、佐野善右衛門尉、佐々木新左衛門尉等の伊那衆が織田方に内通して在所を退散しており、調略は一定の成果を上げている。 同年5月21日の長篠の戦いには信忠を補佐して参陣し、信忠に代わって信忠軍の指揮を執った。合戦後は信忠と共に岩村城に攻め寄せ包囲した。 同年11月、夜襲を仕掛けてきた武田氏の援軍を打ち破り大将格21人、合計1,100人以上を討ち取る大打撃を与え、籠城衆を降伏に追い込んでいる。その後、信長の命令に従って捕らえた秋山虎繁、座光寺為清、大島杢之助、おつやの方を岐阜城に送り、城兵を処刑した。この時、信忠軍団随一の功労者として岩村城5万石を与えられる(天正3年、岩村城の戦い)。これらの経緯から信忠家臣団の目付的立場にあったと推測されている。 この年、丹羽長秀、簗田広正、松井友閑、武井夕庵、明智光秀が賜姓任官されたが、『当代記』によればさらに塙直政が原田備中守、羽柴秀吉が筑前守、秀隆が肥前守を号したという。しかし文書での使用が一件しか確認できず、後に肥前守に任官した息子の秀長と混同したものともされる。 岩村入城後は新たな城下町形成のため岩村川から水を引いて「天正疎水」と呼ばれる4本の用水路を設置した。この用水は400年以上たった現在でも城下の家々の下を流れ生活用水として大きな役割を果たしており、秀隆によって岩村町の基礎が築かれたとされる。 その後は岩村城主として長く東濃に留まり、引き続き武田氏の抑えという重責を担うことになる。そのため、その後の4年間は信長の主戦場となった毛利氏や大坂本願寺などの畿内以西の戦線には殆どかかわった形跡がみられない。 天正6年(1578年)9月30日に信長は重臣らと堺に赴き、第二次木津川口の戦いで毛利水軍を破った大船を見物し、その帰りに津田宗及邸での茶会に参加した。秀隆は細川信良、津田信澄、細川藤孝、佐久間信栄、筒井順慶、荒木村次、万見重元、堀秀政、矢部家定、菅屋長頼、長谷川秀一、大津長昌、三好康長、若江三人衆と御供衆として供奉し、菓子や酒の接待を受けている。 天正7年(1579年)には信忠に従って荒木村重の摂津有岡城攻めに参加し、その攻略に武功を立てた。 天正8年(1580年)、信長より安土城下の下豊浦に屋敷を与えられる。この地域には通称地名となって河尻、高山、金森等の信長諸将の名字が伝存している。 天正10年(1582年)2月からの甲州征伐に従軍。2月6日、国境を守る滝沢の城番下条信氏の家老衆を寝返らせ、岩村口から武田領に侵攻した。その後は信忠率いる本隊と共に進軍し、毛利長秀と共に一時的に大島城の守備に就く。2月26日、高遠城の動揺を誘うために調略を用いて城下町を焼き払い、信長から称賛される。3月2日、唯一激しい抵抗のあった高遠城攻めでは主力として戦い、わずか一日で陥落させた。また血気にはやり命令違反を繰り返す団忠正、森長可の行動を統制する等、軍監として信忠家臣団を統率している。3月11日、滝川一益、秀隆の軍勢が田野に逃れた武田勝頼・信勝父子を追跡して討ち取った。 3月29日、信長は論功行賞にともなう知行割を発表し、秀隆は穴山信君領の甲斐河内領を除く甲斐22万石と信濃諏訪郡を与えられた。なお、穴山信君に安堵された本領と秀隆の所領の明確な境界は未確定であり、信長は双方の重臣の協議の上で最終的な解決を図るように指示している。 『甲乱記』によると、秀隆は恵林寺の快川紹喜に使者を送り、六角賢永や大和淡路守を匿ったことなどに対して3か条の詰問を行ったという。快川紹喜は六角らを庇って虚偽の返答をしたため、4月3日、織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼によって恵林寺は焼き討ちにされた。 その後、かつて徳川家康から離反した山家三方衆の菅沼定忠、菅沼満直・新兵衛尉父子が秀隆を頼って降伏してその陣中にいたが、それを知った家康が信長に報告し、家康家臣の牧野康成によって誅殺されたという。 甲斐統治において、武田氏統治時代と同じ甲府の躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市古府中町)を居城としたとされるが、『甲斐国志』『武徳編年集成』では甲府近郊の岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠にしたとする。 秀隆の入府には明知遠山氏の遠山利景・一行・方景が従っており、その後は共に甲府の守備に就いていることから、利景らは秀隆の与力にあたると推測される。
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