信忠軍団の副将とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 信忠軍団の副将の意味・解説 

信忠軍団の副将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 06:41 UTC 版)

河尻秀隆」の記事における「信忠軍団の副将」の解説

天正2年1574年)、前年元服終えたばかりの信長嫡男織田信忠付き武将となり、その補佐役を任せられる同年2月武田勝頼軍勢により明知城落城し、武田氏勢力岐阜を脅かす事態となった。この時、武田氏抑えとして最前線である神箆城(または肥田城)に河尻秀隆が、小里城池田恒興それぞれ守備任せられた(天正2年岩村城の戦い)。 信長公記によれば同年6月伊勢長島一向一揆攻めにも参加したとされる。しかし信長同時期に秀隆に書状送って長島攻め状況について説明しており、実際引き続き神箆城守備についていたと考えられている。さらに同書状では秀隆に対して池田恒興担当した小里城についても警備厳重にするようにとの指令なされている。 天正3年1575年2月26日小笠原貞慶書状送り今秋信濃出兵予定知らせとともに武田家臣への調略促している。信濃への出兵約束していた上杉謙信が動かなかったこともあり、織田氏信濃出兵行われなかったが、6月には飯田城坂西氏が謀反起こし矢沢又兵衛尉、佐野右衛門尉佐々木新左衛門尉等の伊那衆織田方に内通して在所退散しており、調略一定の成果上げている。 同年5月21日長篠の戦いには信忠補佐して陣し信忠に代わって信忠軍の指揮を執った。合戦後信忠と共に岩村城攻め寄せ包囲した同年11月夜襲仕掛けてきた武田氏援軍打ち破り大将21人、合計1,100人以上を討ち取る大打撃与え籠城衆を降伏追い込んでいる。その後信長命令に従って捕らえた秋山虎繁座光寺為清、大島之助、おつやの方岐阜城送り城兵処刑した。この時、信忠軍団随一功労者として岩村城5万石を与えられる天正3年岩村城の戦い)。これらの経緯から信忠家臣団目付立場にあった推測されている。 この年丹羽長秀簗田広正松井友閑武井夕庵明智光秀賜姓任官されたが、『当代記によればさらに塙直政原田備中守羽柴秀吉筑前守、秀隆が肥前守を号したという。しかし文書での使用一件しか確認できず、後に肥前守に任官した息子の秀長と混同したものともされる岩村入城後は新たな城下町形成のため岩村川から引いて天正疎水」と呼ばれる4本の用水路設置した。この用水400年以上たった現在でも城下家々の下を流れ生活用水として大きな役割果たしており、秀隆によって岩村町基礎築かれとされるその後岩村城主として長く東濃留まり引き続き武田氏抑えという重責を担うことになる。そのため、その後4年間は信長主戦場となった毛利氏大坂本願寺などの畿内以西戦線には殆どかかわった形跡みられない天正6年1578年9月30日信長重臣らと堺に赴き、第二次木津川口の戦い毛利水軍破った大船見物し、その帰り津田宗及邸での茶会参加した。秀隆は細川信良津田信澄細川藤孝佐久間信栄筒井順慶荒木村次万見重元堀秀政矢部家定菅屋長頼長谷川秀一大津長昌三好康長若江三人衆御供衆として供奉し、菓子や酒の接待受けている。 天正7年1579年)には信忠に従って荒木村重摂津有岡城攻め参加し、その攻略武功立てた天正8年1580年)、信長より安土城下の下豊浦屋敷与えられる。この地域には通称地名となって河尻、高山金森等の信長諸将名字伝存している。 天正10年1582年2月からの甲州征伐従軍2月6日国境を守る滝沢城番下条信氏家老衆を寝返らせ、岩村口から武田領に侵攻したその後信忠率い本隊と共に進軍し毛利長秀と共に一時的に大島城守備に就く。2月26日高遠城動揺を誘うために調略用いて城下町焼き払い信長から称賛される3月2日唯一激し抵抗のあった高遠城攻めでは主力として戦い、わずか一日陥落させた。また血気にはやり命令違反繰り返す団忠正森長可行動統制する等、軍監として信忠家臣団統率している。3月11日滝川一益、秀隆の軍勢田野逃れた武田勝頼・信勝父子追跡して討ち取った3月29日信長論功行賞にともなう知行割発表し、秀隆は穴山信君領の甲斐河内領を除く甲斐22万石信濃諏訪郡与えられた。なお、穴山信君安堵された本領と秀隆の所領明確な境界未確定であり、信長双方重臣協議の上最終的な解決を図るように指示している。 『甲乱記』によると、秀隆は恵林寺快川紹喜使者送り六角賢永や大和淡路守を匿ったことなどに対して3か条の詰問行ったという。快川紹喜六角らを庇って虚偽返答したため4月3日織田信忠派遣した津田元嘉長谷川与次関成重赤座永兼によって恵林寺焼き討ちにされた。 その後、かつて徳川家康から離反した山家三方衆菅沼定忠菅沼満直新兵衛父子が秀隆を頼って降伏してその陣中にいたが、それを知った家康信長報告し家康家臣牧野康成によって誅殺されたという。 甲斐統治において、武田氏統治時代と同じ甲府躑躅ヶ崎館山梨県甲府市古府中町)を居城としたとされるが、『甲斐国志』『武徳編年集成』では甲府近郊の岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠にしたとする。 秀隆の入府には明知遠山氏遠山利景一行方景が従っており、その後は共に甲府守備に就いていることから、利景らは秀隆の与力にあたると推測される

※この「信忠軍団の副将」の解説は、「河尻秀隆」の解説の一部です。
「信忠軍団の副将」を含む「河尻秀隆」の記事については、「河尻秀隆」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「信忠軍団の副将」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「信忠軍団の副将」の関連用語

信忠軍団の副将のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



信忠軍団の副将のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの河尻秀隆 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS