信忠(信長嫡男)の末裔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 00:27 UTC 版)
織田宗家の当主となった三法師は当初は信長の三男信孝の庇護下に置かれて岐阜城にいた。ところが、清洲会議後に羽柴秀吉と柴田勝家が対立を深め、信孝が勝家と結ぶと、反主流派になった羽柴秀吉は丹羽長秀・池田恒興と図って信長の次男信雄を名代として一時的に織田宗家の家督を継ぐことを認めることで三法師を擁する勝家・信孝に対抗した。 三法師は元服して秀信と称したが、賤ヶ岳の戦い後に信孝が滅亡し、小牧・長久手の戦い後に信雄が降伏した後も、実権を握った秀吉はそのまま信雄を織田宗家の当主として扱い、秀信は秀吉の庇護下のまま各地を転々とさせられ、信雄が失脚して嫡男の秀雄が後を継いだ際も秀信ではなく秀雄が織田宗家の当主とされていたと考えられる。 その後、秀吉から祖父・織田信長のかつての居城であった岐阜城13万3千石を与えられ、大名に取り立てられた。岐阜領は信長の四男である羽柴秀勝(於次)の名跡を継いだ羽柴秀勝(小吉)の旧領であるために秀信を秀勝(於次)の後継者と考えることもでき、秀吉が一旦織田宗家の家督を信雄父子に与えてしまったために改めて「信長ー(信忠)ー秀勝(於次)ー秀信」という織田宗家の家督の再構成を図られたとするとする説もある。また、秀吉の旧主でもあったため貴人として遇され、官位は中納言まで昇進し岐阜中納言と呼ばれ、豊臣政権を構成する有力な大名の一人となった。 しかし、秀信は関ヶ原の戦いで西軍に属して戦ったために改易され、身柄は高野山へ送られた。そして、秀信の死をもって織田信長の嫡流の断絶ということになった。このことから織田家嫡流は徳川家康により滅ぼされたともいえる。また、秀信の弟である秀則も改易後は京都に隠退して男子を残さなかったとされている。 なお、『江源武鑑』(一般的には偽書とされる)では秀信に娘がいたとしており、その娘と六角義郷の間に氏郷が生まれたという。また、嫡流男系が郷士西山氏や織田(おりた)氏として土着したという記録もあり、これが事実であるとすると嫡流男系は正式な武士としての身分は失ったものの、士分の階層には留まり存続したことになる。以上の記述が正しいとするならば、信長の嫡流男系と嫡流女系は存続していたことになる。『寛政重修諸家譜』など、公的な系譜では秀信に子女はいなかったとしている。
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