岐阜中納言
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文禄元年(1593年)、秀信は(陣場は割り当てられていたものの)当初、文禄の役に出陣する予定はなかった。しかし同年9月9日に岐阜羽柴家の豊臣秀勝(岐阜中納言)が没すると、秀吉はその遺領である美濃国13万石と岐阜城を秀信に与えた。この際、秀信は秀勝の養子として継承したと『勢州軍記』には記されている。これは全く根拠がない事ではなく、豊臣政権(秀吉)が織田信長の四男(五男説あり)である羽柴秀勝(於次)の後を秀吉の甥である豊臣秀勝(小吉)が継ぎ、その後を秀信が継いだことにすることによって、信長の後継者は信雄父子ではなく秀勝(於次)であり、秀信はその後継者であるという方針を打ち立てたとも考えられるからである。 これに伴って、長岡忠興、遠藤胤基、遠藤慶隆ら九番隊と、済州島で在陣中に没した秀勝が率いていた美濃衆8,000人は、秀信の家老の百々綱家が出陣して、急遽、これを率いることになった。晋州城攻撃計画では、美濃衆からは釜山にて普請を行う6,000人の動員が予定されていたが、実際の5月の晋州城攻防戦で動員されたのは4,018人で、(済州島から)渡海して包囲部隊に編入された。 家臣団には津田元綱など信孝・豊臣秀勝らの家臣だった者が散見されるが、このほか池尻城将を務めた飯沼長実など斎藤家旧臣、斎藤正印軒や斎藤徳元など斎藤一族、武藤助十郎など土岐一族も見られ、美濃衆を家臣団として再結集した様子が窺える。蒲生氏郷の庶長子・蒲生元時(生駒伊右衛門)、剣豪と言われる足達庄蔵なども秀信に仕えた。 12月、秀信は鏡島湊を築き、免許状を与え遡上荷船の最終湊の地位を保障した。 文禄2年(1593年)3月6日、『松浦古事記』によると、秀信は寺西正勝らを供に引き連れ、秀吉のいる名護屋城に陣中見舞いと称して参陣した。 同年10月3日には秀吉に従って参内した。このときすでに羽柴姓も贈られていて、岐阜中納言として史料に見える。このことから従三位・中納言に昇叙・任官していたことが分かる。 文禄3年(1594年)正月には新公家衆の一人として参内した。『駒井日記』の同年2月の記事には「岐阜中納言様御内室」との記述があり、中納言叙任と同時期に正室を迎えたことが窺える。 5月23日、名護屋城にて明使沈惟敬が秀吉に謁見した際に、徳川家康、前田利家、秀信、小早川秀秋、豊臣秀保、上杉景勝の6名は同室で伺候していた。 同年、祖父・信長に倣って鵜飼いを保護したことなども伝わる。秀信時代、鵜飼舟12艘があったとする同地の記録が今日に伝わる。鵜飼いの保護は、後の岐阜領主にも継承された。 文禄4年(1595年)正月には関白を継いだ豊臣秀次に従って参内している。同年3月8日には秀吉が聚楽第に秀次を訪問した際、兵を率いて道中の警備を務めている。この時どちらに従っていたのかは不明であるが、秀次事件に連座していないことから、秀吉付きに復していたようである。
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