岐阜中納言とは? わかりやすく解説

岐阜中納言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 13:35 UTC 版)

織田秀信」の記事における「岐阜中納言」の解説

文禄元年1593年)、秀信は(陣場割り当てられいたものの)当初文禄の役出陣する予定はなかった。しかし同年9月9日岐阜羽柴家豊臣秀勝(岐阜中納言)が没すると、秀吉はその遺領である美濃国13万石岐阜城を秀信に与えたこの際、秀信は秀勝の養子として継承したと『勢州軍記』には記されている。これは全く根拠がない事ではなく豊臣政権秀吉)が織田信長の四男(五男説あり)である羽柴秀勝(於次)の後を秀吉の甥である豊臣秀勝小吉)が継ぎその後を秀信が継いだことにすることによって、信長の後継者は信雄父子ではなく秀勝(於次)であり、秀信はその後継者であるという方針打ち立てたとも考えられるからである。 これに伴って長岡忠興遠藤胤基遠藤慶隆九番隊と、済州島で在陣中没した秀勝が率いていた美濃衆8,000人は、秀信の家老百々綱家出陣して、急遽、これを率いることになった晋州城攻計画では、美濃衆からは釜山にて普請を行う6,000人の動員予定されていたが、実際5月晋州城攻防戦動員されたのは4,018人で、(済州島から)渡海して包囲部隊編入された。 家臣団には津田元綱など信孝・豊臣秀勝らの家臣だった者が散見されるが、このほか池尻城将を務めた飯沼長実など斎藤家旧臣斎藤正印軒や斎藤徳元など斎藤一族、武藤十郎など土岐一族見られ美濃衆家臣団として再結集した様子窺える蒲生氏郷庶長子蒲生元時(生駒伊右衛門)、剣豪と言われる足達庄蔵なども秀信に仕えた12月、秀信は鏡島湊を築き免許状与え遡上荷船最終湊の地位保障した文禄2年1593年3月6日、『松浦古事記』によると、秀信は寺西正勝らを供に引き連れ秀吉のいる名護屋城陣中見舞い称して陣した同年10月3日には秀吉に従って参内した。このときすでに羽柴姓も贈られていて、岐阜中納言として史料見える。このことから従三位中納言昇叙任官していたことが分かる文禄3年1594年正月には新公家衆一人として参内した。『駒井日記』の同年2月記事には「岐阜中納言様御内室」との記述があり、中納言叙任同時期に正室迎えたことが窺える5月23日名護屋城にて明使沈惟敬秀吉謁見した際に、徳川家康前田利家、秀信、小早川秀秋豊臣秀保上杉景勝の6名は同室伺候していた。 同年祖父信長倣って鵜飼い保護したことなども伝わる。秀信時代、鵜飼舟12艘があったとする同地記録今日に伝わる。鵜飼い保護は、後の岐阜領主にも継承された。 文禄4年1595年正月には関白継いだ豊臣秀次に従って参内している。同年3月8日には秀吉聚楽第に秀次を訪問した際、兵を率いて道中警備務めている。この時どちらに従っていたのかは不明であるが、秀次事件連座ていないことから、秀吉付き復していたようである。

※この「岐阜中納言」の解説は、「織田秀信」の解説の一部です。
「岐阜中納言」を含む「織田秀信」の記事については、「織田秀信」の概要を参照ください。

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