伊勢ノ海の代々とは? わかりやすく解説

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伊勢ノ海の代々

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 00:37 UTC 版)

伊勢ノ海」の記事における「伊勢ノ海の代々」の解説

代目太字は、部屋持ち親方代目引退四股名最高位現役時所属部屋襲名期間備考初代 伊勢ノ海太夫 --- --- ?-1774年7月死去2代 関ノ戸億右エ門 関脇 伊勢海部屋 1774年10月-1782年2月死去二枚鑑札 3代 柏戸右エ門 前3 伊勢ノ海部屋 ?-1796年5月死去4代 柏戸宗五郎 大関 伊勢ノ海-柏戸-伊勢ノ海-柏戸部屋 1798年3月-10月?-1818年1月死去二枚鑑札 5代 柏戸利助 大関 柏戸-伊勢ノ海-柏戸部屋 ?-1830年10月死去6代 柏戸宗五郎 (2代) 前2 柏戸-伊勢ノ海-柏戸-伊勢ノ海-柏戸部屋 ?-1842年11月死去7代 柏戸宗五郎 (3代) 前1 柏戸-伊勢ノ海-柏戸部屋 1844年2月-1886年3月死去8代 柏戸宗五郎 (4代) 前2 伊勢ノ海部屋 1889年1月-1908年7月死去二枚鑑札 9代 柏戸宗五郎 (5代) 小結 伊勢ノ海-式守伊之助-伊勢ノ海部屋 1918年5月-1946年8月死去二枚鑑札 10代 柏戸秀剛 前1 春日山-伊勢ノ海-錦島部屋 1949年1月-1982年12月死去11藤ノ川豪人 関脇 伊勢ノ海部屋 1982年12月-2011年9月 11勝ノ浦名跡交換 12北勝鬨準人 前3 伊勢ノ海部屋 2011年9月-

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伊勢ノ海の代々

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引退四股名備考伊勢ノ海太夫 力士として初代は、江戸相撲中絶状態にあった頃からの力士で、現在の埼玉県加須市戸崎出身本名長島初代春日山鹿右衛門弟子で、元文から宝暦4年頃にかけて、中相撲から上取力士としてあった。年寄として初代宝暦6年冬(番付未発見)に勧進元届け出て以後勧進元5回、差添(勧進元補佐地位12回を務めていることから、相撲会所(現在の日本相撲協会)内で興行的手腕のある中心的人物であったようである。部屋師匠としては大関白川関右エ門関脇関ノ戸億右エ門らを育てた生年不明で、安永3年1774年7月9日関ノ戸億右エ門 本名熊谷重蔵宝暦7年10月前頭上段に付け出されその後小結から関脇務め三役力士として貫禄示した安永6年10月限り年寄専務となり、初代同様仙台藩後ろ盾得て勢力維持。自ら勧誘した大黒柱初代谷風中心に多く門下生活躍していた。会所内でも初代同様に本場所興業貢献したが、天明2年1782年4月17日数え48歳急死柏戸右エ門 本名出井清次郎。初代遺弟子。宝暦9年3月場所の五段(現在の大相撲序ノ口に相当)が番付初見安永5年1月前頭上段となったが、大半二段現在の幕下に相当)の地位にあり、途中備前池田候のお抱えとなり、三千ノ川強右衛門名乗ったこともある。安永9年10月には興業的手腕事務的能力買われて既に二枚鑑札となっており、天明元年10月限り数え年44歳引退年寄柏戸」の名義当初一代限りであったが、寛政9年1797年)の「伊勢ノ海太鼓訴訟事件」により年寄名跡加えられ1887年ごろまで存在した年寄として2代目まで以上に興業的手腕発揮勧進元は2回、差添は16務めており、特に晩年本場所興業不可欠な人物であった弟子育成でも同様に2代目上の手腕発揮し2代目谷風中心に力士続出直弟子には錦木塚右エ門初代柏戸宗五郎などの関取がいる。一番の功績寛政3年6月と同6年の上相撲開催で、これに取り江戸相撲明治勤め大相撲中心地として確立された。 柏戸宗五郎 (2代) 4代遺弟子。現在の栃木県小山市出身本名木村生年寛政5年諸説あり)。若名乗りは鏡嶋で、後に外ヶ濱改名文政8年10月入幕し、13年3月柏戸宗五郎襲名5代伊勢ノ海2代目未亡人相次いで死去したため、2代柏戸宗五郎正式に後継者となり、天保6年1月まで現役土俵続けた弟子には大関秋津風音右エ門関脇黒岩壽太郎3代柏戸宗五郎などがいる。兄弟弟子同士指定の関係となったため、相撲研究家筋からは6代伊勢ノ海何かと苦労があったのだろうと考察されている。保13年11月17日没。行年数え50柏戸宗五郎 (3代) 6代伊勢ノ海弟子現在の新潟県長岡市小国町上岩田出身文化7年8月(または7月生まれ本名渡邊寅治明治入り(恐らく平民苗字必称義務令に伴う形で)伊勢ノ海太夫本名にした。初名はノ海。その後猫又、荒飛と改め天保12年1月入幕狭布里錦太夫改名14年1月場所にしたの名を宗五郎とし、同場所5日目柏戸襲名し二枚鑑札に。その間後継者争い5代遺弟子で仙台系の年寄関の戸億座衛門(元小結荒熊)と対立したが、若い柏戸選ばれ関の戸廃業している。1847年11月場所限り年寄り専務となるが、当初は「柏戸宗五郎」のまま年寄となり、嘉永2年1849年)に正式に伊勢ノ海右衛門(五太夫)を襲名している。数多くの名力士育成したほか、相撲会所でないでは世話役取締)の要職務めて年寄長老としてあり、晩年幕内4代柏戸宗五郎任せて悠々自適の生活を送った明治19年1886年3月1日没。満75歳柏戸宗五郎 (4代) 7代伊勢ノ海弟子現在の新潟県柏崎市善根出身嘉永元年6月10日生まれ本名北村忠之助(後に松村姓から伊勢ノ海姓に)。若名乗り藤ノ川前相撲から取り進み明治10年12月場所に入幕明治14年1月柏戸宗五郎襲名明治19年3月7代伊勢ノ海死去に伴い8代伊勢ノ海二枚鑑札襲名明治22年1月場所には番付面でも伊勢ノ海太夫改名し、翌5月場所限り引退して年寄専務に。桐山宮城野一門提携し勝負検査役現在の勝負審判に相当)を長く務めた部屋師匠としては、預かり弟子移籍弟子としては大達羽左エ門大碇紋太郎若湊祐三郎、滝ノ音調五郎(後の大坂相撲横綱八陣調五郎)らを育てた明治41年7月26日没。満60歳残され弟子たちは、明治42年春場所のみ9代式守伊之助預けられた。

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