伊勢ノ海五太夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 02:27 UTC 版)
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| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 伊勢ノ海 五太夫 | |||
| 本名 | 長島 五太夫 | |||
| 生年月日 | 不明 | |||
| 没年月日 | 1774年8月15日(旧暦7月9日) | |||
| 出身 | 武蔵国(現:埼玉県) | |||
| 所属部屋 | 春日山部屋 | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 引退 | |||
| データ | ||||
| 引退後 | 初代伊勢ノ海 | |||
| 備考 | ||||
| 2025年7月6日現在 | ||||
伊勢ノ海 五太夫(いせのうみ ごだゆう、? - 安永3年7月9日(1774年8月15日))は、武蔵国(現在の埼玉県)出身の元大相撲力士。
来歴
現在の埼玉県加須市戸崎出身。
現役時代は初代春日山鹿右衛門の弟子、頭書は「仙台」。現役時代の事績は資料が少なく不明であるが、寛保3年(1734年)時点では東前頭11枚目、宝暦4年(1754年)時点では西前頭14枚目に在籍していることが確認できるという[1]。
年寄となってからの伊勢ノ海が知られており、1755年に四股名をそのまま年寄名跡とし、以後、勧進元5回、差添(勧進元の補佐的地位)12回を務めていることから、江戸相撲会所(現在の日本相撲協会)内で興行的手腕のある中心的人物であったようである。また、指導者としても、伊勢ノ海部屋を開き、大関・白川関右エ門、関脇・関ノ戸億右エ門らを育てた。部屋は隆盛し、現在も最古の相撲部屋として存続している。
安永3年(1774年)7月9日没。
脚注
参考文献
- 生沼芳弘『大相撲の社会学』22世紀アート、東京都中央区、2023年7月31日。ISBN 978-4-88877-240-2。
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