三菱経営下での細倉鉱山
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1934年当時、三菱財閥の総帥であった岩崎小弥太は積極的な事業拡大を行っており、日本内外で盛んに鉱山の買収、開発を進めていた。その中の多くの鉱山は発展が見込まれないことなどから休山となっていったが、細倉鉱山は北海道の下川鉱山などとともに発展性の高さが評価され、大規模な投資がなされることになった。これまで細倉鉱山を開発してきた資本とは比べものにならない大資本である三菱による積極的な投資によって、細倉鉱山は神岡鉱山に次ぐ日本第二位の生産高を挙げる鉛、亜鉛鉱山へと成長した。 三菱鉱業は、まず細倉鉱山の主要部であった感天地区に立坑を開鑿し、続いて選鉱場の改造、精錬設備の改善と拡張を行った。1935年(昭和10年)には浮遊選鉱場の開設、亜鉛精錬工場の新設などを行い、、1936年(昭和11年)には硫化鉄鉱の採掘設備を建設し、電気精鉛工場、亜鉛湿式精錬工場を新設するなど、矢継ぎ早に鉱山設備の充実を図った。その結果、1937年(昭和12年)には三菱鉱業買収前の3倍以上となる16万トンを越える粗鉱産出量を記録した。 細倉鉱山には更なる拡張の余地があると判断した三菱鉱業は、1938年(昭和13年)には中央立坑を開鑿し、ビスマス精錬設備を新設、そして、1939年(昭和14年)には鉱山で使用する電力供給のために、一迫川に水路式発電所である川口発電所(現・細倉金属鉱業川口第一発電所)の建設を開始して、1941年(昭和16年)に完成し、更に、1940年(昭和15年)には選鉱所や鉛、亜鉛精錬設備の増設を行うなど設備投資を更に押し進めた。1941年の粗鉱産出量は20万トンを突破し、日本有数の鉛、亜鉛の鉱山へと成長した。 戦前の採掘量のピークは、1943年(昭和18年)で、粗鉱産出量は29万トンを越えた。しかしこれは戦時中に進められた増産体制強化の成果でもあり、この頃から鉱山の労働者の中には応召される者が増えて人員不足が目立つようになり、また物資の不足も深刻になりつつあった。1944年(昭和19年)はほぼ1943年と同レベルの生産を維持したが、人員の不足は深刻で、学徒勤労報国隊や朝鮮人、中国人の労務者、そして連合軍の捕虜などの非熟練労働力を導入しなければならない状態に陥った。1945年(昭和20年)8月10日、米軍の爆撃機の空襲によって選鉱所や精錬所などの鉱山設備が被害を受けたため、鉱山の操業は停止された。その後まもなく終戦を迎えたが、これまで鉱山で働いてきた学徒勤労報国隊や朝鮮人、中国人の労務者、そして連合軍の捕虜らがいなくなった影響で人手不足が深刻化していた。また鉛や亜鉛など非鉄金属の大手需要先であった軍需産業は消滅し、食糧難や物資不足なども顕著で、終戦後まもなくは鉱山の操業は半ばストップした状態が続いた。 終戦直後から細倉鉱山の労働者たちの中で労働組合の結成準備が行われていたが、1946年(昭和21年)1月には細倉鉱山の組合結成について助言を行っていた鈴木文治、佐々木更三らを招いて細倉鉱山労働組合の結成大会が開催された。細倉鉱山労働組合は賃金問題の交渉がこじれたことが原因で、1947年(昭和22年)7月15日から9月17日の63日間、ストライキを行った。また終戦後の混乱はなかなか沈静化せず、食糧事情、資材や燃料の不足、そして電力不足のために鉱山経営の困難は続いた。更に1947年7月には水害に襲われ、翌、1948年(昭和23年)9月にはアイオン台風の大雨によって鉱山は再び大きな被害を受けた。 1947年、危機に瀕していた非鉄金属産業を救済するために国が資金援助や在庫の買い上げを行い、更に補助金に当たる価格差補給金の制度が適用されることになった。その結果ようやく非鉄金属業界は当面の危機を脱したが、1949年(昭和24年)にはドッジラインによって補助金がカットされ、再び非鉄金属産業は深刻な状態に陥り、中小の鉱山では閉山するところが相次いだ。そのような中、細倉鉱山を経営する三菱鉱業は集中排除法に基づき、炭坑部門と鉱山・金属加工部門に分割され、1950年(昭和25年)4月1日、細倉鉱山は新設の太平鉱業株式会社に所属することになった。なお太平鉱業株式会社は、1952年(昭和27年)に三菱金属鉱業株式会社となる。 1950年6月の朝鮮戦争勃発による朝鮮特需によって、非鉄金属の需要が急増して価格も高騰し、これまで経営困難な状況が続いていた非鉄金属業界は一気に復活した。細倉鉱山でも1950年の粗鉱産出量が16万トンを越えるなど生産力が回復し、鉱山の輸送を担う栗原鉄道も同年電化がなされた。1951年(昭和26年)には亜鉛精錬時に排出される亜硫酸ガスから硫酸を製造する工場を建設し、粗鉱産出量も1953年(昭和28年)には20万トンを突破するなど順調に伸び、1955年(昭和30年)にはこれまで762ミリの狭軌であった栗原鉄道の軌道を1067ミリとする改軌を行い、国鉄との貨物の直通輸送が可能となった。そして鉱山の拡張に伴い再び電力不足が問題となったため、川口第二発電所(現・細倉金属鉱業川口第二発電所)の建設に取り掛かることになった。この川口第二発電所の取水元として選ばれたのが、当時の第3次吉田内閣が進めていた北上特定地域総合開発計画に基づき宮城県が迫川に建設していた多目的ダム・花山ダムである。 その後も細倉鉱山の主産物である鉛と亜鉛の精錬工場の拡張が行われ、採鉱量の増加計画も進められ、1964年(昭和39年)には月産粗鉱産出量5万トン体制となり、月産7万トンを目指して更なる産出量の増加を目指した取り組みが続けられた。1960年代、高度経済成長によって非鉄金属産業は好調な業績を挙げ続けており、細倉鉱山も最盛期を迎え、粗鉱産出量は1967年(昭和42年)に70万トン台、そして1970年(昭和45年)には80万トンを突破した。
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