三菱経営下での細倉鉱山とは? わかりやすく解説

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三菱経営下での細倉鉱山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 02:43 UTC 版)

細倉鉱山」の記事における「三菱経営下での細倉鉱山」の解説

1934年当時三菱財閥総帥であった岩崎小弥太積極的な事業拡大行っており、日本内外盛んに鉱山買収開発進めていた。その中の多く鉱山発展見込まれないことなどから休山となっていったが、細倉鉱山北海道下川鉱山などとともに発展性の高さが評価され大規模な投資なされることになったこれまで細倉鉱山開発してきた資本とは比べものにならない資本である三菱による積極的な投資によって、細倉鉱山神岡鉱山に次ぐ日本第二位生産高挙げる鉛、亜鉛鉱山へと成長した三菱鉱業は、まず細倉鉱山主要部であった天地区に立坑開鑿し、続いて選鉱場改造精錬設備改善拡張行った1935年昭和10年)には浮遊選鉱場の開設亜鉛精錬工場新設などを行い、、1936年昭和11年)には硫化鉄鉱採掘設備建設し電気精鉛工場亜鉛湿式精錬工場新設するなど、矢継ぎ早に鉱山設備充実図ったその結果1937年昭和12年)には三菱鉱業買収前の3倍以上となる16トン越え粗鉱産出量を記録した細倉鉱山には更なる拡張余地があると判断した三菱鉱業は、1938年昭和13年)には中央立坑開鑿し、ビスマス精錬設備新設、そして、1939年昭和14年)には鉱山使用する電力供給のために、一迫川水路式発電所である川口発電所(現・細倉金鉱業川口第一発電所)の建設開始して1941年昭和16年)に完成し、更に、1940年昭和15年)には選鉱所や鉛、亜鉛精錬設備増設を行うなど設備投資を更に押し進めた1941年粗鉱産出量は20トン突破し日本有数の鉛、亜鉛鉱山へと成長した戦前採掘量のピークは、1943年昭和18年)で、粗鉱産出量は29トン越えた。しかしこれは戦時中進められ増産体制強化成果でもあり、この頃から鉱山労働者中には応召される者が増えて人員不足が目立つようになり、また物資の不足深刻になりつつあった。1944年昭和19年)はほぼ1943年同レベル生産維持したが、人員の不足は深刻で、学徒勤労報国隊朝鮮人中国人労務者、そして連合軍捕虜などの非熟練労働力導入しなければならない状態に陥った1945年昭和20年8月10日米軍爆撃機空襲によって選鉱所や精錬所などの鉱山設備被害受けたため、鉱山操業停止された。その後まもなく終戦迎えたが、これまで鉱山働いてきた学徒勤労報国隊朝鮮人中国人労務者、そして連合軍捕虜らがいなくなった影響人手不足深刻化していた。また鉛や亜鉛など非鉄金属大手需要であった軍需産業消滅し食糧難物資不足なども顕著で、終戦後まもなくは鉱山操業半ばストップした状態が続いた終戦直後から細倉鉱山労働者たちの中で労働組合結成準備が行われていたが、1946年昭和21年1月には細倉鉱山組合結成について助言行っていた鈴木文治佐々木更三らを招いて細倉鉱山労働組合結成大会開催された。細倉鉱山労働組合賃金問題交渉こじれたことが原因で、1947年昭和22年7月15日から9月17日63日間ストライキ行った。また終戦後混乱はなかなか沈静化せず、食糧事情資材燃料の不足、そして電力不足のために鉱山経営の困難は続いた。更に1947年7月には水害襲われ、翌、1948年昭和23年9月にはアイオン台風大雨によって鉱山は再び大きな被害受けた1947年危機瀕していた非鉄金属産業救済するために国が資金援助在庫買い上げ行い、更に補助金に当たる価格差補給金制度適用されることになったその結果ようやく非鉄金属業界当面危機脱したが、1949年昭和24年)にはドッジラインによって補助金カットされ、再び非鉄金属産業深刻な状態に陥り、中小鉱山では閉山するところ相次いだそのような中、細倉鉱山経営する三菱鉱業集中排除法に基づき炭坑部門鉱山金属加工部門分割され1950年昭和25年4月1日細倉鉱山新設太平鉱業株式会社所属することになった。なお太平鉱業株式会社は、1952年昭和27年)に三菱金属鉱業株式会社となる。 1950年6月朝鮮戦争勃発による朝鮮特需によって、非鉄金属需要急増して価格高騰しこれまで経営困難な状況続いていた非鉄金属業界一気復活した細倉鉱山でも1950年粗鉱産出量が16トン越えるなど生産力回復し鉱山輸送を担う栗原鉄道同年電化なされた1951年昭和26年)には亜鉛精錬時に排出される亜硫酸ガスから硫酸製造する工場建設し粗鉱産出量も1953年昭和28年)には20トン突破するなど順調に伸び1955年昭和30年)にはこれまで762ミリ狭軌であった栗原鉄道軌道を1067ミリとする改軌行い国鉄との貨物直通輸送が可能となった。そして鉱山拡張に伴い再び電力不足が問題となったため、川口第二発電所(現・細倉金鉱業川口第二発電所)の建設取り掛かることになった。この川口第二発電所取水元として選ばれたのが、当時第3次吉田内閣進めていた北上特定地域総合開発計画に基づき宮城県迫川建設していた多目的ダム花山ダムである。 その後細倉鉱山主産物である鉛と亜鉛精錬工場の拡張が行われ、採鉱量の増加計画進められ1964年昭和39年)には月産粗鉱産出5万トン体制となり、月産7トン目指し更なる産出量の増加目指し取り組み続けられた。1960年代高度経済成長によって非鉄金属産業好調な業績挙げ続けており、細倉鉱山最盛期迎え粗鉱産出量は1967年昭和42年)に70トン台、そして1970年昭和45年)には80トン突破した

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