ヴィラ・エアランゲンから三十年戦争まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 13:46 UTC 版)
「エアランゲン」の記事における「ヴィラ・エアランゲンから三十年戦争まで」の解説
エアランゲンは、1002年の文献に初めて名前を挙げて記録されている。この地名の由来は明らかでない。Erlen(ハンノキ)と Anger(牧草地)が一体化したものという郷土研究家の説は、地名研究家の支持を得られていない。 ドイツ王オットー2世は、976年に、フォルヒハイムの聖マルティン教会をその付属する諸々とともにヴュルツブルク司教区(ドイツ語版、英語版)に寄進した (MGH, D. O. II., 132)。ハインリヒ2世は、1002年にこの寄進の正当性を確認し (MGH, D. H. II., 3)、これを司教区から新たに設立されたハウク修道院に移管することを許した。オットー2世の文書とは対照的に、この文書には付属するものが詳述されている。この中に、ラーデンツガウに位置する「villa erlangon」(villa = 村落)も記載されている。当時、バイエルンのノルトガウ(ドイツ語版)は、西はレグニッツ川まで、北はシュヴァーバッハ川まで広がっていた。ヴィラ・エアランゲンはこの境界の外側に位置したはずであり、現在のエアランゲン旧市街はこれにあたらない。レグニッツ川の西に位置し、現在はエアランゲンに統合されているアルト=エアランゲンの他にエアランゲンという集落名はドイツでは2つと存在しないので、「erlangon(中略)in pago Ratintzgouui」という記述は古エアランゲンを意味していると考えられる。この文書は別の証拠をも提供している。ハインリヒ2世は1002年に、これに加えてレグニッツ川の東に位置する別の地域も寄進した。シュヴァーバッハ川の河口から東に1マイル、この河口からレグニッツ川の上流および下流にそれぞれ1マイルがその土地である。この2平方マイルの土地(マイレンクアドラート)は、距離と2本の河川の名称で記述されているだけで、集落との関係は記述されていない。この土地は villa erlangon を含む聖マルティン教会の付属の土地は無関係である。したがって聖マルチンの土地とマイレンクアドラートとは空間上、分離されて存在していたと考えられる。2平方マイルという広さは、当時の村落が必要とした広さと概ね一致する。この文書作成時に建設中であった、この寄進で言及されているレグニッツ川東側の開墾入植地が、他の場合と同じように、母体となった集落の名前を引き継いだと考えることで、この推定は補強される。新しい入植地は西向きの洪水の心配がない、現在のハウプト通り、シュール通り、ラツァレット通りに囲まれた三角形の砂丘の上に建設された。 わずか15年後の1017年に、ハインリヒ2世は聖マルティン付属地(エアランゲンを含む)を新たに設けられたバンベルク司教区(ドイツ語版、英語版)に移管する交換協定 (MGH, D. H. II., 372) を通告した。この状態は1361年まで存続した。この間、この集落の名前は史料に散発的に現れるだけであった。 1063年8月20日、行軍中のハインリヒ4世は2つの文書に actum Erlangen と記している (MGH, D. H. IV., 109 および 110)。このことから郷土史家は「エアランゲンは、1063年にはハインリヒ4世が多くの諸侯や司教を伴って滞在できるほど、その規模において重要な街となっていた」、すなわち王の宮廷所在地であったと推測した。この王宮はバイロイター通り8番地の地所にあったと考えられた。王領はその後マイレンクアドラートの南に移され、1002年の文書で言及されることなく寄贈されたのであろう。他にもこうした施設の文献的証拠がない場合がある。おそらくハインリヒ4世は「新しい」エアランゲンを記述したのではなく、古い「villa erlangon」を記録したのであった。南から北への谷の通りは、ブルック付近ででレグニッツ川の左岸に渡り、北のアルトエアランゲン、クラインゼーバッハ=バイアースドルフ方向へ向かっており、エアランガー・ブルクベルクの征服を助長することはなかった。 エアランゲンはもっぱら、司教が財政難のために質入れするときにのみ言及された。この村がどのように発展していったかは不明である。1348年の司教の土地台帳にある「grozzenerlang」という記述が、司教の村が元の villa erlangon を凌駕したことを示す証拠である。 1361年12月に皇帝カール4世は、バンベルク司教ルポルト・フォン・ベーベンブルクから「エアランゲン村をすべての権利、付属する動産および不動産とともに」2,225プフント・ヘラーで購入し、ベーメン王国のレーエンである「ノイベーメン」と呼ばれる地域と統合した。この村はベーメン王の下で急速に発展した。1367年、皇帝は3日間エアランゲンに滞在し、帝国林における放牧権をエアランゲンの住民に与えた。1374年には、カール4世はエアランゲン住民に7年間の免税権を与えた。同時に市場開催権も授与した。おそらく1361年以後の早い時期に、新しい領主は獲得した所領の運営を行うために集落の西にエアランゲン要塞を建設し、ここに住んだ。ヴェンツェル王は貨幣鋳造所を建設し、1398年にエアランゲンを「市」とした。そのために残りの特権を授けた: 通行税の徴収権、パン屋や肉屋を含む商店の建設、市壁の建設である。 2年後の1400年に選帝侯はヴェンツェルを再選しなかった。ヴェンツェルは資金不足のため、1402年にエアランゲンを含むフランケンの所領を義兄弟にあたるニュルンベルク城伯ヨハン3世に売却した。フランケンの城伯の所領分割により、エアランゲンはオーバーベルギシャー侯領、後のバイロイト侯領に含まれた。エアランゲン硬貨は、鋳造マイスターが貨幣偽造でニュルンベルクで処刑されたため、廃止された。 フス戦争により、この小都市は1431年に初めて完全に破壊された。アルブレヒト・アヒレス辺境伯のニュルンベルク市に対する宣戦布告で1449年に第一次辺境伯戦争が起こった。アルブレヒト軍はこの帝国都市を完全に包囲することができなかったため、ニュルンベルク軍は辺境伯の都市や村を繰り返し攻撃し、荒廃させた。都市が復興するとすぐに、バイエルン=ランツフート公ルートヴィヒ(富裕公)は、1459年に辺境伯を攻撃した。エアランゲンは、今度はバイエルン軍による奇襲と略奪にさらされた。その後この街は復興した。1525年のドイツ農民戦争では、エアランゲンは被害を免れた。1528年の宗教改革の影響も穏やかに過ぎ去った。しかし、1552年にアルブレヒト・アルキビアデス辺境伯が第二次辺境伯戦争を引き起こし、エアランゲンはニュルンベルク軍に攻撃され、一部が破壊された。皇帝カール5世はアルブレヒトに対して帝国アハト刑を宣言し、ニュルンベルク領のエアランゲンを自らの直轄に移管した。アルブレヒトは1557年に死亡した。その後継者ゲオルク・フリードリヒ1世は、クルムバッハ侯領に関する皇帝の財産の接収を願い出て、早くも1月後には再び統治を始めた。彼の統治下で、この街は戦争の被害から立ち直り、三十年戦争が進行するまで煩わされない状態が保たれた。この時代の街や、そこに住む人については、ほとんど伝えられていない。 1129年に「フォン・エアランゲン」貴族家の構成員が証人として文献に登場する。1288年にもこの名を持つ証人が登場する。彼らはおそらく、グリュンドラハのミニステリアーレであった。この家門は、グリュンドラハの陪臣レーエンとしてエアランゲンやその周辺に多くの所領を有していた。何度も文献にその名が登場するにもかかわらず、家系をたどることはできない。15世紀初めにこの家系は断絶した。 1328年の寄進状には「heinrich der alt smit」が住む農場が記載されており、20年後の1348年の司教の土地台帳には利息の支払い義務を有する土地所有者7人の名前が記されている。1497年のゲマイナー・プフェニヒ(税)のリストにこの街の人口が 92戸、成人(15歳以上)212人と記されている。1戸あたり1.5人の子供(15歳未満)がいると仮定すると、この街には約350人の住民が住んでいたことになる。この数値はその後もほとんど変わらなかった。1528年の土地台帳には83人の納税義務を課された戸主が記されており、1567年のトルコ税リストには97人の戸主と5人の後見付きの子供が記されている。通りごとに整理されたすべての戸主(間借り人を含む)の完全なリストは旧市街の司祭ハンス・ハイリヒによって1616年に作成された。この三十年戦争が始まろうとしている時代にこの街には、118戸、約 500人が住んでいた。 エアランゲン旧市街は繰り返し完全に破壊された。最後は1706年の火災によるものであった。北シュタットマウアー通りの市壁の一部と旧バートハウス(西シュタットマウアー通り 31番地)の1階裏側だけが中世後期の時代にまで遡ることができる。道路の構成を含む都市景観は、1706年の大火後に新しく設けられ1797年の行政改革まで存在した独自の行政機関「クリスティアン=エアラング」(司法と立法の合議体)が策定した規則的な道路スキームに忠実に従って整備された。シュール通り、ラツァレット通り、アドラー通りだけが旧来通り遺された。深く掘られた地下倉庫は、破壊や火災をほとんど無傷で乗り越えた。これらの上に新しい建物が建設された。このため、1988年から郷土歴史協会の依頼で二人のエアランゲン建築家が旧市街の地下倉庫を測量している。同じ頃、エアランゲン都市考古学会は市立博物館の中庭で発掘調査を行った。両活動によって、中世後期から近世の街の広範な様子が得られた。
※この「ヴィラ・エアランゲンから三十年戦争まで」の解説は、「エアランゲン」の解説の一部です。
「ヴィラ・エアランゲンから三十年戦争まで」を含む「エアランゲン」の記事については、「エアランゲン」の概要を参照ください。
- ヴィラ・エアランゲンから三十年戦争までのページへのリンク