東洋工業サッカー部
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東洋工業サッカー部(とうようこうぎょうサッカーぶ)は、かつて存在した日本のサッカークラブ。日本プロサッカーリーグに加盟するサンフレッチェ広島F.Cの前身となったクラブである[1][2][3][4]。
- ^ 一般にサッカー御三家といえば広島・静岡・埼玉のほうが著名であるが[2][4][8][14]、これは戦後から呼ばれだしたものであり、それ以前は東京・兵庫(神戸)・広島で御三家と呼ばれていた[15]。
- ^ 九州地方代表の日鉄二瀬も同じく実業団として初出場。
- ^ 東洋工業の現役選手が正式にサッカー教室を始めたのは1965年から[28]。これがのちのマツダサッカースクールや今日のサンフレッチェ広島F.Cの育成組織に受け継がれていく。
- ^ 残り4人は、栃木2人(小沢・松本)、長崎1人(小原)、静岡1人(沼野)。
- ^ 2000年代後半からイビチャ・オシムらが推奨する「考えて走るサッカー」が注目されているが、彼らはそれを実践していた[30]。
- ^ 第46回大会1966年1月14日に行われた早稲田大学との決勝戦は、国立競技場で初めて決勝が行われた大会であり、学生が最後に優勝した大会でもある(2-3対早稲田大)。
- ^ オイルショック前までのマツダは世界初となる自動車搭載用ロータリーエンジンの開発に成功し、圧倒的なシェアを誇るトヨタ、日産を追走していた。
- ^ 後の1980年代、サッカー部部長に就任した今西和男は、他チームと比べて初任給に差があったためと分析している[41]。
- ^ 1980年春のキャンプ時に広島県立五日市高等学校との練習試合を行い、主力メンバーを出さなかったとはいえ1-3で負けてしまった[42]。またこれはニュースとして『中国新聞』紙面で扱われた。
- ^ 特に県工出身の金田喜稔・木村和司らが帰って来なかった時の広島のサッカー関係者の落胆は大きかった。
- ^ 詳細はサンフレッチェ広島F.Cの育成組織#前史を参照。
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- ^ 偶然か。必然か。サンフレッチェ広島出身者から優秀な監督が続出
- ^ “J2栃木監督に71歳松本氏 J最高齢”. サンケイスポーツ (2013年9月13日). 2013年10月29日閲覧。
- ^ J連覇の広島 昇格の徳島と共通点とは
- 1 東洋工業サッカー部とは
- 2 東洋工業サッカー部の概要
- 3 大会成績
- 4 国際試合
- 5 脚注
固有名詞の分類
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