吉田浩_(サッカー選手)とは? わかりやすく解説

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吉田浩 (サッカー選手)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/10 09:07 UTC 版)

吉田 浩
名前
カタカナ ヨシダ ヒロシ
ラテン文字 YOSHIDA Hiroshi
基本情報
国籍 日本
生年月日 1943年
出身地 広島県
選手情報
ポジション HBFW
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1966-197? 東洋工業
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

吉田 浩(よしだ ひろし、1943年10月9日 - )は、広島県出身の元サッカー選手。

来歴

父親は東洋工業(現:マツダ)で働き、1947年労務部長時代に東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現:サンフレッチェ広島)を復活させた中心人物。

修道高校時代は下村幸男監督の下、森孝慈中村勤らとともに、1961年国体優勝。さらに全国高校サッカー選手権釜本邦茂二村昭雄を擁する京都府代表の山城高校を破り優勝、高校2冠を達成した。同年、バンコクで開催された第4回アジアユースサッカー日本代表に選ばれる。

1962年立教大学へ入学、先輩に渡辺正がいた。故障しがちであまり活躍しなかった。

卒業後は東洋工業へ入社、東洋工業蹴球部に在籍。ハーフバックとして、小城得達や二村昭雄などと共に東洋工業の中盤を組み、1969年のJSLでは得点ランキング4位(6点)、1970年天皇杯優勝など黄金期の一躍を担った。

その後、主力FW陣の引退と共にフォワードにコンバートされ、そのキープ力はチームに貴重なアクセントを与えた。

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1966 東洋 JSL 0 0 -
1967 東洋 JSL 1 -
1968 東洋 JSL 2 -
1969 東洋 JSL 6 -
1970 東洋 JSL 11 -
1971 東洋 JSL -
1972 東洋 JSL1部 -
通算 日本 JSL1部 47 11 -
総通算 47 11 -

参考文献

  • 『月刊サッカーマガジン』1966年06月01日号
  • 月刊サッカーマガジン1972年06月01日号JSL人物レビュー

関連項目




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