小原秀男
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/04 17:32 UTC 版)
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| カタカナ | コハラ ヒデオ | |||||
| ラテン文字 | KOHARA Hideo | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | ||||||
| 生年月日 | 1950年12月29日 | |||||
| 出身地 | 広島市佐伯区 | |||||
| 没年月日 | 2015年10月2日(64歳没) | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | FW/MF/DF | |||||
| ユース | ||||||
| 1966-1968 | 広島県立広島工業高等学校 | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1969-1981 | 東洋工業/マツダ | 182 | (13) | |||
| 監督歴 | ||||||
| マツダコーチ | ||||||
| マツダオート広島コーチ | ||||||
| 広島県国体選抜男子監督 | ||||||
| 2002- | MUNE広島FCコーチ | |||||
| 2010-2013 | FCマルヤス岡崎監督 | |||||
| 2014 | FCマルヤス岡崎 テクニカルアドバイザー |
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| 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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小原 秀男(こはら ひでお、1950年12月29日 - 2015年10月2日)は、広島県広島市佐伯区出身のサッカー選手・指導者[1]。
来歴
広島県立広島工業高等学校卒業。3年時の1968年、同級の荒井公三らと全国高等学校サッカー選手権3位[2]。ユース日本代表にも選ばれ第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)出場。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者で[3]、多くが日本サッカーリーグ(JSL)に進み、各チームの主力選手として活躍した[2]。(詳細は崎谷誠一の項目を参照)。
高校を卒業後、1969年に東洋工業(現マツダ)へ入社、東洋工業サッカー部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)の選手として活躍した[4]。攻撃の選手としてMF・FWとしてプレーし、現役晩年にはDFラインに入り守備陣をリードした。ミュンヘン五輪代表候補などにも選出され、1972年のJSLではアシストランキング4位(4アシスト)、1978年には古田篤良や渡辺由一らと共に天皇杯決勝進出に貢献した。
現役引退後、東洋工業コーチに就任、マツダSC時代もハンス・オフト監督のコーチとして活躍した[1]。その後、広島県国体選抜(成年の部)監督、マツダオート広島サッカー部コーチ等を歴任し、当時中国サッカーリーグに所属していたマツダオートの2度(1986年・1988年)の日本サッカーリーグ(JSL)2部昇格に貢献した[1]。
2002年、地元広島でMUNE広島FCコーチとして活動した[1]。また、かつての名選手が数多く在籍する広島四十雀サッカークラブの監督も務める[1]。
2010年、当時東海社会人リーグ所属のマルヤス工業/FCマルヤス岡崎監督に就任する[1]。4年目の2013年、東海リーグ1部初優勝を飾るとともに、J3リーグの創設などの複数の要因のためチームをJFL昇格に導いた[4]。ただJFA公認A級コーチジェネラルライセンス(日本サッカー協会指導者ライセンス参照)を持っていないためJFLでは指揮できないことから、2014年監督を退任しテクニカルアドバイザーに就任している。その後退任し帰郷[5]。
2015年10月2日、病気療養中に死去[5]。享年64 [5]。
個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1969 | 東洋 | JSL | - | ||||||||
| 1970 | 東洋 | JSL | 11 | - | |||||||
| 1971 | 東洋 | JSL | - | ||||||||
| 1972 | 東洋 | JSL1部 | - | ||||||||
| 1973 | 東洋 | JSL1部 | |||||||||
| 1974 | 東洋 | JSL1部 | - | ||||||||
| 1975 | 東洋 | JSL1部 | - | ||||||||
| 1976 | 東洋 | JSL1部 | |||||||||
| 1977 | 東洋 | JSL1部 | |||||||||
| 1978 | 東洋 | JSL1部 | |||||||||
| 1979 | 東洋 | JSL1部 | |||||||||
| 1980 | 東洋 | JSL1部 | |||||||||
| 1981 | マツダ | JSL1部 | |||||||||
| 通算 | 日本 | JSL1部 | 182 | 13 | |||||||
| 総通算 | 182 | 13 | |||||||||
出典
- ^ a b c d e f “クラブの指導者を紹介します”. MUNE広島FC. 2014年1月20日閲覧。
- ^ a b 『週刊サッカーマガジン』2011年6月14日号 、p70
- ^ 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』広島サッカー85年史編纂委員会 財団法人 広島県サッカー協会、2010年、p71
- ^ a b “岡崎「マルヤス工業 サッカー部」JFL加入-創部38年目で”. 岡崎経済新聞 (2013年12月10日). 2014年1月20日閲覧。
- ^ a b c “訃報連絡(小原秀男氏)”. MUNE広島FC. 2016年8月2日閲覧。
参考資料
- 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
関連項目
固有名詞の分類
- 小原秀男のページへのリンク