ドレフュス事件から祖国同盟・アクションフランセーズまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「ドレフュス事件から祖国同盟・アクションフランセーズまで」の解説
1894年、ドイツ大使館付き武官シュヴァルツコッペンのゴミ箱から発見された軍事機密文書は、筆跡鑑定からユダヤ人大尉ドレフュスのものとされ、さらにドレフュスはイタリア大使館からも買収されていると告発された。軍は証拠不十分のまま非公開の軍法会議においてドレフュスに有罪判決を下し、南米仏領ギアナ沖の悪魔島で禁錮刑とした。このドレフュス事件は冤罪事件であったが、それまで常軌を逸した奇習にすぎなかったフランスの反ユダヤ主義はこれ以降決定的な潮流となった。 ドレフェス事件は国際的な話題となり、ドリュモンは、ドイツ人、イギリス人、イタリア人はなぜ反フランス的な人間であるドレフェスの肩を持つのかと述べた。後にアクシオン・フランセーズの中心的な活動家となるレオン・ドーデは「ドレファスはわれわれフランス人の破滅を画策した。しかし、彼の犯罪はわれわれの意気を高揚させもしたのだ」として「われらが人種、われらが言語、われらが血のなかの血」以外は信を抱くまいと表明した。作家のモーリス・バレスは、ユダヤ人を「比類なき論理学者で、銀行口座そのままの明晰さ、非人称性に裏打ちされている」と賞賛したり、ディズレーリにも賛辞を捧げた。しかし、ドレフェス事件が発生すると「ドレフェスが裏切りをやりかねないということを、私は彼の属する人種から判断する」と述べ、バレスはドレフェス事件以降は「国民的エネルギー」三部作でユダヤ人金融業者が「われわれの政府」であると描いた。 1896年に情報部長ピカール中佐は、真犯人はハンガリー生まれのエステルアジ少佐であることを突き止めたが、軍は権威失墜を恐れてもみ消しを図り、ピカールを左遷、エステルアジを無罪釈放した。 作家ゾラは、1898年1月13日新聞「オーロール」で「私は弾劾する」を発表し、ドレフュスの不法投獄を告発した。しかし、ゾラは告訴され、名誉棄損で有罪となった。1898年の1月と2月にフランス各地で69件の反ユダヤ暴動が起き、アンジェとマルセイユで約4000人,ナントで約3000人、ルアンで約2000人の群衆がユダヤの商店やシナゴーグを破壊した。反ユダヤ主義のデモや暴力沙汰が相次ぐなか、ドレフェス派のフィガロ編集長ロデーは更迭された。アルジェリアで反ユダヤ暴動が発生すると、マックス・レジはドリュモンに立候補を打診した。1898年5月総選挙で、ドリュモンは当選し、アルジェリア選出の3名の議員と議会内で反ユダヤグループができた。 1898年夏、ドレフェス有罪の証拠とされてきた文書が偽書であったことをアンリ大佐が認めた後、自殺した。9月6日ガゼット・ド・フランスでシャルル・モーラスはアンリ大佐は「国家の偉大な利益への英雄的奉仕者」であると論じた。またモーラスは「ユダヤ教の育まれた真のプロテスタントは、生まれながらにして国家の敵」と、プロテスタントも敵視していた。1898年12月にドリュモンはアンリ大佐未亡人のための募金活動を開始、ドリュモンやモラスらはアンリ大佐は祖国への殉教者であると主張し、アンリ大佐記念碑のための募金には73名の議員、モーリス・バレス、詩人ジャン・ロラン、ジープ、ピエール・ルイス、フランソワ・コペ−、ポール・ヴァレリー、ポール・レオトーなどの文人詩人が名を連ねた。 1898年にはフランス祖国同盟、ドリュモンの「全国反ユダヤ青年会」、シャルル・モーラスとアルフォンス・ドーデの息子レオン・ドーデによるアクション・フランセーズなどの反ユダヤ主義組織が誕生し、フランスにおける反ユダヤ主義の頂点であると同時に出発点となった。政治活動家ポール・デルレードは反ドレフュス活動を展開した。 ゾラやフランス人権同盟を結成した人権派がドレフェスを擁護したことに対抗して1898年10月末、教師のドーセとシブトンが哲学教授アンリ・ヴォージョアの助力を得て反ドレフェス文書を作成してリセを一巡した。1898年12月、ヴォージョアとジャーナリストのピュジョが「アクション・フランセーズ」記事でフランスの社会を再建して強力な国家になることを主張した。ドーセらの活動に賛同したアカデミー・フランセーズ会員の詩人フランソワ・コペ、ジュール・ルメートル、モーリス・バレスらは1898年年末から翌年にかけてフランス祖国同盟を結成した。画家のドガやルノワール、作家のフレデリック・ミストラル(ノーベル文学賞)、SF小説のジュール・ヴェルヌ、コレージュ・ド・フランス教授・数学者カミーユ・ジョルダン、物理学者ピエール・デュエムなど多数の学者・芸術家が加盟した。バレスは「ドレフェス事件それ自体は無意味である。重大なのは反軍国主義と国際主義の教義のために、ドレフェスが捏造され利用されている」ことであると宣言した。ただし、祖国同盟では反ユダヤ主義とナショナリズムの教義は退けるとしながら、反ユダヤ主義者も受け入れるとした。1899年1月19日、祖国同盟議長ルメートルが、ユダヤ人、プロテスタント、フリーメイソンが連帯して過去の復讐を償わせるために、ここ20年フランスの権力を握っていると演説をした。ただし、同盟会員のアナトール・フランスはドレフェス擁護派だった。 しかし、祖国同盟の目的のなさに不満を持ったプジョとヴォージョワとシャルル・モーラスは1899年6月、反ユダヤ主義-反議会主義-フランス伝統主義を明言した右翼組織アクション・フランセーズを結成した。アクション・フランセーズはフリーメイソン精神、プロテスタント精神、ユダヤ精神に対して、カトリックを称揚した。モーラスは完全なナショナリズムは君主制の復興にあるとして王政主義を主張した。アクション・フランセーズはドイツの国家社会主義との共通点を持っていたが、民族の祖先についてはキリスト教教派を超えた結束を目指すエキュメニズムの立場をとり、ユダヤ人は考慮外として、ゲルマン人だけでなく、ケルト人、リグリア人、ガラチア人、ギリシア人、ローマ人も神殿に迎え入れた。純粋なアーリア人の血統を顧みないアクション・フランセーズに対して、後年1940年代にパリのナチス支持のフランス人民党員の人類学者ジョルジュ・モンタンドンは「アクション・マラーノ」と批判した。 社会主義者ギュスタヴ・テリーは反軍国主義、反教権主義、反ユダヤ主義であり、創刊したルーブル紙では「ユダヤ人は敵」「ユダヤ禍」「権力が組織するユダヤ侵略」「いたるところにユダヤ人」という決まり文句が多用された。また、『シオン賢者の議定書』は1897年から1899年のあいだにパリで練り上げられた。『シオン賢者の議定書』はロシア帝国内務省警察部警備局パリ部長のピョートル・ラチコフスキーが現在も身元不明の作者に依頼して作成したものであった。 ゾラの「我弾劾す」を掲載した「オーロール」紙主幹で社会主義者のクレマンソーはドレフェス擁護派であったが、1898年の『シナイの麓にて』ではユダヤ人は「爪を尖らせた両手でいかがわしい品々にがめつくしがみつく」、活力に満ちた人種であり「この世で最も貴重な人間の宝」であると賞賛する一方で「みずからの神々をわれわれに押しつけようとしたがために、蔑まれ、憎まれ、迫害され続けてきた彼(セム人)は、地上の覇者となることによって立ち直り、みずからを完成に導こうとしている」と述べ「アーリア的理想主義の見地から、私はこの事実(ユダヤ人の活力)を一つの不幸としてとらえている」と論じた。クレマンソーによれば、キリスト教徒はユダヤ人を根絶する必要性を感じているが、しかし、それはキリスト教徒の素行を正すだけでその必要はなくなるとした。 1899年9月の軍法会議再審でドレフェスは禁錮10年に減刑された。
※この「ドレフュス事件から祖国同盟・アクションフランセーズまで」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「ドレフュス事件から祖国同盟・アクションフランセーズまで」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。
- ドレフュス事件から祖国同盟・アクションフランセーズまでのページへのリンク