スペイン反逆事件と計画の始動
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「火薬陰謀事件」の記事における「スペイン反逆事件と計画の始動」の解説
火薬陰謀事件の主要メンバー名前参加時期最期関係ロバート・ケイツビー 首謀者 戦闘で死亡 ジョン・ライト 初期5人の一人 戦闘で死亡 トマス・ウィンター 初期5人の一人 大逆罪で処刑 トマス・パーシー 初期5人の一人 戦闘で死亡 ガイ・フォークス 初期5人の一人 大逆罪で処刑 ロバート・キーズ 1604年10月 大逆罪で処刑 トマス・ベイツ 1604年12月 大逆罪で処刑 ケイツビーの使用人 ロバート・ウィンター 1605年3月 大逆罪で処刑 トマスの兄 クリストファー・ライト 1605年3月 戦闘で死亡 ジョンの弟 ジョン・グラント 1605年3月 大逆罪で処刑 ウィンター兄弟の義弟 アンブローズ・ルックウッド 1605年9月頃 大逆罪で処刑 キーズの従姉妹の夫 エバラード・ディグビー 1605年9月頃 大逆罪で処刑 フランシス・トレシャム 1605年9月頃 獄死 ケイツビーの従兄弟 火薬陰謀事件の首謀者であるロバート・ケイツビーは、「古くからの由緒ある名門」の出身であった。彼は当時の人々から「身長約6フィートの美男子で、運動神経が良く、優れた剣士」と評されていた。エリザベス女王の時代から信仰のためには武力も辞さないと考えていた敬虔なカトリック教徒であり、宗教政策の変更を期待して多くのカトリック教徒も関与した1601年のエセックス伯の反乱(英語版)にも参加していた。この時は負傷して捕縛され、エリザベス女王より4,000マーク(2008年現在の価値に換算して600万ポンド以上に相当)の罰金を科す代わりに助命されて、支払いのためチャスルトン(英語版)の地所を売却することとなった。1603年にジェームズが即位してスペインとの融和関係が作られ始めると、スペインによる武力侵攻でカトリック解放を期待していたケイツビーは、他のカトリックの友人らと共にスペインの新王フェリペ3世にイングランドへの侵攻を促す嘆願を行うことにし、後述のトマス・ウィンターが交渉者として派遣された。しかし、スペイン王はイングランドのカトリック教徒の窮状に同情してはいたが、それよりもジェームズとの和平を望んでおり、結局翌1604年にはロンドン条約(英語版)が締結され講和した 。ウィンターは、この講和条約の特使としてイングランドにやってきたドン・ファン・デ・タシス(英語版)とも会談する機会を持ち、その際には「3,000人のカトリック教徒」がスペインによる侵攻に呼応する準備があると説得しようとしたが、相手にされなかった。時の教皇クレメンス8世は、イングランドのカトリック勢力回復のために軍事力を用いることは、結果として残存するカトリック教徒を滅ぼすことになると懸念を表明していた。このスペイン政府にイングランド侵攻を嘆願する使節団は、後の火薬陰謀事件の裁判において「スペイン反逆事件(Spanish Treason)」として糾弾されることとなった。 ケイツビーが貴族院を爆破する計画をいつから企てたのか正確な日時は不明だが、ジェームズが即位して間もない1603年6月頃、彼はアシュビー・セント・レジャーズの自宅においてカトリック教徒の友人であるトマス・パーシーの訪問を受けた。パーシーはノーサンバランド伯爵家一族の出身で(第4代ノーサンバランド伯の曾孫にあたる)、宮中の著名人でもある現当主第9代ノーサンバランド伯爵ヘンリー・パーシーに仕えている人物であった。パーシーは伯爵に重用されており、1596年から同家の北部領地の代官に任命され、1600年から1601年にかけては伯爵と共にに低地地方(ネーデルラント)にも従軍していた。伯爵は同地にて指揮を執っていた頃、エリザベス女王の健康が思わしくないことを踏まえて、次期王位継承の有力候補であったスコットランド王時代のジェームズと密かに関係強化を図ろうとし、その密使役にもパーシーを選んだ。パーシーはカトリックに改宗した「真面目な」人物と言われており、カトリック側の資料によれば、青年時代は「剣と個人の勇気」に頼る傾向があったという。彼はこの機会を利用して次期国王にカトリックへの寛容政策の約束を取り付けたいと考え、またエリザベス女王の寵愛を受けていた妻マーサ・ライトとの別居に伴う家の不名誉も軽くしたいと考えていた。ノーサンバランド伯自身はカトリック教徒ではなかったが、イングランド国内のカトリック教徒の展望を良くしたいという意思は持っており、当時のジェームズとの書簡ではあからさまに活動しなければ処罰しないというような返信をもらい、伯爵は個人宅でミサを行うくらいは認められるようになるだろうと予想していた。さらにパーシーは、自分の評判を高めたいために、(自分の交渉によって)将来の王がイングランドのカトリック教徒の安全を約束してくれた、とカトリックの仲間内に吹聴していた。そうした経緯がある中で、イングランド王となったジェームズはパーシーが期待していたほどの宗教政策の変更を行う気配を見せず、これに裏切られたと感じた彼は不満を鳴らし、暗殺も辞さない態度を見せた。ケイツビーは彼の短慮を宥める一方で、「俺はもっと確実な方法を考えているから、すぐに君に知らせる」と回答した。 当時の記録によれば、ケイツビーが最初に具体的な計画について言及したのは1604年2月のことである。ケイツビーはランベスの自宅にトマス・ウィンターを招き、貴族院での議会開会式において議場を爆破し、イングランドのカトリックを再興するという彼の計画を明かしたという。ウィンターは有能な学者として知られており、数ヵ国語を話せ、またオランダではイングランド軍兵士として従軍した経験もあった。彼の叔父フランシス・イングルビー(英語版)は、カトリックの司祭であったために1586年に処刑され、その後カトリックに改宗したという経緯があった。また、この密談には、敬虔なカトリック教徒で、当時最高の剣士の一人と評され、エセックス伯の反乱にもケイツビーと共に参加したジョン・ライトもいた。ウィンターは試みが失敗した場合の影響を懸念したが、「謀(はかりごと)を企て失敗したところでそれ以上のことはできない」というケイツビーの巧言に説得され、計画への加担を決めた。ただ、ウィンターもケイツビーも、まだ外国からの支援を完全には諦めていなかったため、「我々は平和な静かな方法を試さないわけにはいかない」としてウィンターは支援を求めて再び大陸に向かった。 フランドル地方を訪れたウィンターはスペインの要人フリアス公(英語版)と会談したが結果は芳しく無く、次に元イングランドの司令官でスペインに寝返ったウィリアム・スタンリー(英語版)とウェールズ出身の亡命スパイであるヒュー・オーウェン(Hugh Owen)と会合を持った。2人はスペインが支援してくれる望みは薄いと答えたが、その代わりにオーウェンは前もってケイツビーが「忠実な同志になるだろう紳士」と見当をつけていたガイ・フォークスを紹介してくれた。フォークスはイングランド出身の敬虔なカトリック教徒であり、オランダ独立戦争においてスタンリーの指揮する部隊に所属し、彼の寝返りを受けて自らもスペイン軍の兵士となり、1603年には大尉に推薦されていた男だった。彼はまた1603年のスペイン宮廷にイングランド侵攻を嘆願する使節団にも参加していた。ウィンターはフォークスに「スペインによる戦争が我らの癒しにならないのであれば、イングランドで事を起こすことを決めている」と、計画を伝え、1604年4月に2人はイングランドに戻った。この数週間後にパーシーにも計画が伝えられた。 計画者たち5人の最初の会合は1604年5月20日に行われ、場所はおそらくトマス・ウィンターがロンドンに滞在する際の常宿であったストランドのすぐ近くにある宿屋ダック・アンド・ドレイクだったと思われる。外部から隔離された個室において、5人は祈祷書に秘密の誓いを立てた。偶然だが、ケイツビーの友人で、陰謀を知らないジョン・ジェラード神父が別室で聖餐(ミサ)を行っており、その後、5人は聖体を拝領した。
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