スペイン反逆事件と計画の始動とは? わかりやすく解説

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スペイン反逆事件と計画の始動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:17 UTC 版)

火薬陰謀事件」の記事における「スペイン反逆事件と計画の始動」の解説

火薬陰謀事件の主要メンバー名前参加時期最期関係ロバート・ケイツビー 首謀者 戦闘死亡 ジョン・ライト 初期5人の一人 戦闘死亡 トマス・ウィンター 初期5人の一人 大逆罪で処刑 トマス・パーシー 初期5人の一人 戦闘死亡 ガイ・フォークス 初期5人の一人 大逆罪で処刑 ロバート・キーズ 1604年10月 大逆罪で処刑 トマス・ベイツ 1604年12月 大逆罪で処刑 ケイツビーの使用人 ロバート・ウィンター 1605年3月 大逆罪で処刑 トマスの兄 クリストファー・ライト 1605年3月 戦闘死亡 ジョンの弟 ジョン・グラント 1605年3月 大逆罪で処刑 ウィンター兄弟義弟 アンブローズ・ルックウッド 1605年9月大逆罪で処刑 キーズ従姉妹の夫 エバラード・ディグビー 1605年9月大逆罪で処刑 フランシス・トレシャム 1605年9月獄死 ケイツビーの従兄弟 火薬陰謀事件首謀者であるロバート・ケイツビーは、「古くからの由緒ある名門」の出身であった。彼は当時の人々から「身長約6フィート美男子で、運動神経良く優れた剣士」と評されていた。エリザベス女王時代から信仰のためには武力辞さない考えていた敬虔なカトリック教徒であり、宗教政策の変更期待して多くカトリック教徒関与した1601年エセックス伯反乱英語版)にも参加していた。この時は負傷して捕縛されエリザベス女王より4,000マーク2008年現在の価値換算して600ポンド以上に相当)の罰金科す代わりに助命されて、支払いのためチャスルトン(英語版)の地所売却することとなった1603年ジェームズ即位してスペインとの融和関係が作られ始めると、スペインによる武力侵攻カトリック解放期待していたケイツビーは、他のカトリック友人と共にスペインの新王フェリペ3世イングランドへ侵攻促す嘆願を行うことにし、後述のトマス・ウィンターが交渉者として派遣された。しかし、スペイン王イングランドカトリック教徒窮状同情してはいたが、それよりもジェームズとの和平望んでおり、結局1604年にはロンドン条約英語版)が締結され講和した 。ウィンターは、この講和条約特使としてイングランドにやってきたドン・ファン・デ・タシス(英語版)とも会談する機会持ちその際には「3,000人のカトリック教徒」がスペインによる侵攻呼応する準備があると説得しようとしたが、相手にされなかった。時の教皇クレメンス8世は、イングランドカトリック勢力回復のために軍事力用いることは、結果として残存するカトリック教徒を滅ぼすことになると懸念表明していた。このスペイン政府イングランド侵攻嘆願する使節団は、後の火薬陰謀事件裁判において「スペイン反逆事件Spanish Treason)」として糾弾されることとなった。 ケイツビーが貴族院爆破する計画をいつから企てたのか正確な日時不明だが、ジェームズ即位して間もない1603年6月頃、彼はアシュビー・セント・レジャーズの自宅においてカトリック教徒友人であるトマス・パーシーの訪問受けたパーシーノーサンバランド伯爵一族出身で(第4代ノーサンバランド伯曾孫にあたる)、宮中著名人でもある現当第9代ノーサンバランド伯爵ヘンリー・パーシー仕えている人物であったパーシー伯爵重用されており、1596年から同家北部領地代官任命され1600年から1601年にかけては伯爵と共に低地地方ネーデルラント)にも従軍していた。伯爵同地にて指揮を執っていた頃、エリザベス女王の健康が思わしくないことを踏まえて次期王位継承の有力候補であったスコットランド王時代ジェームズ密かに関係強化図ろうとし、その密使役にもパーシー選んだパーシーカトリック改宗した真面目な人物と言われており、カトリック側の資料によれば青年時代は「剣と個人勇気」に頼る傾向があったという。彼はこの機会利用して次期国王カトリックへの寛容政策約束取り付けたいと考え、またエリザベス女王寵愛受けていた妻マーサ・ライトとの別居に伴う家の不名誉軽くしたいと考えていた。ノーサンバランド伯自身カトリック教徒ではなかったが、イングランド国内カトリック教徒展望良くしたいという意思持っており、当時ジェームズとの書簡ではあからさまに活動しなければ処罰しないというような返信をもらい、伯爵個人宅ミサを行うくらいは認められるうになるだろうと予想していた。さらにパーシーは、自分評判高めたいために、(自分交渉によって)将来の王がイングランドカトリック教徒の安全を約束してくれた、とカトリック仲間内吹聴していた。そうした経緯がある中で、イングランド王となったジェームズパーシー期待していたほどの宗教政策の変更を行う気配見せず、これに裏切られたと感じた彼は不満を鳴らし暗殺辞さない態度見せた。ケイツビーは彼の短慮宥める一方で、「俺はもっと確実な方法考えているから、すぐに君に知らせる」と回答した当時の記録によれば、ケイツビーが最初に具体的な計画について言及したのは1604年2月のことである。ケイツビーはランベス自宅にトマス・ウィンターを招き貴族院での議会開会式において議場爆破しイングランドカトリック再興するという彼の計画明かしたという。ウィンター有能な学者として知られており、数ヵ国語話せ、またオランダではイングランド軍兵士として従軍した経験もあった。彼の叔父フランシス・イングルビー(英語版)は、カトリック司祭であったために1586年処刑されその後カトリック改宗したという経緯があった。また、この密談には、敬虔なカトリック教徒で、当時最高の剣士一人評されエセックス伯反乱にもケイツビーと共に参加したジョン・ライトもいた。ウィンター試み失敗した場合影響懸念したが、「謀(はかりごと)を企て失敗したところでそれ以上のことはできない」というケイツビーの巧言説得され計画への加担決めた。ただ、ウィンターもケイツビーも、まだ外国からの支援を完全には諦めていなかったため、「我々は平和な静かな方法を試さないわけにはいかない」としてウィンター支援求めて再び大陸向かったフランドル地方訪れたウィンタースペイン要人フリアス公(英語版)と会談した結果芳しく無く次にイングランド司令官スペイン寝返ったウィリアム・スタンリー英語版)とウェールズ出身亡命スパイであるヒュー・オーウェン(Hugh Owen)と会合持った2人スペイン支援してくれる望みは薄いと答えたが、その代わりオーウェン前もってケイツビーが「忠実な同志になるだろう紳士」と見当をつけていたガイ・フォークス紹介してくれた。フォークスイングランド出身敬虔なカトリック教徒であり、オランダ独立戦争においてスタンリー指揮する部隊所属し彼の寝返り受けて自らもスペイン軍兵士となり、1603年には大尉推薦されていた男だった。彼はまた1603年スペイン宮廷イングランド侵攻嘆願する使節団にも参加していた。ウィンターフォークスに「スペインによる戦争我ら癒しならないであればイングランド事を起こすことを決めている」と、計画伝え1604年4月2人イングランド戻った。この数週間後にパーシーにも計画伝えられた。 計画者たち5人の最初会合1604年5月20日行われ、場所はおそらくトマス・ウィンターがロンドン滞在する際の常宿であったストランドのすぐ近くにある宿屋ダック・アンド・ドレイクだったと思われる外部から隔離され個室において、5人は祈祷書秘密の誓い立てた偶然だが、ケイツビーの友人で、陰謀知らないジョン・ジェラード神父別室聖餐ミサ)を行っており、その後、5人は聖体拝領した

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