スコットランドに上陸するチャールズとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > スコットランドに上陸するチャールズの意味・解説 

スコットランドに上陸するチャールズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 03:28 UTC 版)

1745年ジャコバイト蜂起」の記事における「スコットランドに上陸するチャールズ」の解説

詳細は「ジャコバイト軍 (1745年)(英語版)」を参照 1743年フォンテーヌブロー条約家族協約とも)において、ルイ15世叔父スペイン王フェリペ5世は対イギリス共同歩調をとることに合意したが、これにはステュアート家復位させる試み含まれた。11月ルイ15世ジェームズ侵攻2月予定されていると教え潮流1回乗っただけでテムズ川までたどり着けられるという理由ダンケルク出発地選び、そこに軍勢輸送船など合計1万2千人集結させた。イギリス海軍がこの動き気づくことは想定されており、ブレストフランス艦隊陽動作戦としてこれ見よがし出港準備をした。 ジェームズローマに留まった一方チャールズ秘密裏侵攻軍との合流向かった。しかし、ジャック・アイマール・ド・ロクフイユ・エ・デュ・ブスケ(英語版提督率いフランス艦隊1744年1月26日ブレスト出港したとき、イギリス海軍はそれを追跡しなかった。この時代軍事行動一般的には冬を避け傾向にあるが、対英の海軍活動海風潮流海上封鎖しにくくなる冬季行われることが多い。しかし、同時に危険も高く今度1719年蜂起同じく嵐に遭いフランス艦の多く沈没する大破し、ロクフイユ自身犠牲者となった3月ルイ15世侵攻取り消しイギリス宣戦布告した8月チャールズパリ向かい、そこでスコットランド上陸求めたが、そこでステュアート家スコットランドにおける支持者の間の連絡役であるサー・ジョン・マレー・オブ・ブロットン(英語版)に会ったマレーが後に回想したところによると、彼はスコットランド上陸反対したが、チャールズが「たとえ兵士1人しかついてこなくとも、[...]来る決心がある」と返答したという。マレーがこのことをスコットランド人教えると、スコットランド人は再びフランスの支援なしに蜂起することへの反対表明したが、チャールズスコットランドさえ上陸できればフランス否が応でも支援せざるを得なくなると踏んだチャールズ1745年最初の数か月間を武器購入費やし、またフランス軍1745年4月フォントノワの戦い勝利したため、チャールズフランス当局説得して輸送船2隻を提供させることに成功した。この輸送船とは16門艦で私掠船のデュ・テュイエ(英語版)、そして1704年イギリスから拿捕した64門の老朽エリザベス英語版)であり、これら2隻には武器フランス軍アイルランド旅団英語版)のクレア連隊からの志願兵乗せられた。 7月初、チャールズサン=ナゼールでモイダートの7人(英語版とともにデュ・テュイエに乗船した。モイダートの7人で最も有名なのは亡命アイルランド人で元フランス士官ジョン・オサリヴァン英語版)であり、彼は参謀務めた7月15日、デュ・テュイエとエリザベススコットランド西部諸島目指し出港したが、4日後にイギリス戦列艦ライオン英語版)に発見されエリザベスライオンとの4時間にわたる海戦の末、港に戻ることを余儀なくされた。エリザベスアイルランド人志願兵武器大半乗せていたため、チャールズにとって大きな損失となったが、彼はかまわずデュ・テュイエで進み続け7月23日にエリスケイ島(英語版)に上陸した。 マクドナルド・オブ・スリート氏族英語版)やノーマン・マクロード(英語版)などチャールズ連絡した人物の多く彼にフランスに戻るよう進言した。彼らはチャールズフランスの軍事援助のないまま上陸したため、先の約束破っており、また敗北氏族が受ける打撃にも憂慮した。後に説得された者も多かったが、チャールズにとってこの説得簡単なことではなかった。例えば、ドナルド・キャメロン・オブ・ロキール(英語版)はチャールズが「蜂起失敗終わった場合彼の資産全額保障」してようやく協力しマクロードやマクドナルド・オブ・スリート氏族カロデンの戦いの後にチャールズ逃亡手伝ったけだった8月19日ジャコバイト軍はグレンフィンナン(英語版)で挙兵した。ハイランド部隊挙兵立ち会ったが、オサリヴァンその人数を約700人とした。ジャコバイト軍エディンバラへの進軍開始9月4日にはパース到着、そこでジョージ・マレー卿(英語版)などの支持者合流した。ジョージ・マレー卿は1715年1719年蜂起に参加した後に恩赦受けており、ハイランド軍事慣習熟知していたためオサリヴァン代わりに指揮を執った。その後ジャコバイト軍1週間かけて再編成行った8月9日スコットランド民事控訴院長英語版)ダンカン・フォーブス(英語版)はジャコバイト軍上陸確認ロンドン当局送った政府側の軍勢はサー・ジョン・コープ(英語版率い兵士3千人だったが、訓練受けていない新兵であり、しかもマレー寝返る前にコープ顧問務めたため、コープジャコバイト軍目的について情報欠けていた一方マレーコープ動向熟知していた。フォーブス人々との関係を利用してジャコバイト側に与しないよう押しとどめようとし、ロキールやラヴァト卿寝返り阻止できなかったがサザーランド伯爵英語版)、マンロー氏族英語版)、フォートローズ卿(英語版)の支持確保した9月17日チャールズ抵抗遭わずエディンバラ市に入城したが、エディンバラ城自体政府軍確保したままだった。翌日ジェームズスコットランド王チャールズ摂政務めるとの宣言発された。21日ジャコバイト軍コープ軍勢攻撃仕掛けエディンバラ郊外行われた20分間にも満たないプレストンパンズの戦い英語版)でコープ軍勢追い散らせた。フランドルイギリス軍指揮官カンバーランド公爵1万2千の軍勢とともにロンドン呼び戻された。 スコットランドでの支持固めるべく、チャールズ10月9日に「僭称された合同」の解体宣言発し10日王位継承法無効宣言した。また1695年議会が行ったグレンコーの虐殺に関する調査議事録出版をカレドニアン・マーキュリー(英語版)紙に命じた10月中旬フランス資金武器輸送してきて、さらに使節としてデギーユ侯爵アレクサンドル・ジャン=バティスト・ド・ボワイエ(英語版)を派遣したことでフランスの支援証明されたようにみえ、ジャコバイト軍士気大い上がった。しかし、エルホー卿(英語版)が後に回想したところによると、スコットランド人多くはこの時点ですでにチャールズ専制的なふるまいと、アイルランド人顧問影響を受けすぎたことを憂慮していたという。15から20人の指導者構成するプリンス・カウンシル(Prince's Council、「王子諮問会」) が設立されたが、チャールズはそれをスコットランド人が神によって選ばれ国王強いたのであるとして嫌い、諮問会の会議では諸派分裂目立った結果終わった諸派分裂は特に10月30日31日イングランド侵攻討議した会議明らかだったスコットランド人足場固めようとし、イングランド人蜂起フランスからの侵攻への支援には前向きだったが自分イングランド侵攻を行うことは避けたかった。一方亡命アイルランド人にとって、ステュアート家イギリス王位に就かせることがジェームズ2世保証したカトリック主導アイルランド自治確保する唯一の方法だった。チャールズハノーヴァー家追い出すことがスコットランドの独立保証する最良の手であり、イングランド進軍すれば数千人の支持者合流する訴えた。デギーユ侯爵フランス軍がもうすぐイングランド上陸する諮問会に保証した結局諮問会は疑惑抱いたまま、イングランドとフランス支援条件イングランド侵攻同意した以前スコットランドからイングランド侵攻したときはベリック=アポン=ツイード国境越えたが、マレーカーライルなど、1715年蜂起のときにジャコバイト強く支持したイングランド北西部を通る経路にした。ジャコバイト軍11月4日最後にエディンバラ離れ、ロジャー・ハンダシド(英語版率い政府軍14日エディンバラ市を奪回した

※この「スコットランドに上陸するチャールズ」の解説は、「1745年ジャコバイト蜂起」の解説の一部です。
「スコットランドに上陸するチャールズ」を含む「1745年ジャコバイト蜂起」の記事については、「1745年ジャコバイト蜂起」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「スコットランドに上陸するチャールズ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「スコットランドに上陸するチャールズ」の関連用語

スコットランドに上陸するチャールズのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



スコットランドに上陸するチャールズのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの1745年ジャコバイト蜂起 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS