スコットランドに上陸するチャールズ
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「1745年ジャコバイト蜂起」の記事における「スコットランドに上陸するチャールズ」の解説
詳細は「ジャコバイト軍 (1745年)(英語版)」を参照 1743年のフォンテーヌブロー条約(家族協約とも)において、ルイ15世と叔父のスペイン王フェリペ5世は対イギリスで共同歩調をとることに合意したが、これにはステュアート家を復位させる試みも含まれた。11月、ルイ15世はジェームズに侵攻が2月に予定されていると教え、潮流に1回乗っただけでテムズ川までたどり着けられるという理由でダンケルクを出発地に選び、そこに軍勢と輸送船など合計1万2千人を集結させた。イギリス海軍がこの動きに気づくことは想定されており、ブレストのフランス艦隊は陽動作戦としてこれ見よがしに出港の準備をした。 ジェームズがローマに留まった一方、チャールズは秘密裏に侵攻軍との合流に向かった。しかし、ジャック・アイマール・ド・ロクフイユ・エ・デュ・ブスケ(英語版)提督率いるフランス艦隊が1744年1月26日にブレストを出港したとき、イギリス海軍はそれを追跡しなかった。この時代の軍事行動は一般的には冬を避ける傾向にあるが、対英の海軍活動は海風と潮流で海上封鎖がしにくくなる冬季に行われることが多い。しかし、同時に危険も高く、今度も1719年の蜂起と同じく嵐に遭い、フランス艦の多くが沈没するか大破し、ロクフイユ自身も犠牲者となった。3月、ルイ15世は侵攻を取り消し、イギリスに宣戦布告した。 8月、チャールズはパリに向かい、そこでスコットランド上陸を求めたが、そこでステュアート家とスコットランドにおける支持者の間の連絡役であるサー・ジョン・マレー・オブ・ブロットン(英語版)に会った。マレーが後に回想したところによると、彼はスコットランド上陸に反対したが、チャールズが「たとえ兵士1人しかついてこなくとも、[...]来る決心がある」と返答したという。マレーがこのことをスコットランド人に教えると、スコットランド人は再びフランスの支援なしに蜂起することへの反対を表明したが、チャールズはスコットランドさえ上陸できればフランスは否が応でも支援せざるを得なくなると踏んだ。 チャールズは1745年の最初の数か月間を武器の購入に費やし、またフランス軍が1745年4月のフォントノワの戦いで勝利したため、チャールズはフランス当局を説得して輸送船2隻を提供させることに成功した。この輸送船とは16門艦で私掠船のデュ・テュイエ(英語版)、そして1704年にイギリスから拿捕した64門の老朽艦エリザベス(英語版)であり、これら2隻には武器とフランス軍のアイルランド旅団(英語版)のクレア連隊からの志願兵が乗せられた。 7月初、チャールズはサン=ナゼールでモイダートの7人(英語版)とともにデュ・テュイエに乗船した。モイダートの7人で最も有名なのは亡命アイルランド人で元フランス士官のジョン・オサリヴァン(英語版)であり、彼は参謀も務めた。7月15日、デュ・テュイエとエリザベスはスコットランド西部諸島を目指して出港したが、4日後にイギリスの戦列艦ライオン(英語版)に発見され、エリザベスはライオンとの4時間にわたる海戦の末、港に戻ることを余儀なくされた。エリザベスがアイルランド人志願兵と武器の大半を乗せていたため、チャールズにとって大きな損失となったが、彼はかまわずデュ・テュイエで進み続け、7月23日にエリスケイ島(英語版)に上陸した。 マクドナルド・オブ・スリート氏族(英語版)やノーマン・マクロード(英語版)などチャールズが連絡した人物の多くは彼にフランスに戻るよう進言した。彼らはチャールズがフランスの軍事援助のないまま上陸したため、先の約束を破っており、また敗北で氏族が受ける打撃にも憂慮した。後に説得された者も多かったが、チャールズにとってこの説得は簡単なことではなかった。例えば、ドナルド・キャメロン・オブ・ロキール(英語版)はチャールズが「蜂起が失敗に終わった場合、彼の資産を全額保障」してようやく協力し、マクロードやマクドナルド・オブ・スリート氏族はカロデンの戦いの後にチャールズの逃亡を手伝っただけだった。 8月19日、ジャコバイト軍はグレンフィンナン(英語版)で挙兵した。ハイランド部隊が挙兵に立ち会ったが、オサリヴァンはその人数を約700人とした。ジャコバイト軍はエディンバラへの進軍を開始、9月4日にはパースに到着、そこでジョージ・マレー卿(英語版)などの支持者と合流した。ジョージ・マレー卿は1715年と1719年の蜂起に参加した後に恩赦を受けており、ハイランドの軍事慣習を熟知していたためオサリヴァンの代わりに指揮を執った。その後、ジャコバイト軍は1週間かけて再編成を行った。 8月9日、スコットランド民事控訴院長(英語版)ダンカン・フォーブス(英語版)はジャコバイト軍上陸の確認をロンドン当局に送った。政府側の軍勢はサー・ジョン・コープ(英語版)率いる兵士3千人だったが、訓練を受けていない新兵であり、しかもマレーが寝返る前にコープの顧問を務めたため、コープがジャコバイト軍の目的について情報に欠けていた一方マレーはコープの動向を熟知していた。フォーブスは人々との関係を利用してジャコバイト側に与しないよう押しとどめようとし、ロキールやラヴァト卿の寝返りは阻止できなかったがサザーランド伯爵(英語版)、マンロー氏族(英語版)、フォートローズ卿(英語版)の支持は確保した。 9月17日、チャールズは抵抗に遭わずにエディンバラ市に入城したが、エディンバラ城自体は政府軍が確保したままだった。翌日、ジェームズがスコットランド王でチャールズが摂政を務めるとの宣言が発された。21日、ジャコバイト軍はコープの軍勢に攻撃を仕掛け、エディンバラ郊外で行われた20分間にも満たないプレストンパンズの戦い(英語版)でコープの軍勢を追い散らせた。フランドルのイギリス軍指揮官カンバーランド公爵は1万2千の軍勢とともにロンドンに呼び戻された。 スコットランドでの支持を固めるべく、チャールズは10月9日に「僭称された合同」の解体宣言を発し、10日に王位継承法の無効を宣言した。また1695年に議会が行ったグレンコーの虐殺に関する調査の議事録の出版をカレドニアン・マーキュリー(英語版)紙に命じた。 10月中旬にフランスが資金と武器を輸送してきて、さらに使節としてデギーユ侯爵アレクサンドル・ジャン=バティスト・ド・ボワイエ(英語版)を派遣したことでフランスの支援が証明されたようにみえ、ジャコバイト軍の士気は大いに上がった。しかし、エルホー卿(英語版)が後に回想したところによると、スコットランド人の多くはこの時点ですでにチャールズの専制的なふるまいと、アイルランド人顧問の影響を受けすぎたことを憂慮していたという。15から20人の指導者で構成するプリンス・カウンシル(Prince's Council、「王子の諮問会」) が設立されたが、チャールズはそれをスコットランド人が神によって選ばれた国王に強いたものであるとして嫌い、諮問会の会議では諸派の分裂が目立った結果に終わった。 諸派の分裂は特に10月30日と31日にイングランド侵攻を討議した会議で明らかだった。スコットランド人は足場を固めようとし、イングランド人の蜂起やフランスからの侵攻への支援には前向きだったが自分でイングランド侵攻を行うことは避けたかった。一方の亡命アイルランド人にとって、ステュアート家をイギリス王位に就かせることがジェームズ2世の保証したカトリック主導のアイルランド自治を確保する唯一の方法だった。チャールズはハノーヴァー家を追い出すことがスコットランドの独立を保証する最良の手であり、イングランドに進軍すれば数千人の支持者が合流すると訴えた。デギーユ侯爵もフランス軍がもうすぐイングランドに上陸すると諮問会に保証した。 結局、諮問会は疑惑を抱いたまま、イングランドとフランスの支援を条件にイングランド侵攻に同意した。以前にスコットランドからイングランドに侵攻したときはベリック=アポン=ツイードで国境を越えたが、マレーはカーライルなど、1715年の蜂起のときにジャコバイトを強く支持したイングランド北西部を通る経路にした。ジャコバイト軍は11月4日を最後にエディンバラを離れ、ロジャー・ハンダシド(英語版)率いる政府軍は14日にエディンバラ市を奪回した。
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