スコットランドでの始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 19:20 UTC 版)
「7人制ラグビー」の記事における「スコットランドでの始まり」の解説
7人制ラグビーの歴史は古く、スコットランドはボーダー地方の町、メルローズとガラシールズの地域メンバーの対立がきっかけで、メルローズの町が独立して新たにラグビークラブを結成したことにはじまる。 1883年に、メルローズの地元のクラブメルローズRFCの資金集めのためにラグビーの大会を開こうと考えたが人数がなかなか集まらず、メルローズの肉屋であったネッド・ヘイグとデビッド・サンダーソンによって少ない人数でラグビーを行うにはと考え出されたのが七人制ラグビーであった。史上初の7人制ラグビーの試合はメルローズグラウンド、グリーンヤーズで行われた。2年後の1885年、ガラにおいてタインデールはスコットランド外のクラブで初めてボーダーズのセブンズタイトルの1つを獲得した。 ボーダーズでの7人制ラグビーの人気にもかかわらず、1920年代、1930年代まで他の場所では流行しなかった。スコットランド外での初の7人制ラグビー大会は1921年にイングランド北東部ノース・シールズで開催されたパーシー・パーク・セブンズである。ここはスコティッシュ・ボーダーズと近かったため、この地域からの関心を集め、決勝はセルカーク(優勝)とメルローズ(準優勝)との間で争われた。 1926年、イングランドの主要な大会ミドルセックスセブンズがロンドン在住のスコットランド人J.A. Russell-Cargill博士によって設立された。7人制ラグビーのイングランドへの普及における重要な出来事の一つがこのミドルセックスセブンズであった。ミドルセックスセブンズの小委員会にはウェーベル・ウェイクフィールドやビル・ラムゼイといった風格のある人物がいた。ミドルセックスセブンズはチャリティーのためのすばらしい資金集めの催しでもあり、1926年にはキング・エドワード7世病院のために1600ポンドを集めた。当時は標準的な入場料は1シリング、スタンド席は5シリングであった。 ミドルセックスセブンズでの7人制ラグビーの試合の1927年の記述は、イングランドの人々に対するこの競技の目新しさを示している。 フィールドはとてもオープンであり、もしボールを持って逃げられたとすると、彼を捕まえるのには全速力で走る必要があるが、非常に多くの場合そこにはもういなかったのだ スコティッシュ・ボーダーズは農村地域であるのに対して、ミドルセックスセブンズは人口数百万人のロンドンの郊外の近くであった。第2回のミドルセックス大会には1万人の観客が詰め掛けた。そして、ボーダーズ・セブンズはスコットランドラグビーの中核地域において選手の技術に磨きをかけていたのに対して、ミドルセックスセブンズはロンドンラグビーと同じように行っていた。ミドルセックスセブンズに出場していた地元の選手には、前述したウェーベル・ウェイクフィールドやブラックヒースFCのカール・アーボルド(後のシティ・オブ・ロンドンの法律顧問官)、ロンドン・ウェルシュRFCのウェイク・パウエル、後にフォー・ホームユニオンツアー委員会の委員長となったジョン・タレントがいた。彼らはセールRFC(1936年)やカーディフRFC(1939年)といった様々な招待チームと親交を持った。セールRFCのバックスにはウェールズ代表のウィルフ・ウーラーやクロード・ダビー、スコットランド代表のケン・ファイフがおり、カーディフRFCには再びウィルフ・ウーラーやレス・スペンス、ウェンディー・デービスがいた。 史上初の公式に認められた国際大会は、1973年にスコットランドラグビー協会の百周年記念行事の一部としてマレーフィールド・スタジアムで行われた。
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