スコットランドでのキャリアと第二次世界大戦
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「エリック・チゾーム」の記事における「スコットランドでのキャリアと第二次世界大戦」の解説
学位取得後のチゾームの作品は、サー・ヒュー・ロバートン(Sir Hugh Roberton)の言うところの「大胆かつ独創的な」ものであった。一方で、「ピアノ協奏曲第1番 ピーブロック Pibroch」(1930年)、「管弦楽のためのストラロック組曲 Straloch Suite」(1933年)やソナタ「リオバン・デーグ An Riobhan Dearg」(1939年)ではスコットランド的な作風を強く打ち出している。1933年にオランダ、アムステルダムで行われたピアノ協奏曲第1番の初演では、彼自身がソリストを務めた。1930年からはグラスゴー大オペラ協会の監督に就任し、グラスゴーの王立歌劇場で1934年にモーツァルトの「イドメネオ」、ベルリオーズの「トロイアの人々」を1935年に、「ベアトリスとベネディクト」を1936年にそれぞれ英国初演した。また、彼はバロニーオペラ協会、スコティッシュバレエ協会、職業オルガニスト組合の初代常任指揮者となり、1938年にはケルトバレエ団の音楽監督に任命された。音楽監督して彼はマーガレット・モリスと共同で4つの作品を作曲した。最も有名なのは史上初のスコットランドの完全なバレエである「孤独な人魚 The Forsaken Mermaid」である。チゾームは音楽界に多くの友人がおり、作曲家ではバルトーク、ヒンデミット、ディーリアス、バックス、メトネル、シマノフスキ、アイアランド、ブッシュである。チゾームは彼らの多くをスコットランドに招待し、その作品を紹介する演奏会を開いた。 第二次世界大戦が勃発すると、チゾームは良心から反戦を唱え、視力が悪いことと腕が湾曲しているということを理由に従軍を拒否した。戦時中の1940年にはカール・ローザ・オペラ・カンパニーを指揮、後の1943年には国家娯楽興行組合に大佐として入隊してアングロ=ポリッシュ・バレエを伴って1943年にイタリアに演奏旅行に赴き、1943年から1945年には東南アジア司令部の音楽監督として従軍した。彼はまずインドで他民族オーケストラを結成したが、上官のジャック・ホーキンス(Jack Hawkins)大佐との不和により、シンガポールへ転属となった。彼は移動先で、シンガポール交響楽団を設立した。オーケストラのメンバーは戦争の元囚人ばかりであり、その中からチゾームはシモン・ゴールドベルクをリーダーに据えた。チゾームが組織したオーケストラは実に国際色豊かで、東西の15カ国から団員が参加しており、半年の間にマラヤで50の公演を行った。彼はスコットランドに帰国後、フランシス・ジョージ・スコットの娘である、リリアス(Lillias)を後妻に迎えた。1946年、彼はケープタウン大学の教授、南アフリカ音楽大学の音楽監督に任命された。
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