シンセサイザー音楽作家としての活動
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「冨田勲」の記事における「シンセサイザー音楽作家としての活動」の解説
シンセサイザーを用いた習作として、TBSブリタニカ発行の世界子供百科付録の2枚組ピクチャーLPアルバム『音楽ってたのしいな』(1972年)の中で発表した「銀河鉄道の夜」が上げられる。「銀河鉄道の夜」はシンセサイザーを入手してから3か月で製作されたものであるという。1972年にMOOG IIIを使用した『スイッチト・オン・ヒット&ロック』がCBSソニーからSQ-4方式4chステレオ作品として既に出ていた。 シンセサイザーの導入から1年4か月を費やし、シンセサイザー音楽作品として『月の光』のマスターテープを制作。 当時このアルバムを日本の各レコード会社に持ち込んだところ、「クラシックでもポピュラーミュージックでもなく、レコード店の棚に置く場所がない」などの営業的な理由ですべて断られたとされる。そののち当時の日本RCA東京出張所長(後にワーナーパイオニアレコードの社長)山本徳源に頼んで米国RCAのニューヨーク本社にテレックスを打ってもらったところ、直ちに「会おう」という回答を貰った。ハンス・ウールマンによるシンセサイザー音楽作品『革命のエチュード』などをリリースした経験があったRCAレコードに持ち込み、レコード発売の契約締結に成功。 1974年4月、アルバム Snowflakes Are Dancing がアメリカで発売。大好評を得て1975年1月18日付けのビルボード全米クラシカル・チャートで第2位にランキングされた。日本ではジャケットを替え、『月の光』のタイトルで1974年8月25日に発売された。 1975年3月開催の第17回グラミー賞で日本人として初めてノミネートされた。NHKなど国内のマスコミも報じ、米国RCAレーベルのレコードが、『月の光 - ドビッシーによるメルヘンの世界』として日本へ逆輸入されるなど、作品が知られるようになった。NARM(National Association Of Record Merchandiserers 全米レコード販売者協会)の1974年最優秀クラシカル・レコードに選ばれた。 1975年2月発表の『展覧会の絵』 は、1975年8月16日付けのビルボード・キャッシュボックスの全米クラシックチャートの第1位を獲得し、1975年NARM同部門最優秀レコード2年連続受賞、1975年度日本レコード大賞・企画賞を受賞した。 同年9月発表の『火の鳥』 は1976年3月20日付けのビルボード全米クラシックチャート第5位を記録した。 1976年12月20日発表の『惑星』 も1978年2月19日付けのビルボード全米クラシック部門で第1位にランキングされた。『バミューダ・トライアングル』では発売翌年のグラミー賞で “Best Engineered Recording” に2回目のノミネートを受けた。1983年のアルバム『大峡谷』では3回目のグラミー賞のノミネートを受けた。以降『バッハ・ファンタジー』(1996年)まで、冨田のアルバムはいずれも世界的なヒットを記録している。 1979年に米コンテンポラリー・キーボード誌の読者投票により “ベスト・スタジオ・シンセシスト” に選ばれた。冨田のシンセサイザー作品群は、全ての音色作りはもちろん、全パートの演奏、録音、編集までを含めて冨田自身の一人の手による制作であり、現在のパーソナルスタジオによる音楽制作の先駆けであったといえる。 ここで教えを受けながら助手として働いた松武秀樹は、後にイエロー・マジック・オーケストラのシンセサイザー・マニピュレーターとして役割に就いた。海外では、スティービー・ワンダーが、来日した際に最も尊敬している音楽家として冨田の名前を挙げている。後に長良川のサウンドクラウドに登場している。マイケル・ジャクソンも、1987年9月24日に来日の際に冨田のスタジオを訪問した。『惑星』の立体音響に深く感銘したフランシス・フォード・コッポラ監督は、映画『地獄の黙示録』の音楽を冨田に要請したが、レコード会社との専属契約の関係で実現には至らなかったとされる。 1979年、日本武道館でピラミッド・サウンドによる立体音響ライブ「エレクトロ・オペラ in 武道館」を小松左京のプロデュースで開催した。1980年にジャパンレコードの社長に就任したが、アーティストとしてはRVC所属のままであった。その後も徳間ジャパンからの作品のリリースはなかった。 1984年、オーストリアのリンツでドナウ川両岸の地上・川面・上空一帯を使って超立体音響を構成し、8万人の聴衆を音宇宙に包み込む壮大な野外イベント「トミタ・サウンドクラウド(音の雲)」と銘打ったコンサートを催す。以後、サウンドクラウドを世界各地で公演してきた。ドナウ川では「宇宙讃歌」、続いて1986年ニューヨークのハドソン川では「地球讃歌」、1988年日本の長良川では「人間讃歌」を成功させ、共感するミュージシャンと共に音楽を通じた世界平和を訴え続けてきた。1990年から1992年まで3回にわたりBunkamuraオーチャード・ホール(東京都渋谷区道玄坂)で「トミタ・サウンドクラウド・オペラ “ヘンゼルとグレーテル”」を上演。1998年、日本の伝統楽器と西洋オーケストラとシンセサイザーによる『源氏物語幻想交響絵巻』を作曲。東京、ロサンゼルス、ロンドンで初演、自ら指揮棒を振った。1999年、メディア・アーティスト協会創設に参加した。 2001年、東映50周年記念作品映画『千年の恋 ひかる源氏物語』の音楽を作曲し、日本アカデミー優秀音楽賞を受賞。また、東京ディズニーシー・アクアスフィアのための3面立体音響シンフォニーを手掛ける。2002年、作曲活動50周年、シンセサイザーでの音楽制作30周年の節目の年を迎えた。2005年3月開催の愛・地球博(愛知万博)の公式催事である前夜祭セレモニーをプロデュースした。
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