ザ・タイガース時代
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ザ・タイガースのリードギター、ボーカル担当。澄んだ伸びのある高音の歌声が評価され、シングル「花の首飾り」、「廃虚の鳩」やアルバムでリードボーカルを務めた。ギタリストとしての実力もあり、当時GSの頂点を極めたザ・タイガースの中に於いて、沢田研二と双璧をなす存在であった。またグラフィックデザイナーを志していたこともあり、グループの衣装をデザインするなど、バンドとして欠くことが出来ない存在だった。1982年のタイガース同窓会でのヒット曲「色つきの女でいてくれよ」でもリードボーカルを務めている。 ビートルズを原点とした音楽志向とアイドル性を併せ持ち、GSの象徴的存在といわれた。繊細で芸術家肌、その感受性の強さゆえに誤解を受けやすい言動もあり、「ザ・タイガースのブライアン・ジョーンズ」と評するマスコミもあった。特に当時、時計の針の如く仕事に対し忠実な姿勢であった沢田研二とは、相入れないことが多く、度重なる意見の相違が不仲との報道へ繋がっていった。 リードボーカルを担当した「花の首飾り」がオリコンチャートの頂点にあった頃より、自身がアイドルという存在であることに疑問を感じ、音楽を通じて世界へメッセージを発信したいという思いが強くなる。 当時画期的だったコンセプトアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』製作は加橋の意向を反映したもので、テーマは「誕生、平和、友情、恋、祭り、運命、兵士、母、死、英雄、人類の滅亡、再出発」、同時期に実施されていた明治チョコレートとのタイアップ・キャンペーン『天地創造ものがたり』のテーマである旧約聖書とリンクした内容になっていた。 だが、アルバム完成後も、加橋の疑問が払拭されることはなかった。 各プロダクションがGSを粗製濫造。音楽的にもビジュアル的にもGSのレベルは低下。更に渡辺プロによる「アイドル戦略」の中に於いて、高い音楽志向を持ち、感受性の強い加橋かつみは、GSのあり方やプロダクションの対応に限界を感じ、グループ脱退を考えるようになる。森本太郎が「トッポが退団したいと言っていることを聞いた」という記録を、1968年5月頃残している。 人気が頂点に達していたこの頃、沢田と双璧をなす加橋かつみを失うことは出来ず、渡辺プロ側は懐柔策として、加橋の意向を反映し、メンバーの自作曲も含むアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』の制作を進める。アルバム完成後、再び加橋は、退団へと傾く。自分達のバンドであったタイガースが、渡辺プロによって操られ、その根底に渡辺プロの副社長・渡辺美佐の沢田研二への愛情があることに反発して、自らの脱退を最終的に決意する。渡辺美佐は、沢田研二以外のメンバーには興味がなく、レストランキャンティで挨拶した加橋に「あなた誰?」と言い放ったという逸話がある。「花の首飾り」、「廃虚の鳩」がヒット中の逸話である。 1969年1月の14日から20日、ザ・タイガースは日劇ウエスタン・カーニバルに出演、ヒッピーをイメージした衣装で登場し「青い鳥」、「朝に別れのほほえみを」、「帆のない小舟」、「割れた地球」の4曲を演奏する。全てがアルバムからのピックアップ、情報が圧倒的に乏しかった時代、彼等が意図したステージはファンに受け入れられるには、多くの時間が必要だった。 森本太郎の日記には、加橋脱退に関するミーティングが重ねられたと思われる記述が増え、加橋脱退を3月上旬と定めた上での、本人やメンバーはもちろん、渡辺プロ総掛かりでの加橋かつみ失踪、除名、ザ・タイガースへの岸部シロー加入、新生タイガース誕生というシナリオがあった可能性も示唆されている。 1969年3月5日、加橋は渋谷・斉藤楽器でのレッスン中にスタジオを離れ戻らなかった。マスコミは 失踪 と報道。 ザ・タイガースは渡辺プロダクションが箱根に所有する別荘に篭り、活動を休止する。 加橋は、ザ・タイガースを脱退、後任にはベースギター担当である岸部おさみ(現:岸部一徳)の実弟、シローが決定する。
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ザ・タイガース時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:15 UTC 版)
中学卒業後に印刷会社へ就職。後に退職しバンドボーイとなる。 タイガースのデビュー後にしばらく音楽面でのアドバイザーを務めた後、メンバーと渡辺プロダクションの援助で1968年(昭和43年)7月アメリカへ渡り、留学の名目で『ミュージック・ライフ』の音楽特派員として活動。 1969年(昭和44年)3月、タイガースから加橋かつみが脱退したため、兄・一徳からの電話によって呼び戻され、新メンバーとなる。加橋の後釜としてギターを担当するが、加入当初は実際には弾けず、弾く真似をしていた。また、タンバリンを演奏したり、加橋のヴォーカルパートを引き継ぐ。 岸部の加入により、タイガースもユニフォームの常時着用をやめ、ステージのレパートリーではフォークソングやハードロックを取り入れるなど積極的にイメージチェンジを図り、それまでの「白馬に乗った王子様」的なアイドルのイメージより徐々に脱却。敢えて積極的に近畿方言を話し、また当時のアイドルではタブーとされていたメガネを着用、そして司会を担当したステージでは軽快なトークを披露することで次第に好評を得た岸部は、その気さくなキャラクター性が受け入れられ単独でのTV出演をも果たす。ステージでは主に『花の首飾り』『ホリデイ』などそれまで加橋がソロを担当していた曲に加え、ドノヴァンなどのフォークソングも得意とした。 また1970年(昭和45年)には岸部一徳とのユニット「サリー&シロー」名義でもアルバムを発表。この頃には、ある程度のリズムギターおよびタンバリンをこなせるようになっており、1970年(昭和45年)8月22日の田園コロシアムに於けるコンサートや、1971年(昭和46年)1月24日の日本武道館に於ける解散公演では、実際に演奏しているのが映像から確認できる。
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