コヴェント・ガーデンへの移籍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 02:57 UTC 版)
「エマ・アルバーニ」の記事における「コヴェント・ガーデンへの移籍」の解説
アルバーニは春にロンドンへ移り、1872年4月2日に「夢遊病の娘」のアミーナ役でプロとしてのデビューを飾った。批評家、聴衆ともにアルバーニの力強い演技に魅せられ、彼女は花や宝石を贈られ賞賛された。コヴェント・ガーデンの劇場においてジュリアス・ベネディクトやジョサイア・ピットマンから紹介、推薦されて彼女はオラトリオに興味を持つようになる。1872年10月にノーフォーク・ノリッジ芸術祭でヘンデルの「テオドーラ」の"永久に明るく公正な天使たち"を演じて、彼女は初めてオラトリオに出演する機会を得る。オフシーズンには彼女は時間を見つけてパリに赴き、サル・ヴァンタドールで演じた。 ロンドンでの2年目のシーズンには、彼女はアンブロワーズ・トマの「ハムレット」からオフィーリア役、モーツァルトの「フィガロの結婚」から伯爵夫人役などを演じた。このシーズン終了後にはモスクワへ旅行し、「夢遊病の娘」、「リゴレット」、「ハムレット」、「ランメルモールのルチア」などを演じた。その後サンクトペテルブルクに向かい、ツァーリが鑑賞する中で演技を行った。ロシアにおける評判はすこぶる良いものであった。 ロンドンでの3年目のシーズンに彼女が演じた演目は、前の2年とほぼ同じものであった。「夢遊病の娘」、「ランメルモールのルチア」、「シャモニーのリンダ」、「マルタ」である。ロンドンのオペラ界は非常に競争の激しい業界であり、歌手が自分の持ち役を独占するのはよくあることだったのである。従って、アルバーニのような歌手にとって、同じ役柄を演じ続けることは珍しいことではなかった。3年目のシーズン後の1874年7月、アルバーニはウィンザー城を訪れて「リゴレット」のアリア『慕わしき御名』や民族的バラードの「ロビン・アデア Robin Adair」、バッハ作曲グノー編曲の「アヴェ・マリア」、そして大衆音楽の「埴生の宿」を歌ったが、これを聴いていたく感激したヴィクトリア女王は彼女に私的に歌うように要請した。女王はアルバーニを呼び戻してブラームス、グリーグ、ヘンデル、メンデルスゾーンらの作品やフランス、スコットランドの伝統的歌曲などの他の曲を歌わせたのだった。1874年の秋には、アルバーニはアメリカへ演奏旅行に出かけ、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、ボルチモア、ワシントンD.C.、シカゴ、そしてオールバニを訪れた。アメリカ旅行はフレデリック・ガイの息子のアーネスト・ガイ(Ernst Gye)に付き添われてのものだった。彼女はワーグナーの「ローエングリン」のエルザ役を学び、ニューヨークで演じた。そのオペラはイタリアで上演され、ロイヤル・オペラ・ハウスでも常連の演目となっていた。 1875年には、4年目のシーズンのためアルバーニはロイヤル・オペラ・ハウスに戻った。この年のシーズン後には、彼女はノリッジ芸術祭にも出演し、メンデルスゾーンの「交響曲第2番」やベネディクトのオラトリオ「聖セシリアの伝説 The Legend of St. Cecilia」を歌った。1876年、ロンドンでの5年目のシーズンには、アルバーニはワーグナーの「タンホイザー」のロンドン初演でエリーザベト役を演じている。その後、彼女はパリに向かいイタリア歌劇で歌ったが、非常に評判が良く、パトリス・ド・マクマオンのために特別公演をすることになった。1878年8月6日、アルバーニはアーネスト・ガイと結婚した。彼女はすぐに身ごもったがツアーは継続して行い、1879年6月4日に息子のフレデリック・アーネスト・ガイ(Frederick Ernest Gye)が生まれる直前まで公演を続けた。この子どもの他には、二人が子どもを授かることはなかった。アルバーニはしばらく休養を取り、1880年の春にフェルディナン・エロルドの「ル・プレ・オ・クレール Le Pré aux clercs」を歌い舞台に復帰した[要出典]。 1880年代を通じてアルバーニはヨーロッパと北米へのツアーを行っており、行く先々で称賛を集めた。1881年には、彼女はベルリン国立歌劇場で行われた「ローエングリン」の公演に招かれて演じることになった。彼女は以前にイタリア語で歌ったことのあるエルザ役で舞台に上がることを承諾し、ドイツ語で役をさらいなおした。上演にはドイツ皇帝のヴィルヘルム1世が訪れた。評判は非常に好ましいもので、3度のカーテンコールがあった。1882年にヴィルヘルム1世はアルバーニに宮廷歌手の称号を授けた。 1883年、アルバーニはモントリオールで3回のリサイタルを開いた。彼女が到着するのを一目見ようと1万人以上が押しかけ、詩人のルイ=ゾノレ・フレシェットは迎えの場で彼女の名誉を称える詩を詠んだ。彼女がカナダで最初にオペラの舞台に立ったのは、1883年2月13日のトロント、グランド・オペラ・ハウスでの「ランメルモールのルチア」の公演であった。1884年7月15日に、彼女はロンドンでエルネスト・レイエ(フランス語版)の「シギュール(フランス語版)」からブリュンヒルデ役を歌った。また同じシーズンにはグノーの「ロメオとジュリエット」のジュリエット役を演じている。 アルバーニは夏の間スコットランドで休養を取り、秋にはベルギーとオランダへツアーに出た。1886年にはフランツ・リストにロンドンで出会っており、リストは彼の神聖カンタータ「聖エリーザベトの伝説」を演じた彼女を称賛した[要出典]。 アルバーニはニューヨークのメトロポリタン歌劇場でのデビューを1891年11月20日にマイアベーアの「ユグノー教徒」のヴァランティーヌ役で果たしたが、これは団体がシカゴにツアーに出た旅先での公演であった。次に11月23日には、歌劇団にとって初めての上演であったヴェルディのオテロのデズデーモナ役を演じた。また彼女は12月9日のガラ公演でも4幕でその役を務めた。その他のシカゴでのメトロポリタン歌劇団との共演はヴァランティーヌではなく、「リゴレット」のジルダ、ヴェルディの「椿姫」の第1幕でのヴィオレッタ(この時はエマ・イームスがサントゥッツァを歌ったピエトロ・マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」との二本立てだった)とワーグナーの「ローエングリン」のエルザ役である。本拠地ニューヨークでの彼女の最初の公演は12月23日の「リゴレット」のジルダ役だった。さらにニューヨークではヴァランティーヌ(この役でルイビル、オールバニ、ブルックリン、フィラデルフィア、ボストンを巡るツアーを行っている)、モーツァルトのドン・ジョヴァンニのドンナ・エルヴィーラを3回、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のエファを3回、ジルダをもう1回、デズデーモナ1回、エルザ1回、そしてグノーの「ファウスト」のマルグリートを1回であった。彼女はボストンへのツアーでもドンナ・エルヴィーラとエファを歌っている。メトロポリタン歌劇場との最後の公演は、1892年3月31日の「さまよえるオランダ人」のゼンタ役であった。彼女が出演したオペラは全てイタリア語で上演された。アルバーニは合計で29回、歌劇場との競演をしたことになる。シーズンが進むにつれて、彼女の声の疲れと乱れが次第に目立ってきていると指摘する批評家もいたが、彼女の技巧と経験の豊かさは称賛の的であった。ニューヨーク・タイムズ紙は、彼女の歌劇場との最終公演についてこう書いている。「アルバーニによるゼンタの歌唱は完璧ではなかった。しかし多くの優れた点があったため、出だしのピッチが合わないため、どうしても彼女の歌の入りが遅れているように聞こえてしまったことに関しては、聴衆は水に流したいと思ったに違いない。彼女はどの場面を歌う時にも、演技の知的さと劇としての真剣さをしっかりと備えており、不備を補うべくよく演じきった。彼女も正当に当夜の名誉を受けるべき一人である。」 1896年のロイヤル・オペラ・ハウスでの最後のシーズンにおいても、アルバーニは強力に前向きな評価を受け続けていた。彼女のキャリアの大きな山場は1896年6月26日に訪れた。その時の演目はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」であり、アルバーニはイゾルデ、ジャン・デ・レシュケはロンドンでの最初のトリスタン、ルイス・マイスリンガー(Louise Meisslinger)がブランゲーネ、デイヴィッド・ビスファムがクルヴェナール、エドアード・デ・レシュケがマルケ王を演じ、ルイージ・マンチネッリが指揮をした。全部で4回の公演が行われ、通常より高いチケットの値段設定や楽劇がドイツ語で歌われるという特異性にも関わらず、全てが売り切れとなった。7月24日に彼女は「ユグノー教徒」のヴァランティーヌを歌った。公演予告がなく、気付いた人は多くはなかったが、それが彼らにとって彼女のオペラを耳にする最後の機会となったのであった。ロイヤル・オペラ・ハウスでのアルバーニの活躍は24年間に及んだ。
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