プロとしてのデビューとは? わかりやすく解説

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プロとしてのデビュー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:36 UTC 版)

村下孝蔵」の記事における「プロとしてのデビュー」の解説

1979年知人ライブハウス店主から勧められ当時CBSソニー現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディション第1回CBS・ソニーオーディション)に応募しグランプリ獲得。しかしCBSソニーとしては、当時流行っていた山下達郎南佳孝などのシティポップス系のアーティスト探しており、フォーク系それなりに年齢重ねていた村下将来性巡ってCBSソニー社内でも意見分かれたプロデューサーとして村下全作品を手がけた当時若手ディレクター須藤晃によると「このオーディションで一番レコード売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば「フォークはもう終わりだぞ。ラジオスターの時代じゃなくルックス時代なんだ」と村下ルックス年齢難色を示す者もいた。ただ楽曲や声良さ誰もが認めるところで、須藤押しや、中国放送バックアップしていたこともあり何とかデビュー決定1980年5月21日27歳の時、シングル月あかり」でプロデビューした。同曲は前年発表した自主制作アルバムそれぞれの風』からのリカットシングルで、湯来温泉での思い出からイメージふくらませ書かれたもの。同期合格者にはHOUND DOG堀江淳五十嵐浩晃らがいた。プロになると決意した村下は、最高のギター持っていたいという思いから馴染み楽器店でマーティンD-45購入している。プロとなった後も、テレビ出演はせず、広島拠点地道にライブ活動続ける。このためプロ歌手になったからと言ってデビュー直後劇的な変化はなかった。 1981年1月リリースされ2枚目のシングル春雨」は、地道なプロモーション重ねてチャート最高位58位を記録およそ3ヵ月半に渡ってチャートランクイン1982年発売の「ゆうこ(原題 ピアノを弾く女)」は、北海道札幌有線で火がつき、全国ヒットになり、チャート最高位23位を記録、約7か月半にわたってチャートインした。1979年日本画家船田玉樹の娘と結婚。、後にシンガー・ソングライターとなる娘をもうけている(1985年離婚村下この後再婚)。同年10月、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)に初出演した。 1983年30歳にして発表した5目のシングル「初恋」は、オリコンチャートで最高3位記録する大ヒットとなる。「初恋」村下バラードとして作ったものを編曲家水谷公生テンポ上げてポップ系に編曲し村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲であった水谷かねてから須藤晃に「もうフォークにこだわらなくてもいいんじゃないか」と進言していた。水谷村下を、「でっかい人だった。人にゆだねる強さがあった」と評している。 村下は「自分経験小さなにして、世界押し広げ昇華させる詩人英単語歌詞使わず『万葉集』や『古今和歌集のような四季彩られ美しい日本語を目指そうとした」、「叙情的哀愁帯びたメロディーと、素朴な歌声、英語を極力使わない丁寧な日本語の歌詞根強い支持集めた」等と評価されるさだまさしは「ラブソングが上手で、命を大切にするきれいなラブソングだった。ラブソング永遠だからね。彼の声をきくと(今も)生きていますよね。全然、古びていない。いい声だった。サウンド古びない」、須藤晃同時プロデュースした尾崎豊と「歌を歌う人はどこかきれいな真水中にすむ動物純粋なところが似ていた」と評し日本人には一年一年正月ひな祭り田植え七夕、盆…といった日本的情緒感じ行事変わらず続く。そういうにおいがするものを二人でくろうとやっていた」などと話している。ライブハウス・ロフトの創業者平野悠は「歌謡曲ロック全盛時代フォークスピリッツ貫き通した」と評価している。富澤一誠は「村下孝蔵井上陽水さだまさしといった正統的な抒情フォーク流れをくむシンガー・ソングライターだと思います地味な存在ではあったが、和風テイストフォークギターの上手さを含めてもっと評価されていい存在です」と話している。 村下の元マネージャー嶋田富士彦によると、村下楽曲有線強く支持され地方では演歌似たチャート変動示し、フォークテイストでありながらベンチャーズ由来する切れ味良いロック感覚」も持ち合わせていたが、音楽業界中でもメロディライン古さ指摘する者の方が多かったという。当時としても著しく古いメロディラインその後歌手生命をも左右することになる。 「初恋」発売前後全国キャンペーンなどのハードスケジュール原因肝炎患い多くイベント番組出演などをキャンセルし「初恋」ヒットしてテレビ番組にはほとんど出演できなかった。それが原因広島東京往復ができなくなり1984年末に生活の拠点東京移した同年秋から全国ツアー開始したが翌1985年に再び体調悪化し入退院を繰り返した。この時期に、広島から定年退職たばかり父親東京暮らし始めた1987年全国ツアー再開この年催した七夕コンサート毎年恒例行事となった1988年神奈川県川崎市CLUB CITTA'行われたベンチャーズライブゲストとして出演ベンチャーズ一緒に演奏するという夢を叶えた1989年アルバム野菊よ 僕は…』を発売須藤晃によるとこの頃アルバム売れ行き大きく落ち込み「初恋」時期から指摘され続けてきたメロディライン古さ飽きられてきたことが理由であったが、これといった手を打ってこなかった村下にも須藤自身にも焦り生じたという。1992年発売シングルロマンスカー」は「これが売れなきゃおかしい」という思い制作し完成時村下が「やっと納得する作品出来た!」と語った渾身の作品であった売れず須藤は「時代違ってきたんだ」と感じたという。この時期村下試行錯誤の末、「自分には"初恋"を越える曲はできんかもしれん」「時代追いかけるものではなく巡りくるもの。向こうからやってくるのよ」という境地至った1994年広島開催され第12回アジア競技大会広島アジア大会協賛として中国新聞社中国放送共同企画により制作され紀行ドキュメンタリー番組『アジア・ピースロード~出会い友情キャラバン』(1992年10月4日~)のテーマソング一粒の砂」を製作。

※この「プロとしてのデビュー」の解説は、「村下孝蔵」の解説の一部です。
「プロとしてのデビュー」を含む「村下孝蔵」の記事については、「村下孝蔵」の概要を参照ください。

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