プロとしてのデビュー
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1979年、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBSソニー(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディション(第1回CBS・ソニーオーディション)に応募し、グランプリを獲得。しかしCBSソニーとしては、当時流行っていた山下達郎や南佳孝などのシティポップス系のアーティストを探しており、フォーク系でそれなりに年齢も重ねていた村下の将来性を巡ってはCBSソニー社内でも意見が分かれた。プロデューサーとして村下の全作品を手がけた当時の若手ディレクター・須藤晃によると「このオーディションで一番レコードが売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば「フォークはもう終わりだぞ。ラジオスターの時代じゃなくルックスの時代なんだ」と村下のルックスや年齢に難色を示す者もいた。ただ楽曲や声の良さは誰もが認めるところで、須藤の押しや、中国放送がバックアップしていたこともあり何とかデビューが決定、1980年5月21日、27歳の時、シングル「月あかり」でプロデビューした。同曲は前年発表した自主制作アルバム『それぞれの風』からのリカットシングルで、湯来温泉での思い出からイメージをふくらませて書かれたもの。同期合格者にはHOUND DOG、堀江淳、五十嵐浩晃らがいた。プロになると決意した村下は、最高のギターを持っていたいという思いから馴染みの楽器店でマーティンD-45を購入している。プロとなった後も、テレビ出演はせず、広島を拠点に地道にライブ活動を続ける。このためプロの歌手になったからと言って、デビュー直後に劇的な変化はなかった。 1981年1月にリリースされた2枚目のシングル「春雨」は、地道なプロモーションを重ねて、チャート最高位58位を記録、およそ3ヵ月半に渡ってチャートにランクイン。1982年発売の「ゆうこ(原題 ピアノを弾く女)」は、北海道札幌の有線で火がつき、全国ヒットになり、チャート最高位23位を記録、約7か月半にわたってチャートインした。1979年に日本画家・船田玉樹の娘と結婚。、後にシンガー・ソングライターとなる娘をもうけている(1985年離婚、村下はこの後再婚)。同年10月、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)に初出演した。 1983年、30歳にして発表した5枚目のシングル「初恋」は、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなる。「初恋」は村下がバラードとして作ったものを編曲家の水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し、村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲であった。水谷はかねてから須藤晃に「もうフォークにこだわらなくてもいいんじゃないか」と進言していた。水谷は村下を、「でっかい人だった。人にゆだねる強さがあった」と評している。 村下は「自分の経験を小さな核にして、世界を押し広げて昇華させる詩人。英単語を歌詞に使わず、『万葉集』や『古今和歌集』のような四季に彩られた美しい日本語を目指そうとした」、「叙情的で哀愁を帯びたメロディーと、素朴な歌声、英語を極力使わない丁寧な日本語の歌詞で根強い支持を集めた」等と評価される。さだまさしは「ラブソングが上手で、命を大切にするきれいなラブソングだった。ラブソングは永遠だからね。彼の声をきくと(今も)生きていますよね。全然、古びていない。いい声だった。サウンドも古びない」、須藤晃は同時期プロデュースした尾崎豊と「歌を歌う人はどこかきれいな真水の中にすむ動物。純粋なところが似ていた」と評し「日本人には一年一年、正月、ひな祭り、田植え、七夕、盆…といった日本的情緒を感じる行事が変わらず続く。そういうにおいがするものを二人でつくろうとやっていた」などと話している。ライブハウス・ロフトの創業者・平野悠は「歌謡曲、ロック全盛の時代にフォークのスピリッツを貫き通した」と評価している。富澤一誠は「村下孝蔵は井上陽水、さだまさしといった正統的な抒情派フォークの流れをくむシンガー・ソングライターだと思います。地味な存在ではあったが、和風テイストのフォークはギターの上手さを含めてもっと評価されていい存在です」と話している。 村下の元マネージャー嶋田富士彦によると、村下の楽曲は有線で強く支持され、地方では演歌に似たチャート変動を示し、フォークテイストでありながらもベンチャーズに由来する「切れ味の良いロック感覚」も持ち合わせていたが、音楽業界の中でもメロディラインの古さを指摘する者の方が多かったという。当時としても著しく古いメロディラインはその後の歌手生命をも左右することになる。 「初恋」発売の前後に全国キャンペーンなどのハードスケジュールが原因で肝炎を患い、多くのイベント、番組出演などをキャンセルし「初恋」がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できなかった。それが原因で広島と東京の往復ができなくなり、1984年末に生活の拠点を東京に移した。同年秋から全国ツアーを開始したが翌1985年に再び体調が悪化し、入退院を繰り返した。この時期に、広島から定年退職したばかりの父親も東京で暮らし始めた。1987年に全国ツアーを再開。この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となった。1988年、神奈川県川崎市のCLUB CITTA'で行われたベンチャーズのライブにゲストとして出演。ベンチャーズと一緒に演奏するという夢を叶えた。 1989年、アルバム『野菊よ 僕は…』を発売。須藤晃によるとこの頃アルバムの売れ行きが大きく落ち込み、「初恋」の時期から指摘され続けてきたメロディラインの古さが飽きられてきたことが理由であったが、これといった手を打ってこなかった村下にも須藤自身にも焦りが生じたという。1992年発売のシングル「ロマンスカー」は「これが売れなきゃおかしい」という思いで制作し、完成時に村下が「やっと納得する作品が出来た!」と語った渾身の作品であったが売れず、須藤は「時代が違ってきたんだ」と感じたという。この時期の村下は試行錯誤の末、「自分には"初恋"を越える曲はできんかもしれん」「時代は追いかけるものではなく、巡りくるもの。向こうからやってくるのよ」という境地に至った。 1994年、広島で開催された第12回アジア競技大会(広島アジア大会)協賛として中国新聞社・中国放送の共同企画により制作された紀行ドキュメンタリー番組『アジア・ピースロード~出会いと友情のキャラバン』(1992年10月4日~)のテーマソング「一粒の砂」を製作。
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