幼少期からキャリア初期
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「クララ・バット」の記事における「幼少期からキャリア初期」の解説
バットはサセックスのサウスウィック(英語版)で、船の船長だったヘンリー・アルバート・バットとその妻クララ(旧姓 フック)の間に長女として生まれた。1880年、一家はイングランド東部、ブリストルの港町へと移り住む。クララはサウス・ブリストル高校へと通い、ここで彼女の歌唱能力が知られるようになり、表現者としての才能が磨かれた。学校長の要望により、バスのダニエル・ルーサム(作曲家のシリル・ルーサムの父)の指導を受けた彼女は、ルーサムが音楽監督を務めるブリストル祝祭合唱団に所属した。 1890年1月に奨学金を獲得して王立音楽大学へと入学したバットは、歌唱をジョン・ヘンリー・ブロアーに、ピアノをマーマデューク・バートンに師事した。王立音楽大学で声楽を学ぶ4年間のうち、ヴィクトリア女王の後ろ盾を得た彼女は3か月をパリで過ごした。さらに、ベルリンやイタリアでも学んでいる。 バットは1892年12月7日、ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホールにおいて演奏されたアーサー・サリヴァンのカンタータ『黄金伝説』でプロとしてのデビューを飾った。3日後にはロンドンのライシーアム劇場(Lyceum Theatre)においてグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』でオルフェオ役を演じている。この公演は王立音楽大学の主催で、指揮はスタンフォードであった。ザ・ワールドの音楽評論家であったジョージ・バーナード・ショーは、バットが「合理的に考え得る期待の最大値をはるかに超越していた」と書いた上で、彼女が並みならぬキャリアを歩むだろうと予測した。 ジャック・ブイーの下でさらなる研鑽に励むべく、バットはパリへと赴いた。ブイーはルイーズ・ホーマー、ルイーズ・カークビー・ランといった国際的名声を手にした女性歌手を指導した人物である。その後ベルリンへと移った彼女は、一線を退いた有名なソプラノ歌手のEtelka Gersterの下でさらに技術に磨きをかけた。バットの歌声を聴いたサン=サーンスは、彼女に自作のオペラ『サムソンとデリラ』に取り組んでほしいと希望したが、聖書を題材とした作品の上演が禁じられていた当時のイギリスでは、この願いは叶わなかった。法改正に伴い同オペラが1909年にロイヤル・オペラ・ハウスで上演された際、デリラ役を歌ったのはランであり、バットはこれに落胆した。 バットはその声質と6フィート2インチという長身により、イギリスの演奏会の舞台で名声を獲得した。彼女は多数のレコード録音を遺しており、伴奏はリリアン・ブライアントであることが多かった。バットは複数回にわたってサリヴァンの歌曲『The Lost Chord』を録音しているが、彼女はこの作品の手稿譜を友人のファニー・ロナルズ(英語版)から遺言で譲り受けていた。彼女は主に演奏会で歌手として活躍し、オペラへの出演は『オルフェオとエウリディーチェ』の2回の公演のみであった。当時のイギリスを代表する作曲家であったエドワード・エルガーは、彼女の独唱を念頭にコントラルトと管弦楽のための連作歌曲集『海の絵』を作曲した。1899年10月5日にノリッジで行われた初演では作曲者自身が指揮し、バットがソロを歌った。彼女はこの歌曲集からは第4曲「珊瑚礁のあるところ」のみを録音している。 バットのテッシトゥーラは非常に広く、C3からA5に及んだ。
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