コヴェント・ガーデンにおける不遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:52 UTC 版)
「レジナルド・グッドオール」の記事における「コヴェント・ガーデンにおける不遇」の解説
グッドオールは、1946年11月に王立歌劇場の副音楽監督として採用されたものの、20年以上も脚光を浴びることがなく、職階的にも一時、指揮者からコーチに降格されていた。 不遇の原因としては、初代音楽監督のカール・ランクルがドイツ人であったため、グッドオールの望む独墺系の演目は音楽監督のレパートリーとなってしまう不満、聴衆やオーケストラの団員からの評価が低かったことが挙げられる。実際、気乗りのしない演目でのグッドオールの指揮の評判は悪かったという。 また、第3代音楽監督のショルティは、彼の意図とは異なる解釈を改めない副指揮者グッドオールを全く評価せず、ほぼ9年間、舞台に起用することはなかった。また、ユダヤ人であるショルティには、反ユダヤ主義を改めないグッドオールを個人的に許せなかったとする俗説もある、このいずれにせよ、こうした状況はサドラーズ・ウェルズ歌劇場総支配人のステフェン・アーレンがグッドオールを起用し、名声を得るまで変わらなかった。 王立歌劇場総支配人のデイヴィッド・ウェブスターもグッドオールのワーグナーに対する力量は認めていたと言われるが、ルーチンの演目をこなす指揮者として活用する方策を思いつかなかったものと思われる。
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