オリジナル・プロダクション
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「アザー・デザート・シティーズ」の記事における「オリジナル・プロダクション」の解説
リンカーン・センターの制作として、2010年12月から2月にオフ・ブロードウェイのMitzi E. Newhouse Theaterにてワールドプレミアでの上演を迎える。2011年10月からはオン・ブロードウェイのBooth Theatreに移して上演された。2012年1月までの限定公演として予定されていたが、批評家からの反応がよく興行収益も好調だったことからオープンエンドでの継続が決定し、同年6月まで上演が続いた。演出はジョー・マンテロ。 オリジナルの配役は、ポリー役にストッカード・チャニング、ブルック役にエリザベス・マーヴェル、ライマン役にステイシー・キーチ、シルダ役にリンダ・ラヴィン、トリップ役にトーマス・サドスキー。オンではブルック役はブロードウェイ・デビューとなったレイチェル・グリフィス、シルダ役はジュディス・ライトとなり、他は続投となっている。サドスキーは1月で一旦降板し、ジャスティン・カークが3月まで役を引き継ぎ、その後5月から再びトリップ役として戻ってきている。グリフィスは3月4日までの出演となり、その後は再びマーヴェルがオンでもブルック役を演じることとなった。 元々は2010年2月に次の演劇シーズンでのブロードウェイ上演が予定されてると発表されていたがオフの上演へと変更、当初の予定であるオンでの上演もすぐに決まったが、2011年の春から上演をできる劇場がなかったため、秋へと持ちこされることとなった経緯がある。秋になったことで、既に別の作品への出演が決まっていたラヴィンはオン版への続投は出来なくなってしまった。 今作の当初のタイトルはLove and Mercyであり、これは劇中でブルックが書き上げた回想録と同名のタイトルでもある。作者のジョン・ロビン・ベイツにとってはブロードウェイで上演された初めての戯曲となった。また、ベイツにとって2度目となるピューリッツァー賞の戯曲部門の最終候補にもなっている。 第66回トニー賞では演劇作品賞を含む5部門で候補となり、ライトが演劇助演女優賞を受賞している。チャニングも演劇主演女優賞候補となった。他、候補となったのは装置デザイン賞と照明デザイン賞である。
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オリジナル・プロダクション
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「王様と私 (ミュージカル)」の記事における「オリジナル・プロダクション」の解説
メディアや舞台作品ファンからヒット作の呼び声高く、1951年3月29日、ブロードウェイのセント・ジェイムズ劇場で開幕した。ハマースタインとロジャースは心配しているふりを装った。ロジャースは、観客はその作品の出来そのものではなく、『南太平洋』より出来が良いかを気にしていると不平を言った。その日、ニューヨークでは大雨であったが開演が近付くと雨はやみ、集客に影響は出なかった。原作者のランドンは初演に招待されていなかった。 ブリンナーは主役を食うかのような素晴らしい演技であった。ローレンスは自身の病気をカンパニーのメンバーたちが心配していることを知っていた。演出家のドルテンはローレンスについて「新たな魅力を備えて舞台に立つと、まるで特別な力が彼女に輝きを与えているようであった。彼女は晴れやかで素晴らしかった」と語った。新聞各紙が称賛のレビューを掲載し、ローレンスの士気を高め、ブロードウェイ公演の後はロンドンのウエスト・エンド公演、そして映画版への出演を予見させた。ローレンスはトニー賞ミュージカル主演女優賞を、ブリンナーは助演男優賞、そして作品はミュージカル作品賞、衣裳デザイン賞を受賞した。 ゲムゼ・ド・ラペはローレンスの歌声と演技について以下のように語った: 毎晩楽屋でガートルード・ローレンスの声をPublic Addressで聞いていると、音程が一定していないように感じていた。しかし私が『Paint Your Wagon 』出演のため降板後、ユル・ブリンナーが招待席を用意してくれ、客席から見て私は彼女に引き込まれた。彼女はスターであって、音程など関係なかった。彼女はまさに作品の中心であった。とても学ぶべきものがあった。 ローレンスは肝細胞癌で死期が近いことを自覚しておらず、この舞台によってますます悪化していった。52歳の時点で、ローレンスは3時間半の公演を週8回、75ポンド (34 kg)の衣裳を着用しつつ、ダンスや演技しながら計4マイル (6.4 km)を動き回らなければならなかった。夏季、舞台の照明の熱も相まって、ローレンスはこれをこなすことが困難になってきたことに気付いた。昼公演は代役のコンスタンス・カーペンターが出演するようになった。その年の終盤、ローレンスの体力が回復し、全公演出演するようになったが、クリスマスまでに胸膜炎にかかって過労に苦悩し、1週間の検査入院をすることとなった。亡くなる9か月前になってもまだ癌は発見されていなかった。1952年2月、気管支炎により1週間休演し、夫のリチャード・オルドリッチはロジャースとハマースタインに春の復活祭の週に公演を全休演してローレンスの完全復帰を待ってくれないか尋ねた。ロジャースとハマースタインはこれを断ったが、6週間、『オクラホマ!』アド・アニー役オリジナル・キャストのセレステ・ホルムが代役を行なうことに決定した。一方、ローレンスの演技は衰えていき、観客の不満が聞こえるようになった。ロジャースとハマースタインはローレンスに「週8回、1,500人もの観客を失望させている」との手紙を書いたがローレンスに届けられることはなかった。8月下旬の昼公演後にローレンスは倒れ、ニューヨーク長老派教会病院に搬送された。ローレンスは昏睡状態となり、1952年9月6日、54歳で亡くなった。死体解剖により、肺癌が明らかになった。葬式当日の公演は休演となった。ブロードウェイとウエスト・エンドの照明は落とされた。ローレンスは第2幕の舞踏会用ドレスの衣裳で埋葬された。 カーペンターがアンナ役を後継し、620回上演された。他のアンナ役代役にはホルム、アナマリー・ディッキー、パトリシア・モリソンが就いた。のちにブリンナーは自身は休演したことがないと語ったが、セント・ジェイムズ劇場の裏方が舞台装置で誤ってブリンナーの鼻にあててしまった時と虫垂炎にかかった時に休演した。ほかに1952年の3か月間および1953年の数回はアルフレッド・ドレイクがブリンナーの代役を務めた。子役の1人サル・ミネオはエキストラとして出演し始めたが、最年少の王子役の代役となり、その後チュラーンロンコーン王子の代役となった。ミネオはブリンナーと10年以上共演し、親友となった。他の代役にはチャン王妃役のテリー・サンダースがいる。サンダースは1956年の映画版にもこの役で出演した。1954年3月20日、1,246回上演後閉幕した。当時ブロードウェイ・ミュージカル史上4番目に長いロングラン公演の記録となった。1954年3月22日、ペンシルベニア州ハーシーにあるコミュニティ劇場にてブリンナーとモリソンが出演した全米ツアーが開幕した。30都市で上演後、1955年12月17日、フィラデルフィアにあるシュバート劇場で閉幕した。 1953年10月8日、ロンドンのドルリー・レーンにあるロイヤル劇場でオリジナル・ロンドン・プロダクションが開幕し、観客および批評家から好評を得て、946回上演された。この公演はジェローム・ホワイトにより再演出された。ヴァレリー・ロブソンが最後の主演作としてアンナ役に、ハーバート・ロムが王様役、ミュリエル・スミスがチャン王妃役に配役された。マーティン・ベンソンがクララホム首相役を演じ、映画版でもこの役を再演した。イヴ・リスターがホブソンの代役、ジョージ・パステルがロムの代役となった。『ニューヨーク・タイムズ』紙の劇場コラムニストのブルックス・アトキンソンはリスターとパステルの出演するプロダクションを観劇して平凡であるとの感想を持ったが、スミスに関しては演技も歌声も称賛した。アトキンソンは「この脚本は高水準の美しいミュージカル・ドラマ作品である。可もなく不可もなく上演され続けるだろう」と語った。 その後すぐにオーストラリア、日本、およびヨーロッパ中で上演された。
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オリジナル・プロダクション
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「アニーよ銃をとれ」の記事における「オリジナル・プロダクション」の解説
1946年5月16日にブロードウェイのインペリアル劇場にて初演、上演回数1,147回を記録した。ジョシュア・ローガンが演出し、アニー役はエセル・マーマン、フランク役はレイ・ミドルトン、ドリー役はリア・ペンマン、フォスター役はアート・バーネット、シッティング・ブル役はハリー・べラヴァー、トミー役はケネス・バウワーズ、チャーリー役はマーティ・メイ、リトル・ボーイ役はウォレン・バーリンガー、バッファロー・ビル役はウィリアム・オニールが演じた。 1947年10月3日、テキサス州ダラスで全米ツアー公演が開幕し、アニー役をメアリー・マーティンが演じた。シカゴ、ロサンゼルスでも上演された。1947年半ばまでマーティンはアニー役を演じ続けた。 1947年6月7日、ロンドンのウエスト・エンドにあるロンドン・コロシアムで開幕し、上演回数1,304回を記録した。アニー役はドロレス・グレイ、フランク役はビル・ジョンソンが演じた。 1947年7月19日、メルボルンにあるハー・マジェスティ・シアターでオーストラリア公演が開幕し、アニー役をイーヴィ・ヘイズ、フランク役をウエブ・ティルトンが演じた。 1950年2月19日、パリにあるシャトレ座でフランス公演が開幕し、Marcel MerkesとLily Fayolが主演した。1年以上上演は続いた。
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