小室哲哉の使用機材
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 06:24 UTC 版)
使用機材
- Sequential Circuits Prophet-600[1]
- Pearl PolySensor
- PPG WAVE 2.2[2]
- Prophet VS[3]
- E-mu Emulator II
- 小室は「鍵盤の左端が弾き辛い」「ディスクの入れ替えをやってる余裕がない」「見栄が悪い」「小さいキーボードから、色々な音色が『声』から『オーケストラ』まで出てくると皆が不思議がってくれる」という理由から、YAMAHA DX7とMIDIで接続されてあり、小泉洋のコントロールでDX7自体の音色と切り替えながら弾き分けていた[4]。
- 小室はライブでの演奏と動きに徹していて、物理的に操作に関与することが不可能なため、ステージ上では小泉に本機で使うフロッピーディスクの取り替えをしてもらっていた[4]。
- デリケートであり、音色によってはDX7のモジュレーション・ピッチベンドのプログラムデータが受け付けないこともあり、それらも小泉が直していた[4]。
- 音色のロード時間に28秒もかかり、楽曲の演奏の途中でも音色を変える時がある。その場合は小室が演奏している際に「小室がキーボードから手を離すと、その瞬間すぐに小泉がフロッピーディスクを交換して、小室が30秒後に弾き始める」という作業を勘で行っていた[4]。
- TM NETWORKのライブアレンジの全ての大元は「本機のロード時間の影響で曲間ができるけど、どう合わせるか」という構成から始まっていた[4]。
- レコーディングではサンプリングの精度に物足りなさを感じ、以降サンプラーを2台以上用意する切っ掛けになった[4]。
- サンプリングは小室の「一番良い音でサンプリングしたい」という意向から、小泉がTMのレコードのマスターテープからマルチトラック・レコーダーを経由して行っている[4]。
- 「DRAGON THE FESTIVAL TOUR featuring TM NETWORK」では熱と振動のせいでデータをロードできなかったり、ドラマーがモニターしているガイドのリズムと他の機械のタイミングがずれたりし、全く同期しなかったこともあった。照明が変わるとその時のノイズがMIDIに乗ってしまい、プリセットの音色のデータそのものが変わることもあった[4]。
- 「YOUR SONG ("D"Mix)」「TWINKLE NIGHT」「『VAMPIRE HUNTER "D"』サウンドトラック」のレコーディング作業では、シンセサイザーはほとんど本機のみが使用された[5]。
- Ensoniq VFX
- 「Digitalian is eating breakfast」制作時から、久保こーじと2人で頻繁に使用した。久保は「これから誰かがこれを使ったとしても、すっかり僕ら2人の音というイメージになってしまうだろう」「気がつくと、どうしてもこの機械に戻る。ここからアイディアが湧く」と称している[6]。
- Waldorf THE WAVE
- 「TMN 4001 DAYS GROOVE」で使用。本機に搭載されたノブやスライダーで音色を視覚的にリアルタイムで操作した[5]。
- 完全受注生産だったため、現存する機体は少ない。小室、浅倉大介は発売当初数台リリースされたものをいち早く入手した。
- 華原朋美の『keep yourself alive』冒頭で本機の「1.2.3.4.5.」の音色が用いられ、後に『save your dream』のPVでも本機が使用されている。
- HAMMOND ORGAN L112
- TM「RHYTHM RED」の関連活動時から使用している[7]。
- AKAI S900
- Arp Solina String Ensemble
- Mellotron
- 主に2000年以降のTM NETWORKの活動で使用される。
- Roland
- Roland SH-1000
- 小室が初めて購入したシンセサイザー。試しにフェリックス・メンデルスゾーンの曲を弾いてみたら「シンセサイザーの方がビブラートをかけることができて、指の力もそれほど必要ではないし、調律も面倒じゃないからいい」と気に入った[8]。
- 買ってから5年以上使い、その間に同機を2台足したが、元々がモノフォニックシンセサイザーだったため、マルチトラック・レコーダーが搭載されていないが故にオーバー・ダビングが行えず、楽曲を構成する和音が作れなかったという[9]。その対策として、「ギターでコードを弾いたりして、それに本機を被せる」という最終的に即興演奏で遊ぶために事前にバックトラックを作らなければいけなかった[10]。
- TMデビュー前の1981年頃より使用[11]。他機との接続・同期を信号出力によって可能にする「トリガー・アウト」を経由したことで、シンセサイザーとリズムが同期したことで、手に入れてからは頻繁に使い込んだ[10]。
- 1991年に久保こーじが急に両機を自費で購入し、使い込んだ。それを見た小室がアレンジを頼むと、ハードコアテクノ調のアレンジが次々と仕上がり、小室がそのジャンルを強く意識するきっかけになった[12]。
- 「今考えたらものすごく簡単な同期だったけど、それまでの『キーボードのメロディを乗せる』より『リズムを重ねていく』という風にそれまでの方法論を一気に覆されて、様変わりした」[10]「この2台の凄さは全世界で何億枚のヒットを作ったのか分からない位。自宅で電源をつけてリズム音の上でギター・ピアノを乗せるとデモテープがすぐ簡単に作れた。宅録した音源がスタジオで録音した音源よりグルーヴ感が良かった。やっていることはアナログだけど生音のデジタル編集の予兆だった」と振り返っている[11]。
- Roland TR-727
- Roland JX-305
- 『wanna Be A Dreammaker』『perfume of love』等で使用されている。
- Roland JP-8000
- Roland JUPITER-6
- JUPITER-80
- V-synth GT
- Fantom-S
- 「音色のプリセットの数が昔とは比べ物にならない位、たくさん入っている。ミュージック・シーケンサーやエフェクターも内蔵されていて、最後のマスタリングの段階でもコンプレッサーとして使えるので、本当にこれ1台で曲が作れてしまいます。他の機材を買わなくても済みますし、若い子達にとってもすごくいい」と称賛している[14]。
- Fantom-G6 / G7 / G8
- FANTOM 6
- Gaia SH-01
- Roland JD-800
- 小室は「1990年代には欠かせない楽器」と称している。プリセット53番のピアノの音源を基本ツールとし、その音源をシンクラヴィアに録り込んだ時のその相性の良さからくるきつめのエフェクトがかかった音色を気に入り、その組み合わせで出来た音色を様々な楽曲で使った[15]。
- JD-Xi
- JD-XA
- XP-80
- ARIA (MX-1, TR-8, TB-3, SYSTEM-1)
- YAMAHA
- 「YAMAHA KX1」よりさらに軽量化したことを喜んだが音量の調節が効かなかった。その対策として、本機1台を使うために2台のボリュームペダルを用意し、キーボードブースでもフロントに立っている時でも音量の調節ができるようにした[18]。特注機のTetsuya Komuro's Mind Controlがある。
- 「TOUR '86 FANKS DYNA-MIX」で使用[19]。
- 「CAROL」ツアーで使用[3]。
- TM NETWORKデビュー30周年記念ツアーQUIT 30で使用[20]。
- TM NETWORKアルバム『SPEEDWAY』収録の「N43」で木根のギターに重ねて、ギター音色で使用[21]。
- TM NETWORK DOUBLE-DECADE TOUR“NET WORK”で使用。
- 配信ライブ“How Do You Crash It?”及びプライベートスタジオで使用。ソフトウェアシンセサイザーのコントロール用として使用[22]。
- 「エレクトリックピアノの音を取り出した時に軽くキーに触れても、こもった音しか出ないが強く叩くとトーンモジュレーターの様な歪んだ音もちゃんと再現されて、『シンセサイザーもリズム楽器として十分サウンドの中心となりうる』と感じた」[17]「1台だけでも使えるし、何台使っても問題がない」「ハワード・ジョーンズ・マドンナ・a-haと同じ音色がそのまま入っていて、海外の曲と同じフレーズが出せる」[25]「とにかく音がクリアで、自分のタッチが音として耳に届くまでの早さが生まれて初めて一致した」と賞賛している。しかし、シンセサウンドが目立ちすぎてバンドサウンドの音が後ろに遠のいてしまう等生音との相性が悪く、生音と機械音の融合を真剣に考え始めるきっかけになった[26]。
- 1980年代後半を中心にTM NETWORKの活動で頻繁に使用された[5]。
- 「DX7とほとんど変わらない値段で、2倍以上の機能を持っている。例えば音源が2倍になっている。しかも、事前にサンプリング・プログラミングした音源の上に、上の鍵盤でピアノの音・下の鍵盤でストリングスの音という、自由自在に全く違う組み合わせの即興演奏を同時に一緒に再生できるから、幅が広がる」「本物の音の厚みにさらに近づいていて、1台でできる。僕は5台使う」「ハ長調の平均律ではない、アラブ音楽・バロック音楽の音階が簡単な作業でできてしまう」「四分音も和音で上がっていく事ができる」「1音ずつピッチが変えられるから、わざとホンキートンクのタック・ピアノみたいな狂った音程も出せる」「ずっと押し続けると、エレクトリック・ギターのチョーキングの音も出せる」「一番嬉しかったのは、ステレオでプリセット音源を内蔵してくれたこと」と語っている[27]。
- 90年代前半に使用。TMN RHYTHM REDツアーのときはSY77を、TMN EXPOツアーのときはSY99を使用している[28]。篠原涼子の『恋しさとせつなさと心強さと』のPVで同社のP-500の上に乗せて、SY85を演奏している[29]。
- TMN期に使用。RHYTHM REDツアー、EXPOツアーのときに使用[28]。
- 華原朋美の『keep yourself alive』のPVで3台並べて演奏している[30]。
- CP1
- CP80
- 1988年のロンドンに渡った際、自宅に設置して毎日弾いていた[31]。
- CP70
- TM NETWORKの1984年のコンサート『ELECTRIC PROPHET』で使用[1]。
- CP4
- CP88
- P-500
- 篠原涼子の『恋しさとせつなさと心強さと』のPVで使用[29]。
- 「EOS YS200」「EOS B200」が発売された最初期は単純に広告キャラクターとしての参加だったが「EOS B500」開発時より、プロデュース・デザイン作業に積極的に関与した[32]。
- コンセプトは「もし中学の頃の自分がこれからシンセサイザーを買うとしたら?」「キーボーディストがヒーローになるには?」「シンセサイザーについている再生ボタンを押すと、打ち込み系のダンスビートが鳴り、スケーター[要曖昧さ回避]系の子が反応する。その場が盛り上がる時、再生ボタンを押した人が主役になれる様にする」という所から考えて、「プリセット音源を入れるROMの記憶容量を1MBから2MBに増やして、色々な音を出せるようにして欲しい」等専門用語を介しながら自分の希望をヤマハ側に出した[32]。avex dance Matrix '95 TK DANCE CAMPやtk-trapなどでEOS B900を使用。Private Tour "house of globe"やglobe@4_domes FACES PLACESでEOS B900EXを使用。globe tour 1998 Love againでEOS B2000を使用。
- 1998年までイメージキャラクターとして活動していた。
- コンサート・テレビ番組出演の際に始まってから音が出なくて進行を中断するのを防ぐために、QX3・MIDI接続のリモートキーボードとして、DX7II-FD・KX76 / KX88の代用として使用していた[33]。
- 2013年に前山田健一とコラボをする際、EOS B700を改めて購入。B700のみで楽曲を共同制作した。
- 『TMN 4001 DAYS GROOVE』で使用していた。計算負荷が非常に大きい物理モデル音源を16音ポリフォニックとするため、音源チップとCPUを大量に搭載して作られたキーボードで、メーカー希望小売価格で270万円もする高額な機材である。YAMAHA VL1と異なり受注生産のみで販売されていたため中古市場で見掛けることは滅多にない。
- YAMAHA RX11 / RX21L / RX5[34]
- STAGEA ELS-01CU
- 記録容量の少ないエレクトーンであるということから、ヤマハから紹介された時には難色を示したが「形状がオルガン離れしていて、ステージでも他のキーボードと並べても違和感がない」「音も下手な生の弦の編成じゃ負けてしまう程に重厚で迫力のある音」と賞賛している。「Tribal kicks TV」のメインテーマの作曲にメインで使用され、「globe decade tour」「Tribal Kicks TV Party」でも本機の音色を30個使用した[35]。
- KORG
- 小室のプロデビュー時に所属していたレコード会社のスタジオに唯一置かれていたシンセサイザー[36]。
- 安岡力也の「ホタテのロックンロール」のアレンジ作業で使用された。「1974」「パノラマジック」のデモテープには、このKORG PolysixとRoland TR-808が同期された状態で使用された[15]。
- KRONOS X
- TRINITY plus BK
- Private Tour "house of globe"やglobe@4_domes FACES PLACESで使用。
- 『love again』『TOGETHER NOW』等で使用されている。
- RK-100S
- CASIO
- XW-G1
- XW-P1
- Clavia
- Nord Wave
- Nord Lead 1
- Nord Lead 2
- 「ツマミにLED表示が無いのが逆に良くて、アナログライクな微妙な動きを活かせるから、自分のイメージした世界を自在に作りこめる」と話している[37]。
- Nord Lead 3
- Nord Lead 2x
- Nord Lead 4
- Nord Drum
- Access Virus
- 「コンパクトにまとまっているので、一目で全てのことがわかる」と話している[7]。
- Virus Indigo
- Virus Tl Polar
- Virus Tl2 Polar
- Virus Indigo 2 Redback
- Virus KC Keyboard
- moog
- Moog Liberation
- 小室が生まれて始めて使用したショルダーキーボードである[17]。
- 小室は「『体格のいい外人だけで制作したんだ』と確信できる程の重さだった」と回想している[17]。
- Memorymoog
- TM「RHYTHM RED」の関連活動時に中心に使用[7]。
- 「1音1音積み重ねていっても、ただ積み重なる感じの和音ではない。音色を4つ重ねてもバランスがいい綺麗な音になる。単音でも弱くない」「ギターに負けずに張り合える楽器」と称賛している[7]。
- Slim Phatty
- moog one
- 『Route 246』等で使用されている。
- Moog Liberation
- Avid
- Xpand
- Oberheim Electronics
- Dave Smith Instruments
- Poly Evolver Keyboard
- OB-6
- Arturia
- Origin
- MINIBRUTE
- Radikal Technologies
- Spectralis 2
- accelerator
- AKAI
- Akai SynthStation 49
- STUDIO LOGIC
- Sledge
- JoMoX
- XBASE 888
- XBASE 999
- MBase 11
- M.Brane11
- Native Instruments
- MASCHINE
- ReFX
- Nexus2
- Vengeance Sound
- Multiband Sidechain
- LennarDigital
- Sylenth1
- KV331 AUDIO
- SynthMaster2
- Native Instruments
- Battery 4
- Guitar Rig
- Tone2
- GLADIAIOR2
- Nemesis
- Electra2
- Reveal Sound
- Spire
- MusicLab
- REAL STRAT 3
- REAL GUITAR 4
- Spectrasonics
- Omnisphere
- Trilian
- Steinberg
- HALion 5
- PROMINY
- SC Electric Guitar
- Modartt
- Waldorf
- PPG Wave 3.V
- Xfer Records
- Serum
- PC-8801
- Roland DG
- 「とっさの場合に便利。あっという間に全てのデータを移調したり、他のフロッピーディスクのシーケンス・パターンとつなげる等、単体のミュージックシーケンサーでは難しい技が使える」「データが目に見えるため、『何かがおかしい』と思って『キックの位置を変えたい』と思った時にパッと見てわかる」「まだ使っていない機能もあるけど、あのソフトはすごい」と語っている[4]。
- RCM-PC98
- PC-9801
- 小室・迫田到の共同オペレートで「TM NETWORK TOUR '86 FANKS DYNA☆MIX」から使用。この頃から手弾きによる入力が増えていく[40]。
- なおPC-9801使用時期のライブにおいて、実質的な自動演奏は下記のQXが行なっていて、PC-9801はそのビジュアル面(見た目)を含めてMIDIモニターとして機能していた。
- YAMAHA QX1[19]
- MIDIミュージックシーケンサー。ライブにおけるMIDIシーケンスの実質的な中枢として使用された。
- MIDIを介して繋がってる音源全ての音色を変えることができた[24]。同時再生可能トラック数は8。
- 「TM NETWORK TOUR '86 FANKS DYNA☆MIX」から「TM NETWORK FANKS CRY-MAX」まで使用。
- YAMAHA QX3[19]
- MIDIミュージックシーケンサー。ライブにおけるMIDIシーケンスの実質的中枢として使用された。
- MIDIを介して繋がってる音源の全ての音色を変えることができた[24]。同時再生可能トラック数はQX1の倍の16。
- QX3の使用と共に、ミキサーのMIDIコントロール、スターライトへの同期信号発出、ベースパートのシーケンス、と徐々に自動化の割合が増えていくようになる。
- 「Kiss Japan TM NETWORK Tour '87〜'88」から「TOUR TMN EXPO FINAL CRAZY 4 YOU」まで使用。
- Synclavier 6400
- 1985年頃スティーヴィー・ワンダーがステージで使っているのを見て存在を知った。1988年6月にロンドンで実際に始めて使用し、1988年7月23日 - 8月1日に大阪で行われたイベント「Panasonic SFX 1988」の音楽制作が最初に使用した仕事になった[42]。
- 「Digitalian is eating breakfast」より本格的に導入。その際、小室とメインスタッフ以外は本機を使用したレコーディングの方法が分からず、小室はアシスタントスタッフ達に音色の保管方法・データが消えた時の対策・ミックスダウンのやり方など素朴とも言える数々の質問に答えていった[43]。
- 小室はその音の通りの良さと操作性の高さに驚き「今後もしレコーディングで従来のテープレコーダーを使うとしたら、それは音を悪くしたい場合だけだ」「歌を一文字ずつ数字で見ながら、細かい修正をして歌のノリや響きを出していく」[42]「500以上の音色のデータがあるから、その中から自由にイメージに合った音色を探し出すことができる。例えば、琴は本物よりも、ハープの音色を使った方がリアルな音になって、キーボードのタッチで新鮮な琴の音色が演出できる。そうやって、一つひとつの音色を自分なりに煮詰めていける所がメリット」[44]「一通り録音した後に、楽曲全体の音符・音域・パートを変えたいときに10分で簡単に抜き差しすることができる」[45][43]「機材でそのまま再現すると雑音になってしまう特定の古いシンセサイザーの音色をサンプリングすると鮮明になる」[43]「ギターの音色をピアノに変えられる」[46]「ステレオサンプリングが100kHzまでできた。100kHzをCDフォーマットの44.1kHzに落とすことは分かっていたけど、興味本位で100kHzで収録に使ってみた。スタジオミュージシャンのピッキングノイズやタイミングのズレ等も、克明に記録できた」[47]と語っている。
- 篠原涼子との共同作業時までは確実に利用していたのだが、その頃の海外のサウンドは逆にアナログ音を売りにしていた・電子音でも音圧があり、小室自身が作ってる電子音はチープに感じたことから、「その時代のアナログ音の使い方がしたくなった」と思い、次第に使用しなくなった[48]。
- Music Production Controller
- Digital Performer
- Vision
- 1994年からシンクラヴィアに変わるメインシステムとして使用していた[51]。
- Logic Pro
- Pro Tools
- 2000年前後から今に至るまで使用している[53]。
- Mackie
- SL 9000 J
この節の加筆が望まれています。 |
音楽性
作風
テクノ・ファンク・ユーロビート・ジャングル・ハウス・トランス・アンビエント・HIP HOP・R&B・レイヴ・ハードロック・プログレ、果てはクラシック・フォーク・AOR・ラテン・ワールドミュージック・純邦楽・演歌等幅広いジャンルを使い分け、かつ複数のジャンルを融合させて、ジャンルを限定せず、どのようなジャンルにも聞こえる[56]音楽を手掛けることを得意とする。ただ、一般には邦楽ダンスミュージックの第一人者・1990年代のJ-POP、又はそれにおけるデジタル・オーディオ・ワークステーション・音楽プロデューサーの概念・音楽配信の普及の立役者として知られる[注釈 1]。
作風の大きな特徴として「長いイントロ[注釈 2]」「強いインパクトのある歌い出しと、中盤に雰囲気を変えた印象的なサビ」[59]「最高音の独特な使い方[注釈 3]」「狭い音域を限定したメロディ作り」「1〜2小節のメロディの繰り返し」「作詞の譜割りがゆっくりになったり早くなったりする」「息継ぎできる部分が全くないパートがある」「少ない構成パート」「唐突な転調が多い」など分かり易いインパクトを持ち、かつジェットコースターのような緩急のメリハリがある展開が挙げられる[62][63]。
グルーヴの独自の演出として、手で直接元々繰り返されているリズムをサンプリングして、さらにループさせるように打ち込む。それにより「キック・ハイハットをコンピューターでシンクロさせている」かのように聴こえるようにしている[64]。それ故に、時々楽曲の音色が自分で弾いた音なのか、元々シンセサイザーに内蔵されている既存のプリセット音か分からない程に自分に染み付いている。使っている音色自体はシンセサイザーのプリセット音の中で大体決まっている。音色・音圧より、ほとんどの場合鳴った瞬間から音色が減衰して、次につながるまでのタイミングで決める。小室は「それを意識するかどうかで音楽としてのグルーヴ感が出るか、ただの工事現場の音になるかが決まる」という。基本は「4分音符で1小節に4つキックを入れて、その裏に8分音符で1小節に8つハイハットを重ねる」こととしている[65]。
拍子では「8分の6拍子」を「三連符の割り切れない切なさが絶対的なグルーヴの揺れを生むので、大事な引き出しの一個」と語っている(例:SPEEDWAY「Smile Again」、篠原涼子「もっと もっと…」、globe「Sa Yo Na Ra」[66]、華原朋美「LOVE IS ALL MUSIC」[67])。
曲に入り込ませるためのフックとして、都会の雑踏の音・信号機の音・携帯電話の受信音・臨時ニュースの発信音等、日常で人間がコンマ数秒で反応する音を機械音を中心に使用している[68][69]。
転調
手癖ともいえる程に転調を多用するようになったきっかけは、TM NETWORKの1stアルバム「RAINBOW RAINBOW」のレコーディングの時、ソフトのバグでシーケンサーに誤動作が生じた。その勝手に音調が変化し転調してしまった音源を聞き、小室が「意外と気持ちいい」と感じたことがきっかけとなり、以後の制作活動でそのフレーズが定着した。ちなみにこの時の現象を小室は「筒美京平さん・都倉俊一さんが作るような『歌謡曲的な転調』『キーが変わると、世界観は変わるが、歌の音域が変わらない』作り方が分かった」「これらの転調は適当ではなく理論的に説明が付く」と話している[70][14]。反面、発見したその後も意識的に挿入していたわけではなく、むしろ「曲作りで行き詰ったときに使う逃げ」「2曲を1曲にまとめるときに役立つけど、先に転調すること前提で考えずに最後の手段としている」[71]「コンピューターの誤作動による偶然の産物であり、中々思うように表現できなかった」「サンプラーが今のようにタイムストレッチができなくてそのままの音でキーを変えられなかった。そのサンプラーの音を使いたいがために機械的に転調させていた。逆のパターンもあって転調した後にそれまで使っていたサンプラーのボイスが無くなっていてボイスのキーと合わせられなくなった」と必ずしも好意的に捉えてはおらず、その後も如何に自由自在に使いこなすかの試行錯誤に腐心していた[72][73]。
自らの行う転調のやり方について、「これだけ多くの音楽が氾濫している中で、曲にどうインパクトを持たせて、『もう一度聴きたい』と思わせるかという所で転調を理論的に取り入れている」[74]「コーラスのリフレインは4~8回はやるでしょ。そのときに転調して一瞬緊張感を持たせる」[74]「どこでキーが変わっているのか・どこがサビでどこがブリッジなのかを分からないようにする」[75]「声が張るピーク・一番伸びる部分をサビに持っていくため。サビに合わせるとほかのパートが低くなりすぎるため、仕方なく4度転調とか、そういう変な転調を無理やり入れる」「周囲からは『サビでいきなり転調するよね』って言われがちだが、サビが先にあって、その前のBメロで転調しておく」[76]「KCO・安室さん・華原さんは声が出るから転調無しの構成でも大丈夫だった」[72]「お互いのキーの共通コードをつないで転調する。そうすると突然転調した感じが薄れ、スムーズな感じになる」「王道としては、サビの繰り返しで半音キーを上げて高揚感を出す。共通のコードは無いけどメロディを繰り返すことで頭にそのメロディが残る」「ブリッジで転調しておくと、その後自分の演奏テクニックを披露する等やりたいことが自由にできる展開になる」と話している[73]。
小室の思う転調は一時的に少し調が変わって、落ち着こうとする前にすぐ元の調に戻る「経過的転調」と転調してしばらくはそのキーのままで演奏される「確定的転調」に分かれている。前者は「一瞬ハ長調からヘ長調に移って、すぐハ長調に戻るもの。ロックではもう当たり前。突き詰めると段々下がるだけのパターンもそれ」と語っている。後者は「イントロ・サビ等のパートの区別がはっきりできる。インパクトをつけて、急に華やかになったり、暗くなったりと色々変化をつけれる」「曲の後半辺りでリフレインに飽きてきた頃に転調すると、同じリフレインでも再び緊張感を持たせられる」「ボーカリストに合わせてメロディーを無理に変えたり、曲全体のキーを低くしなくても、元来のメロディーラインを残せる」「間奏でソロが弾きやすいキーに変更すると、それがまた曲をスリリングにできる」と語り、その思想を基に突拍子も無い調にずらした曲をたくさん作っている[74]。
コード進行では「F-G-Em-Am」[注釈 4]、「Am-F-G-C / 6451」(例:TM NETWORK「Get Wild」[78]「RESISTANCE」「humansystem」[79]、H Jungle with t「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」、trf「masquerade」[80]、globe「DEPARTURES」[81])[注釈 5][注釈 6]、「短三和音+五音音階」[85]、「sus4(サス・フォー)」(例:渡辺美里「My Revolution」[86]、小泉今日子「GOOD MORNING-CALL」[87]、篠原涼子「恋しさと せつなさと 心強さと」[86])[注釈 7]、「add9(アド・ナインス)」(例:globe「DEPARTURES」)[89][注釈 8]を多用する傾向にある。
作詞
- 基本指針
作詞を始めたきっかけは10代の頃に聞いていたロックミュージシャンが皆自分で作詞していたから、それに小室が続いた形で作詞家としてのキャリアをスタートさせた[90]。19歳の時には小室が木根の楽曲に歌詞をつけたり、他のバンドに歌詞だけを提供していた[91]。
1986年に小坂洋二から「歌詞は多く説明し過ぎちゃダメだ。具体的じゃない方がいいよ」とアドバイスされたことから、「音楽は絵と違って、時間軸があって必ず時間が経過していき、止まって感じることができないことで楽しめる芸術」と悟り[92][93]、「ジョン・レノンがオノ・ヨーコに対して歌っているような『明らかに誰に対して歌っているのか』が分かる作り方」とは対極的な[93]人称・シチュエーションがはっきりとしている設定を作らず、「私に当てはまる」と感情移入できるように曖昧さや抽象的な隙間のある部分を敢えて残す形で「糊代」を意識的に作る演出を基本としている[94][95]。「糊代」については、歌い手の独創力を入れるための余白としての意味合いも持たせている。小室は「空白に自分の解釈を入れられるのがアーティスト。提供する相手がアイドルだったら、細かく説明する」と話している[96]。
この方針は、ハワード・ジョーンズの「New Song」「Things Can Only Get Better」で全面的に採られた「『僕から君へ』ではなく、『僕達からみんなへ』」「アドバイスではなく、『今夜だけは、ディスコに誘って少しの間だけでも嫌なことを忘れるように』」というメッセージを込める手法をモデルにしている[97]。
- 作風の変遷
作詞の手法においては渡辺美里[注釈 9]・坂元裕二[注釈 10]・山下達郎[注釈 11]・川村真澄[注釈 12]に影響を受けた。
1984年からラップの表現について試行錯誤してきた[103]。ラップはメロディを書かずにラップ詞の譜割りをすればいいから負担が減る分、ラップパートにメロディと同じ力・重さを持たせるかに悩み、ラップ中心の作品では歌詞が普段以上に長くなる[104]。
1980年代末までは、起承転結のあるストーリーを作ってそれを底辺に構築していたが、インターネットを使用するようになってからは、ホームページのグラフィックを眺めている内にイメージが湧いたものを散りばめて、そこからさらにイメージを持たせていくという散文詩の書き方に近い方法論で書くようになっていく。小室は「1行目と2行目は全然脈絡はないけど、僕の中ではネットサーフィンで無意識でリンクを辿るように、何かがキーワードになっている。そして、僕でもいつの間にか『どうしてここへ来たのか?』と疑問に思うことがある。だけど、そこは意識しなくても何らかの意思があると思いながら詞を書いた」と話している。その際、実際に行間を埋めるために自らネットサーフィンを行い、そのときに楽しむビジュアルが決定的に小室の感覚に影響し、純粋なストレス解消にもなった[105]。
安室奈美恵を手掛ける様になってからは、自身の書く歌詞に需要が多かったのが予想外で、それ以降特定のテーマはあまり固めず「たった1行でも聴き手が何かに気づき、何かを考えてくれる」ことを期待する構成にすることを心掛けた。『でも』『だから』『じゃあ』『ていうか』『そうだね』等の接続詞を使って、言葉に対してリズムを作る様になり、この手法は「『しゃべり言葉』をメロディにキレイにのっけることが出来た」と自負している[106][107]。
globe「Lights」を制作して以来は岡本おさみや及川恒平等の1970年代の作詞の傾向を小室なりに再考・別解釈して表現するようになる[106]。
- 世界観
世界観は「人生」「現実」「常識」「立派」「正直」「公園」を意図的かつ潜在的に散りばめ、閉鎖的な言葉遣いを排除し「『幸せの価値観』というレールから外れて、悩んでいる不良性を持つ子が喧騒から『走る』『逃げる』『動き回る』『内面を吐き出す』形で現実と立ち向かう」展開方法が多い。マスコミ関係者・ファンから「どうしてそこまで10代・女性の気持ちが分かるのか」「globeの歌詞や世界観に憧れた」と沢山の反響を受けた[108][109][110][58]。
自身のポリシーとしては「『音の中に言葉があるはず』という感じで、メロディーの響きといいたいことの接点を見つけ、それらをコラージュしていく」[74]「反体制派の賞賛ではなく、スポーツ・勉強・遊び・ダンス・DJ・ソングライティングをひたすら真面目に取り組む若者のストイックな格好良さを、時代と向き合うロックの新たな存在意義にしたい。だからリスナーに対する責任は重く、歌詞には長めに2週間は時間をかけている」[109][111]「『勇気』1つにしても、言葉をそのまま使うと一気に説教臭くなってしまう。代わりにコード進行・リズム・楽器を慎重に選択したメロディで言葉をシンボリック化している」[112]「10代が必ず通らねばならない道と対峙したときに、誰かに言ってほしい言葉に結果的になっていた」[86]「女の子が女の子に『貴女だって可愛いんだから頑張ろうよ』という感じだった」[113]「コンセプトのベースが恋愛でも友情でも、つかめそうでつかめないギリギリの鋭い感覚がある部分を描く」[114]「提供した時点でその人のものになれるようにしている。globeでは特にそれを意識している」[115]「歌手の姿形・声をハンドルネームが持つ匿名性と解釈して担保し、それを通して自分の理想とする女性像を試行錯誤しながらも、純粋に照れを抜きに書いていた気がする」[116]「女性目線の歌詞を書くときは、女性は常に上から目線のキャラクター」[117]「1人の女性の全く見えない孤独・葛藤を歌詞にしてきたつもりです」[118]「常に長所・短所両面の揺れを書いている。そこに男女の垣根は関係ない」[95]「完全に自分の1人称で歌ってもらえるのはTM・TRF・globeだけ」[119]「『自分はこれが言いたかったんだ』『こういう思いで生きてるんだ』と入れるのではなく、社会への投げかけを意識しています。『こういう風に思いますよね?』という、常に『isn't it?』だったり、『don't you?』が最後に付く」[120]と回答している。
反面「CAN YOU CELEBRATE?」という英語の表現や、「I'm proud」や「Hate tell a lie」などの間違った文法などについて、当初から指摘が相次いだが[注釈 13]、小室は「具体的な言葉の表現は苦手で、『宇宙』と書いて『そら』と読ませる」[122]「文法上のことはあまり考えず、曲のイメージ・16ビートのリズム・メロディにアクセントがぴったり合う英語を選ぶ。そうすれば『かっこ悪い』といわれる部分も自然と省ける」[121]「ごり押しではあるが、サビの印象的な部分に簡単で記号的な英語を入れる、ボタン一つで他国語に切り替えたり、英訳を表示する等、海外の方々への日本語の意味の伝え方はテクノロジーで克服できる。必ずしも全編他国語で作詞しなければいけないわけではない」[56]「作為的な言葉は全く考えず、自然発生的な言葉を中心に入れている」[123]「日本人が聞いて言いやすい、分かりやすい英語を求めていました。文法よりキャッチーであること優先。洋画の原題が邦題になるときと同じように、『ちょっと格好悪いかな』って位まで分かりやすくするために何回も書き直してました」[58]と発言している[注釈 14]。
- 作業方法
実際に作詞作業を行う際はプロジェクトごとに確かな差分のある大まかなテーマを絞り込んだ後に、モチーフを探すための手段として、基本は「わけが分からないけど、インスパイアされる部分が多くて面白い」と敬愛しているロバート・A・ハインライン・コリン・ウィルソンの作品群を読み込んでいる[125][126]。インターネットを使用するようになってからは、世界中のアパレルブランドのホームページの写真を眺めながら書くことが多くなった。特にゲスを重要なモチーフとして好んでいた[105][127]。主な舞台は渋谷スクランブル交差点や渋谷公園通り等にし、書く場所を歌手毎に変えたりしていた[128]。闇雲な妄想を避けるためにプロデュースする相手からは直接一対一で話を聞き、小室自身の感情を渋谷センター街で遊ぶ女性や若者に置き換えてみたり、小室とファンの共通項を探ったり、主人公の設定の考案等で推察やマーケティングをしていた[110]。例えば、
- TMは小室が書く場合は「アーサー・C・クラーク等のSF小説の世界観を、どのようにシンセサイザーの音楽と馴染ませつつ日本語で表現するか」[129]「純粋にファンタスティックで、SF・RPGゲームを思わせる世界観」[130]を基本方針にしている。情景・シチュエーションは日本語詞で全部説明し、英詞は「TMは洋楽志向」という説明・デコレーションとして使用していた[131]。
- trfは「男性基準ではなく、飽くまで女性自身が憧れる『美しさ』や『ストイックさ』をまっすぐに追求する女性」をテーマにし、女性メンバー3人にパフォーマンスにぶつけてもらった[110]。
- 篠原涼子は「不良性そのものを歌って、それが女性ファンに刺さるか」を試した[110]。
- H Jungle with tは「30代の男性の気持ちを詞にストレートに書ける場所」と称している[132]。
- globeはKEIKOから地方から東京に出てきた女性の気持ちを聞き、小室の解釈で女性目線で男っぽさと女々しさが共存したある意味一方通行な歌詞を書いた[110]。パートの振り分けはKEIKOのパートは「私からあなたへ」の一人称・MARCのパートは「男女を俯瞰するカメラマンとしての感情」「KEIKOに対してのアンサー」・小室のコーラスパートは「ネットワークの情報」と「歌詞の羅列」とも受け取れる表現を行っていた[131]。
- 安室奈美恵は「厚底ブーツを渋谷で買った」という意見から、「積極的で楽観的な不良性」を歌ってもらった[110]。
- 華原朋美は「渋谷のカラオケによく行った」という意見から、「元々は普通の子なのに、意図せず規律から離れてしまい、自分に自信が持てない子の切なさ・やりきれなさ」を書いた[110]。それまでは「みんながカラオケとか歌う時に、1,2行でも残るように」作っていたところから、華原に向けた作品を作り出したことが「リスナーが最初から終りまで完璧に分かってもらう」ようにする構成を考え始めるきっかけになり、終始女性の言葉遣いで表現した[129]。
基本は三部構成で行われ、
- Aメロ「物語の設定の説明」「友達といる時の強い自分」
- Bメロ「昔のことを振り返り、自分達の状況・風景・環境を説明」「一人の時の心に浮かぶ本音のような弱い部分」
- サビ「相手に一番伝えたいことを伝える」
をそれぞれに振り分けて担当させている[117]。字面を確かめるために、ワードプロセッサは使わずに全部ペンを持ってメモに手書きで直接1行ずつ書いたり消したりして徐々に完成させていく。いい言葉がメロディ程の尺のパラグラフで出てきたときには、それを優先する。降って湧いてきた言葉に対してメロディラインを変えるのも自由になり、バックトラックも別の素材に操作できる。これは作詞・作曲・編曲の三位一体をほぼ小室1人で処理できるからやれることでもあるが「この詞を使いたいんだけど譜割りが合わない」「音程が上がってるからこの単語は使えない」という苦労はないという[105][133]。
作曲
- アマチュア時代
小室が作曲をする際、アマチュア時代は中学生の頃から「とにかく頭の中で何かが出てくるまで、待ちながら、事前に色々な音色を作って、弾いて、重ねていく」作業を10年近く続けた。どうしても影響を受けたレコードを真似して作ったり、コード進行を丸々引用したことすらあったが、結局本物を超えることは出来なかった。リフが1フレーズ浮かんでも、それを広げて1曲として完成させるテクニックも無かった[10]。ライブハウス・学園祭・コンテストではギタリストやドラマーが主役だったために「如何に自分の音が目立つか」だけを考えていた[42][134]。
プロデビューして業界人と接するようになってからは「ボーカルを如何に目立たせるか」を考えるようになり、「この音色・パートは歌を強調させる個所とぶつかるから避けよう」等歌に合わない演奏はどんどん削っていくようになった[42][134]。当時「ドラムやギターがリズムを縦に切って、キーボードが横に流れる」のが主流だった中、「ギターが最初から無い状態で、基本はどうするか」という発想から始めた。「ギターの役目をキーボードが如何にやっていくか」を考えたが、リズムを支えたいのに自然に横軸になってしまう等、どっちつかずになってしまう所の克服に苦労した。後にアナログシンセサイザーとデジタルシンセサイザーの使い分けで音色の差別化を図ることで解決することができた[74]。コンセプトの面でも「ロックか?ポップスか?」「8ビートか?16ビートか?」「デジタル風か?アナログ風か?」「コード進行は明るめか?暗めか?」等どちらかにハッキリ2つに分かれる基準を決めて、その2択を選んで大まかな枠を決めた後にとりかかることになった。そのおかげもあり、キーボードのフレーズ等が1小節でも浮かべば、そこから発展させていくことができるようになった[10]。
19歳の時にプレゼンをした際、そのデモテープが「家にあったオルガンを弾いて、犬の声も一緒に入っていた」内容だったため、レコード会社のディレクターに「これではどれがメロディだか分からない」とダメ出しされた。その苦い経験もあり、『レコード会社のカセットテープ・書類等で散らかった室内の中で、相手の顔が見えない状態でも、室内で仕事中の人にも興味を持ってもらえるか』『古いラジオカセットレコーダーで聴かれてもディレクターの気を引くことができるか』『レコード会社の人に如何に観客として楽しんでもらうか』『商品版の形をどこまで描けるか』を考えてデモテープの段階で本番のレコーディングと同じ環境の整ったスタジオ・機材・16~24chで録り、イントロから間奏まで完璧に作り上げ、ミキシングも行い、他のレコード会社が作る完全パッケージメディアより良いものを目指した。ただし、それが他の編曲家も関わる曲だった場合には編曲家を困らせてしまうこともある[135][136][79]。
作曲家のポリシーとしては「体を動かしたくなる『発散性』があるか、場を盛り上げるための『社交性』を持っているか、楽しいだけではないハードルの高いキーがもたらす『エクササイズ』になっているか、というカラオケでファンが求める3要素を常に意識する」[137]「一度書いたメロディは必ず使う」「メロディがボーカリストの心身にどんな作用をもたらすか細かくイメージする」「楽曲のジャンルを確立するためにデモテープのミックスの名残をできる限り残す」[123]ことを心掛けている。
バックトラックを作ってから、ボーカル用のメロディを考えるのを基本にし「ボーカル・コーラスもハーモニー・コード進行の一部と考えた上で、如何にトータルでサウンドを引き立たせるか?」という方針を「Self Control」制作を切っ掛けに常に考えていった[42]。そうしていく内に次第に「ダンサブルで言葉の情報量の多い楽曲作り」を志向し、「1拍半・半拍半で符点を付けて、タイでつなげ、さらに16ビートをつけて、その縦軸の中に完璧なコード進行を入れて、最後に歌詞を詰め込むことで、前に進もうとする推進力を付ける」という手法を開発した。小室はその手法が自身の本質と合うことを自覚したのは、1989年のことである[74][134][65]。同時に音色・リズムは強くスウィングしていないと生理的に受け付けない[138]。スウィングの仕方も40通り持つようになり、1個毎に全ての振れ幅が異なっている[139]。
- プロジェクト毎の方針
デモテープの制作はTMの楽曲の場合は一キーボーディストとして直感で生んだリフ・フレーズを中心にしたオフヴォーカル優先、globeの楽曲の場合は小室による仮歌のみで構成され、周囲に提供する楽曲の場合はメロディ優先で制作する。最初から指定のシンガーに向けて作った楽曲を結果的に別の人が歌うことになった場合、別の人が歌えるようにカスタマイズする作業をすることもある。普通に2曲作るのに平均6〜7時間はかかり[140][14][141]、余裕を持たせてクオリティを普段以上に高める場合は1日10時間はスタジオにこもる時間を作り、3〜5日はかける[111]。その姿勢は日本・海外を問わない[142]。小室の仮歌がなくても小室が新しく作り上げた楽曲をすぐに歌いこなせるのは、宇都宮とKEIKOだけだった[143]。
自分の属するユニットの楽曲を作る場合は最初に「このジャンルを作りたい」と思ったら、もうその雰囲気で適当に弾き語り、出来上がった曲のことは軽く覚えておく程度にして、しばらく放っておく。そして、もし覚えていて格好よければそれを譜面にするか、録音する。覚えていて弾けても、その前に作ったときのインパクトがもう消えていたら、没にする。そして楽曲自体忘れていたら、「仕方がない、もしかしたら思い出す」と割り切る。似た作り方で、曲の構成上、歌い出しの部分だけ昔作ったものを思い出してサビの部分を新しく考える・サビだけ出来上がっていて、頭に常に置いておき、ある日それに合うイントロ等が出来ると急に引っ張り出すこともある。作った時代が、歌の場所によっていろいろあるといった感じのものも多い[144]。
依頼された楽曲を作る場合は制約・締切があるから、今までのストックを基にして無理矢理作る。そして、ディレクターやプロデューサーにその楽曲を聴かせないといけないので、必ず「曲デモ」と称されるデモテープを作る。これを聴いてレコード会社の人・CMディレクターに「サビを直して」「これでは○○さんの曲みたいだよ」「いつもの小室さんがやるようなメロディでお願いします」等、色々な注文をされる。依頼された場合は、よほど制約が緩くない限りは勝手ができないため1回〜3回は、手直しがある。最初は7割程度の出来で聴かせて、2回目に全力を出して作るパターンが多い[144][39]。クレームに対しては「むしろ、ないと僕がオファーを受けた甲斐がない」と寛容な態度を示しているが[145]、どうしてもダメ出しをされたくない場合の対策として、わざと締切日ギリギリまで作らずに周囲がいても立ってもいられない心境にさせて、別の場所で1時間程で仕上げることもある[146][147]。1曲作るのに没になること前提のそれぞれの微調整されたパート違いも含まれる8〜10通りのバージョンを用意しコンペティションに臨んでいた[148]。発売前に各媒体で流してリスナーの反応に耳を傾け、手直しを行うこともある[149]。
劇伴を制作する際は、映像との兼ね合い等色々な条件の中で「如何に自分のエゴを出すか」を考えながら制作している[42]。そのため一応監督の話は聞きつつもあまり気に留めず、全ての映像をテレビに起こして、視聴者になったつもりでリモコンを持って画面を見ながら即興で曲を付け、映像のタイミングを確認しながら手直しする。こうして好き勝手に解釈して作った曲を10曲程コンサートの要領でスタッフに聞かせて、どのように「視聴者が感動できるか」をテーマにしながら、さらにスタッフと一緒に相談して磨き上げていく[150]。楽曲を提供すればそれで終わりではなく、監督・映像・BGMのイメージが少しでもずれていたら、それがどんな段階でも何度でも修正する。場合によっては新曲を書かないといけないため最終的な編集作業まで利害関係なしに1スタッフとして責任を持って、最新鋭の制作システムをもって締め切りまでに如何に磨いていくかを考える。「ドルビーサラウンドに対応していない」等の最悪な状況やシステムの状態の映画館でもまずまず聞ける音色を別に作るため、小室の意向だけで終わらせることができない。商品としてまとめる場合には劇場公開版とは全く異なるミキシングを施す[151]。ただ、小室は後に澤野弘之に「ワンフレーズのメロディでも耳に残る楽曲を作りたいから、どうしても監督の希望より音が立つ方向にものを考えてしまうので、僕はサウンドトラックの仕事にはあまり向いていない。やっぱり『好きにやってほしい』とオーダーされて作ったサウンドトラックが、世に出て残っている」と述懐している[注釈 15]。
1990年代から依頼と注文に応えること前提の楽曲制作が格段に多くなったこともあり、それ故に「起きたら突然、降って舞い降りた・湧き出てきた・何かに導かれたように自分が閃めいたメロディだけで、周囲の介入なし・試行錯誤なし・実験性満載・楽器と向かい合ったら短時間で楽しく作れて、弾き直しも1回もなく、コンペティションもスムーズに通った楽曲」として[注釈 16]、
- TM NETWORK「Get Wild」[140]「Dawn Valley」[142]「TIME TO COUNT DOWN」[153]「10 YEARS AFTER」[93]「Major Turn-Round」[154]「CASTLE IN THE CLOUDS」[155]「Whatever Comes」「Angie」[156]
- ソロ「Futari」[79]、「二十歳の約束」[157]、「Far Eastern Windシリーズ」[158]
- 木根尚登「Wish on the hill」「SATURDAY MORNING.6A.M.」[159]
- trf「OPEN YOUR MIND」[160]
- globe「SWEET PAIN」[161]「FREEDOM」「Precious Memories」[162]「Is this love」[163]「Love again」[164]「Many Classic Moments」[158]「女神」[165]「Lights brought the future」[166]「out of©control」[167]
- Kiss Destination「口笛に咲く花」[168]
- 安室奈美恵「Don't wanna cry」[169]
- 華原朋美「MOONLIGHT」[169]「LOVE IS ALL MUSIC」[170]「here we are」[171]
- dos「GRID60」[172]
- 鈴木あみ「OUR DAYS」[173]
- 松田聖子「Kimono Beat」[136]
を挙げているが「本来そのような楽曲が出来上がるのは数年に1回あるかどうかであり[39]、そこから『誰に歌ってもらって、どのように宣伝するのか』も考えなければいけないため、最初に一瞬で湧き上がったときのテンションを維持するのは難しい[174]」「35年やっているけど、1発OKはない」[175]と答えている。
- 基本的な制作工程
- 自宅に併設した簡易的な設備を施したスタジオでベーシックとなる大まかなパート別のバックトラック・音色を作る[176][37]。
- 本格的な仕上げに入るために、貸しスタジオを予約する[177]。
- 昼過ぎにコンセプト・音色の打ち合わせを行う[177]。
- 夕方16~17時、遅くとも深夜にはマーケティング方面のアイディアを頭に入れつつも[178][179]、メロディが全く思いついていない状態でスタジオに入り「この人に提供しよう」「このイントロ・コード進行・アウトロ・リフ・音色でいこう」と決める。
- 既存のシンセサイザーに内蔵されている音色を、マニピュレーターと相談しながらさらに編集する[180][24]。
- 構想にフィットしそうなリズムパターンをドラムマシンで制作する。
- リズムパターンに合わせて全体の構成やコード進行を考える。
- 起承転結の通っているメロディを作らずに、思いついたフレーズを次々に作っていく。その内に溜まった音源データを聴いて、「音色が格好良い」と思ったフレーズにメロディを足していく[181]。
- おおまかな構成ができ上がったら仮コードを手弾きで、またはコンピューターに打ち込んだメインのバッキングトラック、あるいは小室の知っている曲や自分で既に制作した曲を歌った鼻歌を、プリプロダクションを行わずに「ライヴでギタリストがアドリブのギターソロを弾く」感覚で録音してしまう[注釈 17]。
- 録音した音源を再生しながら、ベースのフレーズを考えつつ、それをミュージックシーケンサーに打ち込む[注釈 18]。
- それぞれのシンセサイザーの担当するパート・クリック音・リズムのデータを入力し終えたら、細部を詰め、細かい音色を決めて全て録音してしまう。この段階でのオフヴォーカル音源はほぼ完全パッケージメディアに近いものとなり、それをそのまま活かす形で「音色・シーケンサーのデータを作り直しただけで完成させるか」「敢えてデモテープから雰囲気を様変わりさせてしまうか」のどちらかになる[24]。
- 最後に最も曲のイメージにふさわしいヴォーカル・コーラス・ギター専用のメロディの譜面[注釈 19]を「ギターのソロパートを振られたときにギターで弾き語るような感じで乗っけるように」作り[185]、それをスタジオ・ミュージシャンが直接何回か聴いた後に演奏し、ミュージシャンが実際に演奏したテイクに差し替えていく[142]。
- 作詞・譜割りは必ずオフヴォーカル音源が完成してから取り掛かる[注釈 20]。
- スケジュールに余裕があれば、完成音源を土台にさらにソロパート・ボーカルを被せて、厚みを持たせる[125]。
- 作業が終わるのは翌朝の7時頃。スタッフと雑談・打ち合わせをしたり、食事を食べた後に自宅に戻るが、何かしら情報収集のために本を読んでいることが多い[178]。
以上の工程[140][63][188]をTMデビュー前の時点で雛形は出来ていたが[189]、完全に確立できたと思えたのは渡辺美里の「My Revolution」を作った辺りとのこと[190][39]。その時の方向性は「当時流行していた洋楽のように4小節とも同じコード進行・バース(Aメロ)→ブリッジ(Bメロ)→コーラス(サビ)でメロディだけは移り変わっていき、予兆無しにコーラスが流れる展開」を目指していた[87][191]。
- 制作スタイルの変遷
テープレコーダーを使用していた際はイントロからアウトロまで流れの型を必ず存在しているためそれに合わせて考えて、その先の違う型を使いたいなら全く別の次の考えに進めなければいけないため、テープを使用するデモ作りを「時間軸に乗せる作業」と称していた。シンクラヴィアを導入した際、時計回りではなくパズル感覚でデータを介してできる切り貼り・抜き差し等の編集作業の簡単さに感動し、次第にテープレコーダーは使わなくなる[43]。
1990年代以降は「一ミュージシャンとしての技巧を凝らしたアレンジ」から「カラオケで歌いやすく、ディスコでもコンビニでもかけれるダンスミュージック」[注釈 21]「ディスコ+カラオケ÷2」[注釈 22]を主眼に置きつつ、「カードの組み合わせで曲ができる」を持論に、今まで小室自身が制作した思うように弾いて格好良いと思ったメロディ・世界中の楽曲の音源から採取したフレーズ・リズム・メロディを音楽ジャンル別・楽器別に分けて、さらに「イントロ用」・「サビ用」・「アウトロ用」等に分けてコンピューター上のデータとしてインプットさせた後(その数は音色だけでも5万はある)、シンクラヴィア(後にPro Toolsにシフト)を駆使して、楽曲のイントロ・1番・2番・ソロパート・アウトロまでをモニターに表示された高音・低音・リズム・各パートの長さを確認しながら行うようになる。いかに自らの曲のイメージにすり合わせながら「カードのように」数々の楽曲を引用・コラージュ・再利用して組み合わせ[注釈 23]、「小室サウンド」としてサンプリング、アレンジして完成させるかがポイントになっている[86][193][194][43]。この手法については「ガンズ・アンド・ローゼズの楽曲の作り方と似ている。彼らが自分達の好きなエアロスミスが制作した3曲を1曲に詰め込んだような感じ」[43]「いいサンプリングのネタと音色が一つでもあればそこから広げて1曲できる。海外では完全にそのノリ。もうそろそろ『サンプリング=盗む』という感覚も消えていい。ジェームス・ブラウンのようにネタを使われているアーティストがジェームスのネタを使っているアーティストにプロデュースを頼むこともあるのだから」[195]「引き出しがあり、そこから引用したものはあります。ただ、曲作りのためのデータというより、記憶の代わりに使っているだけ。外国の誰かと似ることはないが、自分の前の楽曲と似ることはある。それがない用に確認するだけです」[196]「1970年代の誰もが知っている曲のある部分をイントロにつける、バックトラックに知っている曲のフレーズをつけておくと通りすがりの人をも驚かせる。一種のサブリミナル効果です」[86]「機材が進歩すると共に『この部分を直せばもっといい音源になる』という思いが強くなった」[197]「自分の力で作ることはもちろん大切だけど、自分が影響を受けたものを紹介するのもまた大切」[198]「いくら真似して作ったと言っても、元ネタが見えなかったらそれは既にオリジナル」[199]「『何かに似ているけど気持ちよくて格好良いよね』とみんなに思われれば、『似ている・似ていない』の問題はクリアできる」「『どんな方から影響を受けましたか?』と聞かれないアーティストはいない。アートは中々インスパイアから逃れられない。コピーとインスパイアを積み重ねて誰もやった・使った・聞いたことのないほんの数秒間、瞬間でもいいオリジナルを発明してやっと匠になれる。僕の中で発明と思っているのが安室さんの『CAN YOU CELEBRATE?』のイントロ」[200]「過去に自分でゼロから作ってヒットした楽曲をお手本にして、フレーズの一部を再利用した方がファンの期待に応えられるし、自信になります。純粋になる、化合物が無くなる感じですね」[120]と答えている。それ故に楽曲はパート別のメロディの断片を除いても、常に100曲のストックを持っている[201]。
編曲
編曲に対しては、音色の0からの制作も同一の作業として含まれていると見ている。TMデビューの時点で「シンセサイザーはどれを使うか?」「ドラムはドラムマシンでやるか?ドラマーに頼むか?」等全部編曲家が決めたり、選んだりしなければならない環境になったため「楽曲が商品になるために最も幅をきかせてる部分であり、レコーディングスタジオの中で一番偉い存在」と語っている[144]。
小室が直々に手掛ける場合は、まずイントロダクションから考えていく。「イントロが良くなければ、関わる意味がない。その位僕はイントロが好き」「ほとんど作曲に近い」[144]「どのチャートで上位に入るかをシミュレーションする」「大体『ザ・ベストテン』で第1位が発表された直後に聞こえてきそうな感じにする」[65]という気持ちでこだわっている。ただし、スタジオ・ミュージシャンに、その楽器が担当するパートのアレンジを全面的に委ねることもあり[185]、マニピュレーターもリズムの構成の視点で編曲に際してのアイディアを出す。小室にとって、マニピュレーターはサウンドプロデュースの補佐的なポジションと捉えている[24]。
アイディアが進まなかったり、楽曲と音色の雰囲気が合っていないと思ったときは、「歌やメロディと一緒にどんな音をどんな風に演奏するかを決める」「歌やメロディがどこで始まって、どこで休んで、どこで終わるかを決める」「歌もメロディもないパートで他の音色・コーラスをどうするのかを決める」「歌詞が完成していたり、歌手の声質・キャラクターが事前に分かっていたら、それに合った音色を作る」という4つの原点に立ち返っている[202]。
ミキシング
小室にとってミキシング作業は編曲に近い感覚で行われている。「他の作曲家が手がけた楽曲のアレンジを依頼されたら、そのメロディはいじくれない。リミックスを頼まれたときも既に録音してあるボーカルトラックは変えないようにしている。その絶対的な制約がある上で組み立てるという点では、両者は似ている」と語り、作曲・編曲・ミキシングも等しくクリエイティブな作業として同一視している。そのため、よりリスナーに近づける感触を味わうためにミキシングまで深く関わる[203]。
初めて小室一人だけで行った作品は「TMN CLASSIX」であり[203]、本業のレコーディング・エンジニアではないから、ソリッド・ステート・ロジックの卓を見よう見まねで好き勝手にイコライザーやコンプレッサーをかけながら技術を身に付けていった[8]。
ミキシングではボーカル・リズムのトリートメントに神経を使う。昔は「下手なボーカル・音色が粗いから素材そのものを直す」というのもあったが、機材の性能が進むにつれ次第に「より完成度を高めるためのエフェクトの付け足し等の加工」と意味合いが正反対になっていき、小室個人でミキシングを行う場合は1トラック3~5時間は時間をかける。ミックスするパートは一番その曲で聞かせたいトラックからやって行くようにしている。「そのパートの輪郭を最初からハッキリさせれば全体を分かりやすく聴いてもらえる」という意向からきている[155][204]。
TMでのレコーディング作業時、宇都宮に負担を掛けすぎたことへの反省から篠原涼子をプロデュースした1994年からボーカルディレクション・ミキシングの指揮を自ら行い、ビブラートを効かせたり、小節を回す等の歌い方は極力させないようになった[60][104][205][注釈 24]。
録音
レコーディングスタジオに対しては、トラックダウンからマスタリングにかけた作業段階で、音質について議論・実験を重ね、特に機材・設備・果ては土地の空気・気圧・電圧・温度・湿度・静電気・シールドケーブルに拘りを見せる[注釈 25]。
短いサイクルでスタジオを世界各地に移転する。小室曰く「ヒットが生まれる場所は年月が経つと全く違う。拠点を固定してしまうと時代・テクノロジーとの矛盾を起こしてしまうため、もしかしたらサーカスのように明日移すかもしれない」とコメントしている[36]。ただ、全ての作業を自分のスタジオで行うほどの完璧主義ではなく「場所が滞在先のホテルでも・病室でも・車内でも、打ち込み用のキーボードとパソコン等の機材が置いてあって制作ができればそこはもう立派なスタジオで、データだけでほとんどの作業が済んでしまう」[36][207][208]「5千万円あったら機材を買うより他のスタジオを回って何枚かアルバムを作った方がいい。今はどんなに高級な機材でもリースすれば簡単に届くために、あのスタジオにはあの機材があるからすごいという訳ではなくなってきている」[36]「ソフトウェア・シンセサイザーの発達によって、AIRスタジオで録音した音に遜色が無いものが作れるようになった」[31]「ロンドンでは電圧が240Vあり、それだけで音圧の高さ・倍音の気持ち良さ・鍵盤を叩いてからスピーカーが音が出るまでのスピードが日本のスタジオとは段違い。機材面のサポートが充実していて、電話するだけでオックスフォードの機材メーカーからすぐにスタッフが来てくれて、その日の内に対応してくれるので本当に大切な作品はロンドンで録音したい。今までの海外のスタジオで一番良いと感じたのはトレヴァー・ホーンがオーナーを務めるサーム・スタジオ」[54]と話している。自宅でのレコーディングの際の防音対策として、壁に大量の洋服を吊り下げている[209][36]。
1990年代 - 2000年代は的確にミュージシャン・エンジニアを配置し、正確な指示を与えた上で、複数の楽曲のレコーディングを同時進行でスケジュール通りに終わらせるために1軒のスタジオに何室もの個人用ルームと総計50台を超える録音用のミキシング・コンソールを用意し、小室・木根・久保こーじ・松尾和博・DJ DRAGON・当時の専属マニピュレーター・ライヴミュージシャンのリハーサル専用のスタジオとしてそれぞれに割り当てて、それぞれが担当するパートに専念させていた[194][37][210][87][211]。
小室の制作スタンスが反映された独自のローテーションについて、小室とその関係者は下記のように表現した。
- 小室「どんどんチャートに出てくるので、すごく速いローテーションで動いているように見えるけど、実際は1~2年の間に作ったストックがそのまま並んでいるだけ」[212]「羽生善治さんの数々の将棋盤に合わせて戦術のバリエーションを変えて勝負するCMと似ています」[213]「24時間寝ないで、globeの曲を作りながら安室さんの『Don't wanna cry』を作っていました」[8]「作詞・作曲・アレンジ含めた1曲を作る作業を最短1時間で済ませていた」[214]
- 宇都宮隆「デモテープの段階では歌詞も上がっていなくて、メロディもよく分からない。歌詞が上がるのは大抵歌入れの日。歌詞が入った時点でメロディ自体も変わっていく。その日は歌入れだけで精一杯。敢えてレコーディングが始まるまで、デモテープの内容は覚えない方がいい。TMの頃からそういうことが多かった」[215]「まず小室が曲を作り、アレンジしてオケを作る。そのスタジオには僕は行かないで、完成した音を聴いて歌う。ボーカルのブースには小室は来ない。1984年からそういう分業体制だった」[216]
- 木根尚登「注文は多いけど、ないときは良くも悪くも任せる人」[217]
- 久保こーじ「ミックスダウンを担当するエンジニアを選定するまではシビアにやりますけど、実作業には口を挟まないし、出来上がった音を楽しんで聞くし、信頼できると思った人には一任する」[218]
- 小室みつ子「最初にデモテープを渡されて、テーマが既に固まっている時には小室君・ディレクターと打ち合わせをします。『このタイトルで書いてくれ』という時には10分で済む場合が多いですが、『何を書くのか?』とテーマが中々決まらなくて、映画や本の話題で長く雑談する時もあります」「デモテープを聞く前と聞いた後では、レコーディングの間にどんどんアイディア・イメージが広がって、アレンジが一変します。全然違う曲になったりもします。だから私は完成版を聞くまでは作詞を始めません」「リズムが複雑なだけに、言葉の乗り具合・内容のチェックはいつもより念入りに行われます。歌詞だけを渡しても、小室君の複雑なメロディにどう乗せればいいのかわかってもらえないからです。最初に私が歌手の前で歌って、覚えてもらうのです。そして一緒に歌う事で、相手もメロディ・歌詞を理解して自分の歌い方を決めていくわけです。OKが出されたら、もうほとんど出来上がり。でも大体はオケに合わせて歌い始めてからも、細かく直したりします」[219]
- 浅倉大介「小室さんはステップ入力をやらないんですよね。全てリアルタイムでキーボードを弾いて、そのノリのまま打ち込んでいく。それで最後に変な所だけちょっと直す程度なんです。曲の縦軸がそうやって出来ていって、その裏に手で弾けないシーケンスフレーズを打ち込んだりとか、パーカッションを打ち込んだりする。1コーラス目と2コーラス目が全然違うフレーズになっていたりするんですよ」[220]
- 葛城哲哉「最初のアイディアの提示・奏法の注文・最後の決定はやっぱり小室さんの判断だよね。でも、小室さんが弾かない日でも彼はスタジオに来るからその段階で色々話す。だから、自分が弾く段階になって改めて細かい注文が新しく出ることは無かったかな。元々ギターに詳しい人だから。曲によって違うけどね」[221]
- 松尾和博「付き合いは長いのに、TKと長く話したことがない」[222]「大量の依頼が来て、曲を量産しなくてはいけない。『朝までにギターを入れて』というインスペクターでも対応できない状況に、たまたま『24時間365日なんでもやります!』という僕がいた」「決まった時間に作業することはなく『締め切りはこの辺だからそれまでにやっておいて』とベーシックトラックを渡されるので、それまでに済ませるのを次から次へと繰り返しました。スタジオセッションのように皆が集まることはなかったので途中で行き詰ったらすぐに一旦休止もできた。1曲に2日かけても、締め切りに間に合えば大丈夫だった」「96chのソリッド・ステート・ロジックのミキシング・コンソールの片方の48chを僕専用のブースとして自由に使わせてもらえた」「具体的な注文はなく『ギターを入れて』だけだった。フレーズ面だけでなくサウンド選びもものすごく自由で、僕の判断で勝手にアレンジしたけどNGはなかった。強いて言えば『テイクこれだけしかないの?』と言われたことはあった」「レコーディング中は聞いている時間が一番長い。リピートを何回もして、足りない所はないか余白を探す。『どんなフレーズを入れるか』というアレンジャー的な考え方ではなくて、その他全体の楽器を聞いて、『ギターの質感を当てるか避けるか』が大事だった。パート別にやっているから、逆に頭から通して弾けなかった」[223]
- YU-KI「TRFはデビュー曲から、ずっと私の歌声にキーを合わせた曲がなかったんです。あまり聞かない例だと思います。小室さんから直接の指示は一切なくて、デモテープに入っていた仮歌のキーに私が合わせて歌っていたんです。私のキーは高くなくて、むしろ低音が得意。『寒い夜だから…』もそうですが、ずっと中高音域というメロディがTRFには多くて、歌うのにかなり努力しました。しかし、それが『小室マジック』でした。完成版を聴くと自分のいい声の成分が出ている。レコーディング中は『小室さんはドSだな』と思うのですが……(笑)。最後には『さすが!』と思わされるんです」[224]
- DJ KOO「スタジオが同時進行で3~4つは当たり前に動いていて、小室さんはその間に打合せも幾つもやっていました。1週間に10作品とかを並行してやっていて、trfだけみても絶えずリリースがあって、それをライブツアーをやりながらやっていたので、僕とYU-KIは常にスタジオに入っていました。そこに小室さんから楽曲・仮歌・歌詞が次々と届いて、それをどんどんレコーディングしていくという日々でした。できあがるものに対して、小室さんがNGを出したことはなかったです。忙しかったからかもしれないですけど、ダメ出しは覚えている限りはなかったです」[225]
- 浜田雅功「俺が仮歌を入れる予定の日に、彼は夜7時から夜中の2時までスタジオから出てこなくて、ずっと待ちの状態が続いていたんですよ。たまに出てきたら、頭ぐしゃぐしゃで、小汚い格好でカレーライスとコーヒーを口にした後『間に合わない』と言いながらスタジオに戻っていった。あの体力はすごい!」[226]
- 安室奈美恵「小室さんの仮歌って、ラップと歌メロの中間みたいなのが多いんですよ(笑)。いろんな解釈ができるので、曲に慣れて自分のものにするまでが大変でした」[227]
- 華原朋美「小室さんのスケジュールが過密なため、いつ連絡が入るかわからなくて、電話で『今すぐスタジオに来て欲しい』と呼ばれることもあります。『I BELIEVE』『I'm proud』の時がそうでした。だからレコーディングが始まると本当に24時間体制です。それ位曲には命をかけてます」[228]「1度オケに合わせて、私が仮歌を歌う。そうすると歌の雰囲気によって、小室さんには全く別のアイディアが湧いて、サウンドが変わったりするんです。だから一瞬たりとも見逃せなくて、トイレにも行けないですね」[229]
- 前田たかひろ「小室さんから『スタジオに来てほしい』と言われて行ってみると、すぐに作らないとリリースが間に合わないという状況。ところが、まだドラム・ベース等のリズムを打ち込んでいる段階。それを聞かせて『何か出来た?』と聞いてくるわけです。メロディを打ち込むのと同時進行で、詞を作ったこともありました」[230]
- tohko「自分で仮歌をデモテープに入れて下さるので、その通りに歌えばいいんです」[231]
- 鈴木亜美「ジャケット写真を撮り終わった後、『違う』と言ってすぐに曲を0から書き直していました。スタッフは『よくある事』と言っていました」[232]
素材のデータ転送がスムーズになって、テレビ電話で海外のスタジオのスタッフと話せるようになっても、小室は正式なレコーディングは現地に行きスタッフと直に対話しながら行うことを念頭に置いていた。目標としては大衆を狙って活動しているけど、仕事中では仲のいいプロデューサー・ミュージシャンをすぐに直接楽しませるために作っている。小室は「特にアメリカ・ロサンゼルス出身のエンジニアが隣にいると身が引き締まり、その人が『COOL!』と言ってくれないと終わらない気がする」と語っている[105]。
素材を高音質に記録することを目標にして、PCM-3348・オープンリールが主流の時代でも24bit/96kHzから48kHzで録音し、ボーカル・コーラス・声等の人間の生の声を使うパートはハードディスクドライブに別に記録していた。マスタリングの際に確認できた小さなブレス音等がCDとして納品されたときに、聞こえなくなってしまうことが多々あった[47][233]。2000年に記録媒体を完全にハードディスクドライブに移行した際はPro ToolsからDream ADA-8を通してAWS 900でミキシングを行い、MERGING Pyramixに24bit/192kHzで録音することが基本の流れになった[234][36]。理想は「大元の素材は384kHzで持っておいてもいいのではないか。下のサンプリングレートから上げることは不可能だから」「携帯電話で聴いても、潰れたり埋もれたりしない音像」[137]を目指している[注釈 26]。
注釈
- ^ 特に一職業としての音楽プロデューサーに対する思い入れは強く、「プロデューサーという言葉を浸透させたのは僕で間違いないですね。『全体を統率する者がいないと駄目なんだ』ということを業界に一応認知させることができたかなと思います」と話している[57]。
- ^ 小室にとってのイントロは「自分の音楽の趣味や実験を集約させる場」「カラオケ等で女の子が会話するための場」という意味を持たせている。MARCも「自分のパートでは歌うやつがいなくてもいい」と割り切っている[58]。
- ^ 一つに「冒頭から最高音」もう一つは「比較的低い音から始めて最高音へ徐々に上げていく」流れがある[60]。ハイトーンのボーカルには赤ちゃんの泣き声を意識している。基本的には「本能的に声を絞り出して」「喉から声を出さないで」「赤ちゃんは本当に心から泣きたいからファルセットを使わないで」「高いキーで泣くように」歌うように指示し、「そばに来て・助けて」というような欲求を訴える雰囲気を出すようにしている[61]。
- ^ 「下手すると10曲中9曲は使っている。僕にとっては循環コードとしてよく使っている基本コード。外国のヒット曲の中には、マドンナ・カルチャー・クラブ等このパターンを上手く使った楽曲が沢山ある」と語っている[77]。
- ^ 「僕の一連のヒット曲の王道パターンの一つであり、自分のオリジナリティやメロディを振り返るときには外せない」[82]「『この4つで何百曲も作れる』と豪語できる」[83]と強い思い入れを語っている。
- ^ 甲斐よしひろは「吉田拓郎、さらにいうとボブ・ディランが多用するパターン」と評している[84]。
- ^ 「僕はこれでメジャーレーベルと契約できて、メジャーデビューできた」と語っている[88]。
- ^ 「『sus4だけじゃだめだ。add6やadd9もメロディやリフに入れていこう』と思い立った時に出会った。これで何曲書けたか数えられないくらい」と語っている[88]。
- ^ 「美里さんの詞の世界を参考に、『いろんな角度から見る一つのテーマがあったとしたら、自身の視点から同じテーマを書くとこうなる』というアプローチ的手法で作詞していた」[98]「渡辺さんの影響でドア・イノセント・ジェントル・少年・少女をテーマにするようになった」[86]と語る。
- ^ 「彼は仕事柄、女性の台詞も書く。だから作詞においても、男性が女性に成り済まして書いたようなわざとらしさが全くない。『自分に脚本家の真似はできないが、自分なりの書き方を探さなければ』と思った」[99]と語る。
- ^ 「山下さんみたいに流行語を使わない、10〜20年後でも何かに当て嵌めようとすれば誰でも主人公になれるような、あまり時代に寄り添い過ぎない普遍的なワードしか使わない」と語る[100][101]。
- ^ 「せめて音楽位は女の人の味方にならないといけないと感じて作った」と語る[102]。
- ^ ピーター・バラカンが指摘していた[121]。
- ^ ただし、この手法を麻生香太郎からは「小室に文句を言ったり、注進できるような人が周りにいなくなっているんです。本人は偉そうにしているわけでもないのに、周りが持ち上げてしまって、変な形の裸の王様になってしまっている。彼の英語の歌詞やタイトルを見ていると『流石におかしい』と思う部分がよく出てくる。和製英語をストレートに出す表現とか。チェックする暇も無ければ、その方面に詳しい人材もいなかった」と当時の状況を振り返っている[124]。
- ^ これに対して澤野は「耳に残らずに流れていくようなメロディも作品の演出上で情景を表すためにやっているので、何が良くて何が悪いかというものでもないのですが…。僕は小室さんの作った作品のようにメロディの残る楽曲があるサウンドトラックが好きですし、そうした作品が世に増えたらいいと思う」と語っている[39]。
- ^ ただし、久保こーじは「小室ブームの時期においては、事前にある程度時間をかけて下準備と練習を繰り返しているにも関わらず、取材陣の前では5分で楽曲を作り出したかのような素振りを見せていた部分もあり、必要以上に『天才であることを演出できているか』を心配していた」と語っている[152]。
- ^ その直後に突発的に新しいメロディ思いつくことがあるので、それが活かされつつ、楽曲全体の足枷にならないために最初からこの段階で終わらせることもある[63]。その状態をDJ KOO曰く「音数がすごく少ない。メロディも無くて、リズムとシンセがコードで入ってるくらい」と例えている[182]。
- ^ 個々のシンセサイザーでも特徴が違い、「楽曲作りに威力を発揮する機材」「アレンジで役に立つ機材」等とそのときの局面で切り替えている[183]。
- ^ 譜面はスタジオ内で共有するために手弾きでコンピューターにもインプットさせる形で行い、手書きはしない[184]。
- ^ ただし、hitomiと作業する場合は、デビュー前にhitomiに一定期間日記を付けさせた結果「どこで探してきたんだという位古い言葉を使うのが好き」[65]「思っていた以上に丁寧で、同世代の女性の代弁者になれる」[186]と見込んだため、hitomiがメモの落書きの要領で書いた歌詞に対して小室が歌詞を厳選し、音源を後付けしていく方針をとった[187]。
- ^ 小室は「本格的に意識したのは『Love Train/We love the EARTH』を制作した時から」とのこと[5]。
- ^ ただし、この発言は「久米宏さんをフィルターとした番組である「ニュースステーション」の放送時間帯での久米さん以上の年齢の視聴者の反応を考慮したフェイク」とも答えている[192][145]。
- ^ 3小節以上使うと著作権使用料が発生するため、2小節以内に抑えている。
- ^ ただし、自ら「生歌では困難」と称する程のメロディではレコーディング技術を駆使してクリアした部分がある[62]。
- ^ 特にシールドケーブルに対しては「シールドケーブルの中を音が流れるだけでも、その音の音質は劣化する。それを防ぐために1本100万円以上の最高品質のものを指定している[206]」「今までのスタジオの建築費にはどれ程無駄遣いしたか分からない[36]。しかし、シールドケーブルに関しては今でも無駄遣いだとは思わない[206]」と話している。
- ^ ただし、音声圧縮に対しても「いい音が全てではなく、無料で試聴できたり、早く聴けたりするなど圧縮にもメリットがある。確実に音質は劣化するが、圧縮=劣化=ダメということではない」と一定の理解を示している[47]。
- ^ ただし、この作業は小室が「自分で48chのスタジオを用意できたからこそできることで、外部の貸しスタジオでやろうとしたら、大変な手間になる」と語っている[65]。
- ^ それでもフロントに出ていた理由として、「プロモーションの都合上、一緒に登場しなければいけなかった自分の周囲に対するせめてもの弁解として『with t』等を付けた」[274]「ミュージシャンとしての小室哲哉を演出したかった」[275]「TMの固定ファンを取り込もうとしていた」[276]と答えている。
- ^ 「ナイル・ロジャースはマドンナの『Like a Virgin』をプロデュースしたけど、ターゲットとした市場は世界の10億人くらい。それに対し日本が1億人だとすれば、たった1割。そこで『たかだか1~2割程度なら、敢えて日本の音楽ファンにだけ向けて作らなくても、『Like a Virgin』みたいな曲を作って、日本でも世間にごり押しすれば1億人に広まるんじゃないか』と思った」と語っている[191]。
- ^ プロデュースする人全員に小室が思い描いたイメージ・キャラクターは、相手の本質とは違う勝手なイメージであったとしても0から作り上げる。一番難しいのは自らも正式メンバーとして所属する音楽ユニットで、ただ小室の主導で動かすのではなく「自分も映るんだ、僕たちは何になればいいんだ?」と悩みながら、メンバーの内面に入り込んで意向を汲んだ上でテーマや方向性等の構想を固めていき、「大衆に認知されるためにはどうするか」を考えている[135][278]。
- ^ 基準として「鼻声は駄目。声が顔のイメージと一致しない人も駄目。初対面で声が抜けて耳と五感に響けばそれで良かった」[104][273][289]「『誰からも好かれる声』ではなく『頑張ればあの人になれる、明日カラオケに行ってちょっと歌ってみようかな…という希望を持てるような、嫌われない・気持ちの良い声質』」を基準に選び[62][290]と語っている。
- ^ なお、実際には一般人の運転には危険が伴うため、製造したダイムラーは購入者の技能を調べた上で販売している。詳細は当該項を参照。
- ^ 特に後者の方法は「こんな内容で叩かれないだろうか?」というプレッシャーとストレスの解消・スランプの防止・アイディアの開発に役立ったという[286][310]。
- ^ ただし、2000年代以降はボーカルの声を事前に打ち込み、ボーカルに合わせて鍵盤で弾いてコーラスの代わりにしたことから、VOCALOIDにも一定の関心を示している[62]。
- ^ 特に3人編成には「意思疎通が密になり、それぞれのキャラクターが際立たせ、役割分担がやりやすい、一番バランスのとれた人数」[322]「音楽に規則を作って『何を排除して、何に徹するか』を事前に考えれば、メンバーに個別の個性が出て、レコード会社にもメリットのある提案ができて、いい聴こえ方の音響演出ができると思って、1983年頃から真剣に戦略として考え始めた。これはYMOの影響が大きい」[263]と称している。
- ^ 「サイトのデザインからしてすごく凝っている」と評している[148]。
- ^ 「彼らは大量のニーズがないと成り立たない規模で展開している。それに対して消費者はみんな広告塔として、ブランド名付きTシャツを着て喜んで歩いて応援している。あの関係は今の僕たちにはないですね。彼らの様な、ブランド名付きTシャツが広まるように流通する直接的な音楽を作りたい」と評している[109]。
- ^ この照明の演出を見た渡辺美里は「私も同じような演出をやりたい」と直接スタッフに申し入れた程気に入った[284]。
- ^ 小室は「文字や画像なんて、今(1996年当時)のホームページの環境でもフォローできる。CDのプレス・ジャケットの印刷・パッケージ化が終わった後でも、幾らでも新しい情報を盛り込み、提供することができるようになるため『手遅れ』という発想自体が無くなる」と語っている[105]。
- ^ 「P3」は「Pops」「Power」「Passion」という意味を込めている。
- ^ 「でも、このギリギリで必死で切羽詰まった感じは1990年代は通じたけど、今の時代にそぐわないかもしれない」とも答えている[364][205]。
出典
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- 1 小室哲哉の使用機材とは
- 2 小室哲哉の使用機材の概要
- 3 ミュージシャンとしての姿勢
- 4 メディア上の戦略的演出
- 5 脚注
- 小室哲哉の使用機材のページへのリンク