小室哲哉の使用機材 メディア上の戦略的演出

小室哲哉の使用機材

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 06:24 UTC 版)

メディア上の戦略的演出

音楽プロデューサー

契機

小学校の頃から、学芸会・運動会・卒業謝恩会のイベントになると、学級委員として張り切って先頭に立っていた。小学4年生の時の学芸会で前半に笛の演奏会を行い、後半に三億円事件をモチーフにした演劇を開催するというプログラムを決めた後に草案を提出した。3歳から12歳までヴァイオリンを習っていたのを活かし、笛の演奏に関しては各パートのアレンジも手がけた。普段から勉強ができるいい子になり、先生・学校を「お金を出してくれたり、場所・環境を与えてくれるスポンサー・クライアント」として見ていて、先生を仲間に入れることはもちろん、クラスメイトにも気を使って引き込むようにしていた。ただし、中学では小室と同格の生徒・小室を快く思わなかった生徒もいたことにショックを受け、普段の学校の授業には人並み以上に参加し、コミュニケーション技法・音楽の練習を0からやり直した。この頃から既に「終始自分だけで楽しむ」という気持ちは毛頭無く、それがプロデューサーとしての立ち振る舞いの原点となった[250][273]

高校生の頃から本格的に音楽プロデューサーになることを志し、その立場と役回りに拘った。「外部からプロデューサーとして推薦されたら、アーティストより偉いから速く物事が進む。例えばヨーロッパで『小室というプロデューサーがいるだろう』となったら、『あいつに相談したら窓口とつながりがあるから、レコード会社を紹介してくれるぞ』と様々な話が出てくる。これが『キーボーディストで小室がいるよ』となったら、そこで終わってしまって後に続いていかないんです」[65]「中学生の時から聞いていた洋楽にはプロデューサーの名前がメンバーよりでかく載っていて、インタビューでも『プロデューサーを選ぶところからレコーディングが始まった』『今度はこのプロデューサーでやろう』『プロデューサーと喧嘩してレコードを没にした』等、かなり立場が高かったことが窺えた。無理してフロントに出なくても存在感が確保され、上手くいけば必然的にオファーが来るポジションを目指したい」[65][注釈 28]「ミュージシャンはエゴが強いから、喧嘩にならずにバンドとして統一するためにまとめ役が必要」「自分の思いを伝えるには、自分で演奏して歌うのが一番シンプルだから。でも、そういうシンガーソングライターみたいな事はできないと自覚していたから触媒・フィルター役で音楽に関わっていきたい」「『この人と組んだらこういう音になる』というのを研究しているアーティストから選出され、世に送られて、ステータスが上昇する。そこから、楽曲を自分の好きな音楽の方向に持っていって、まとめていく。そういう洋楽案内人みたいな立場になれればいいなと思っていた」[199]と考えていた。

音楽プロデューサーとしての仕事の進め方の点で、影響を受けたのがクインシー・ジョーンズベイビーフェイスナイル・ロジャース[注釈 29]等ターゲットを絞らなくても大勢に広まる宣伝戦略・ブラックミュージック専門の黒人音楽プロデューサーの手腕に一気に魅せられた事だった[191]

本格的に制作進行・予算管理等の裏方に徹し始めたのが1992年からで「自分が表に出てツアーや取材に時間をとられるのが嫌でその時間を裏方仕事に使えば音楽業界のどれだけお役に立てられるか」を考えていた[57]。TMNが活動終了を発表した1994年当時は以後の派手な活動とは裏腹に、ステージから降りて完全に裏方に徹する予定だった。そのため「一連の大ヒットは僕にとっても予想外の出来事だった」「僕の口から『TKサウンド』と言ったことは一度もないのに『TKサウンド』だけで独立してしまったために、人伝えではないために良くも悪くもないそのままの言葉が伝わるから、自分の発言に責任を持てて『こんなことは言っていない』という意思表示になるホームページの必要性を迫られた」と語っている[277][146]

姿勢

プロデューサーとしての方針として、「こういうことのために、こういう仕事をして、形にしてほしい」というビジョンの明確な依頼を外部から受け、飽くまでも1スタッフとして関わる形で成り立たせている。例として「CDを○万枚売ってほしい」という依頼がきたら、極力それに向かって進み、「アーティストを育てたい」と言われた時には、人選して、マネージャータレント・エージェントとして素材であるアーティストをあくまでもスポンサーから提示された予算・スケジュール内で、音色作り・作詞・作曲・演奏・ボーカルのレコーディングに時間をかけて[135]、「服装やメイクや髪型といったビジュアルはどうするか・どんなダンスを踊るのか・どんな言動をしていくのか」の順番をコントロールして[注釈 30]、リスナーがお金を出そうと思えて、カラオケで唄い、アーティストに憧れるまでのクオリティにするまで面倒をみるのをプロデューサーとしての基本フォーマットにしている[57][279]

プロデューサーとして一番恐怖心を抱くのが、他方面・他国で大ヒットが来ることであり「自分達がやっていることが本当に大丈夫なのか」と不安になる。そのため、自分の仕事と世界の音楽の流行の膨大な音色の種類・アーティストの動向を1フレーズ単位で調べている。転機になったのが「SF Rock Station」のレギュラーを担当することで、今まで以上に新譜が聴けれる機会が増えて、メンバー・スタッフにもプロデューサーとして自信をもって強気で「今の所は大丈夫だから、これでいけるよ」と言えるようになった。逆に一番「プロデューサー冥利に尽きる」と嬉しく思うのは、自分達が新しいことをやっていたら、それに近いものが他方面・他国からも出てきて「同じことを考えているんだな、タイムリーだから大丈夫だ!」というノリで行けるという[27]

「主役はスターではなく、飽くまでも聴く側」「自分から名乗っても『誰、それ?』と言われる感覚を如何なるときも忘れないようにする」という意向から、素材集めのための流行の音楽の調査・クレームへの対応・ファンとの交流とリサーチは欠かさない。アーティスト・スポンサーと食事をしながらプライベートな話をしつつ、形を作って行く。地方でのコンサートが終わった後の夜のクラブハウスに一定の間を空けた事前の予告無しで出入りし、ラフな格好でファンとも普通に話す。新聞・雑誌のチェックは隅の細かい記事まで読む。対象は主に新聞では読売新聞日本経済新聞日刊スポーツサンケイスポーツ[104]、雑誌はホットドッグ・プレスPOPEYE週刊プレイボーイ等男性向けファッション雑誌・流通系の雑誌を中心にしている。女性向けファッション雑誌は「メーカーとのタイアップが多くて参考にならない」と敢えて手を出さず、直接女性ファンと交流するときにどのような様子なのかを事細かく観察している。ギガネットワークスエクシング等の大手通信カラオケ会社から歌唱曲ランキング等細かいデータを送ってもらっている[280][196][281][282]。ロサンゼルスを拠点に活動していた時には、麻生香太郎を介して大量の雑誌等を送ってもらい、日本のマーケット事情を調べていた[283]。プライベートでも「スマートフォンのアプリだけで作曲しているアマチュア・若手が出ている」と聞けば、全く新しいタイプの楽曲が生まれる可能性を見いだし、話題の制作アプリにも自分から確かめ、ニュースを読むときは音楽欄・経済欄ではなく真っ先にIT欄を読む等、技術の進歩の情報収集も積極的に行っている[284]

特に業界人からは「アイドル評論家」と言われる程にアイドルに詳しい。「普通の女の子がどうしてビッグスターになれるのか」とプロデューサーとして興味を持ち[285]、常日頃から「自分が管理できる、時代を象徴するアイドル」という企画を機会があったらやりたいと思っていて、ある人から「小室は自分で究極のアイドルを作りたいのか!」と問われた際、「当たっているじゃん!」と喜んだという[286]。日頃からアイドルは「大衆芸術の一つ」「社会や時代を映す鏡であり、どれだけクリアに映すかで存在の大きさが決まる」「日本には必要不可欠です。良い意味で玩具業界のようなエンターテイメントだと思うから。無くなってしまったらつまらないし、寂しい」「僕達はテレビに出ても隅っこでいい。アイドルの人達が真ん中に座って欲しいんです。ミュージシャンは隅で白けているのが逆に絵になる。アイドルが隅に座って寂しそうじゃ絵にならない」と捉えつつ期待している。そのアイドルに自己投影するファンが楽曲提供する過程や結果で見えるため、アイドルに楽曲提供する時のポイントは事前に『アイドルが誰を相手にしているのか?』『アイドルの鏡に映るのはどんな人たちなのか?』『アイドルは今どんな時期にいるのか?初動期なのか?成長期なのか?安定期なのか?』等立ち位置と時代性を加味しつつ、声質・声域を調べていく。個人としての好みのアイドルとして、「僕の用意した曲に乗ってくれて、『このパートはキーボードにするか?ギターにするか?』と尋ねたときにハッキリと答えられて、結果に責任を持てるアイドル」と答えている[287][136]。相性としては友情を深めないと心を開いてくれない男性より、割り切りのいい女性との仕事を「やりやすい」と好んでいる。それに対して小室は、「その際に音楽に対しては『後は好きにやってください』という開き直りができる」「歌が終わって、次は俳優への道を選んだら、僕のことを忘れてその監督に身を任せると思う」と話している[288]

オーディションに審査員として関わる場合はトレーニングでどうにかなる歌唱力より、変えようのない声質・倍音の構成を重視して選んでいた[注釈 31]。それが逆にインパクトのある楽曲を生み出すきっかけになった[289]

総合的な予算は広告費の原価・広告代理店の手数料を合算した上で幾らかかるかをはっきりさせて、貸しスタジオの料金からどれを日割りにするかを明らかにしながら予算が組み立つようにしている[104]。シングル1枚に対しての総製作費は最高でも500万円であり[291]、たとえ低予算だったとしても、手間や時間がかかっているように見える「高級感」が出るように演出する。しかし、時々小室が1部分に対して締め切りに間に合わせるために見切りを付けるように指示しても拘るスタッフもいて、予算を超過することもありその交渉も慎重に行った[292]

1980年代後半より、ライブツアーの際にスポンサーが手配した宿泊先で自腹で追加料金を支払い、スイートルームを使うようになる[293]。全盛期には複数台の高級車とレコーディングシタジオを併設した別荘を所有していた。大のフェラーリファンとしても有名で、色違いのフェラーリを複数台所有している。過去にはプライベートでF1観戦に訪れ、フェラーリチームのピットでレースを観戦する姿も何度となく目撃されている。また、メルセデスベンツ・CLK-GTRも所有していたが、並行輸入で購入していたものであったため乗ることができず、飾り物にしていたとのことである[注釈 32]カリフォルニア州に6億3千万円の住宅・オアフ島に1億2千万円の住宅・バリ島には2億円の住宅を建てていた。アーティスト・スタッフへの労いとして、関係者を引き連れて自家用ジェットでラスベガスに行き、カジノの軍資金も全額負担した。TRFのメンバーとクリスマスパーティを行った際、メンバー一人ひとりに現金1千万円をプレゼントし、YU-KIにはさらに「誕生日プレゼント・御苦労さん代」と称して1千万円以上もするベンツをプレゼントした[294][295]。ヨーロッパで活動を行っている時に電車で移動する際には車両ごと予約していた[296]。これはステータスの誇示のためだけではなく、所属事務所に在籍しているスタッフ・ミュージシャンへのギャランティと仕事の関係者との打ち合わせの場所・時間を確保するためでもあった[297][293]。この姿勢に松浦勝人は難色を示し、なんとかエコノミークラスで行ってもらうためにファーストクラスのない航空会社を斡旋した。しかしエイベックスが大きくなるにつれ、小室の希望する移動手段に合わせると宣伝戦略に工夫を凝らすことを忘れかけるという弊害が出た[298]

自身のポリシーとして、

  • 「『今○○がブームだから、○○の音にしましょう』と言われても、『借り物という企画意図が見透かされてしまう』と断り、筋の通った一本道を作って、『音楽ができる人』として自立の道を開けるようにしている」[135]
  • 「僕みたいな仕事になると音楽を趣味で聴くことはないんですよ。99%仕事。レコード聴いて感動しているだけじゃだめで、その中の色んな要素を分解・追及して、一番の元となる部分を探さなければならない。そうやって突き詰めた所から僕の音楽が生まれてくる」[299]
  • 「まず最初に企画書があって、たくさんの人から提供された情報から一番企画に合う人を絞り込んでいく」[300]
  • 「ファンが真似しやすいもの、サウンドは今日完成したら明日すぐお店に出せる品質、カラオケに通うファンに対してお酒・おつまみ・おやつが似合うものを皆に作らなければいけない」[301]
  • 「完成形が見えない限り、行動には移さない。『この服を着て、こんなトークをするキャラクターで、誰に人気が出るのか』という絵が見えて初めて取り掛かる。それが自分の中でぼやけていては、他人にも指示が出せない」[302]
  • 「今や1つの楽曲にレコード会社、CM・ドラマの制作会社、広告代理店、クライアント、音楽出版等ものすごく大勢の人間が関わっています。僕の場合、そういう人達全員を納得させることを考えながら作るんですね。『それはピュアな作り方じゃない』と言われるかもしれないけど、僕はそういった具体的な枠が見えてこないと曲のイメージが浮かんでこないんですよ。だから、いわゆる芸術家肌ではないと思います」[59]
  • 「一番肝心なのは、僕・スポンサー・アーティストの中ではっきりと共通の目標や目的が意思統一されていることであり、『何が何だか分からないけど、一生懸命頑張ろうよ』というのはだめ」[303]
  • 「プロデュースする人が悪く言われないように配慮する」[196]
  • 「『クリエイティブな作品』であるかどうかは、『如何に新しく、新鮮であるか』で決まります。みんなが『これ知ってるよ』『見たことあるよ』『簡単なもの』というものと全くの正反対であること。『こんなの思いつかなかった』『誰もやってない』『始めてみる』と思われるものです。ただ、僕の場合は受け取る人からそこまで離れすぎてはいけなくて、受け手がほんの1,2歩踏み込めばできる・後1,2日経てばわかる範囲になるように考えていますそれが結果として『わかりやすいもの』になるかもしれません」[304]
  • 「アーティスティックで難解な作品を作るのではなく、アンディ・ウォーホルみたいに何十万人もの老若男女に受け入れられるコピーを作るのが僕の役目」[111][9]
  • 「基準はキャパシティの広い子。歌以外の別の何かができないと、活動の展開が進んでいる時に突然止まってしまう」[288]
  • 「新人をプロデュースする時、必ずしもボイストレーニングから始めるのではなく、ダンサーと踊る経験からさせる場合もあるし、一緒に洋服を買いに行くことから始める場合もある。相手毎に順番の整理の仕方を変えることで結果が全然違ってくる。ギターのエフェクターをつなぐ順番を決めるのと同じ感覚」[269]
  • 「最終的にはアーティスト達が僕をいらなくなっちゃう位に活躍してくれたらいい。そうすれば僕もずっとスタジオで自分の本当に好きなことができる」[61]
  • 「やり方は『大改造!!劇的ビフォーアフター』と似ています」[57]
  • 「売れなくても売れ過ぎるのもだめなんです。『小室さんの予測通りです!』でないと。いくら成功しても、また次にオファーが来た時に困るし、僕もプロデューサーとしての信頼が得られない」[57]
  • 「『始まりがあって、観客の心が揺れ、高揚感を覚え、静寂に戻って終わる』というストーリーのある観客の反応ありきの音楽作り」[305]
  • 古典派音楽の時代に活躍したオペラの宮廷楽長と立場は変わらない。自分で曲を書き、劇場で観客を楽しませ、王様にも喜んでもらい、次の仕事をもらわなければいけない」[263][306]

と答えている。

他の芸能人と比べ個人レーベル・個人企業・個人スタジオを設立した数が比較的多い。小室曰く「今日思いついたアイディアを明日実践する機動力を持って面白いことをするため」「必ず結果を出す前提で一から十まで好き勝手やりたい放題行うための責任表明」とのこと[307]。しかし、後に「僕は事業運営に向いていなかった」と親交のあるテリー伊藤に述懐していた[308]

制作プロセス

シングルをプロデュースする際は、1曲目がオリジナルで2曲目・あるいはアナログ盤にオリジナルのリミックスバージョンを入れるのが基本構成である。クラブ等通常のかける場所とは違うシーンでかかることを想定しながらリミックスバージョンを作り、最新の音色・メロディ・アレンジに対する反応を確かめて、反応がいいときはすぐに次のデモテープに活かす[252][69]。リミックスバージョンを制作する際には「どの楽器を前面に出すか」「どれだけ踊れるような構成にするか」という気持ち良さを重視し[286]、そのためにジャングルの制作ノウハウを踏襲している[139]

アルバム制作に発展させたい場合には、基本構成は1990年代までは通しで聴くことを前提に、1曲目と最後の曲目に注意を払うようにしていたが、2000年代以降はインターネットで試聴する1曲で印象が決まってしまうので、その1曲毎に芸術として勝負できるように心がけている[309]。制作方法はシングル用の楽曲制作の時点でコンセプトを煮詰めた後に時間をかけるか、プライベートで商業上の制約を一旦抜きにして好き勝手に曲を作りそれを商業向けに手直しするかのどちらかを選ぶ[注釈 33]。後者の一例としてTM「Self Control[27]RHYTHM RED[311]・trf「trf 〜THIS IS THE TRUTH〜[252]・globe「globe[312]Love again[313]・ソロ「Digitalian is eating breakfast[42]が挙げられる。

コンセプト・キャッチコピー等の全体的なマーケティング戦略を考える期間はある程度の売上目標を予想しつつも、締め切りギリギリまで「クオリティの高い・自分でも格好良い」と思える楽曲を作れるレコーディングに時間を回し、締め切り前の最後の1か月から2週間で考えていく[43]

久保こーじと2人で関わる場合は様々で、trf・安室は2人で音色作りの段階から最終的なアレンジまで関わり、globe・華原は小室のみで進めていき、hitomiは久保主導で行い、アーティストの選定は小室中心で進行していく等、ケースバイケースで立ち会う[314][315]。はっきりとしたサビ・大まかなメロディとコード進行等の60%を小室が作り上げ、イントロ・編曲・マスタリング等残りの40%をテーマ・イメージ等をまとめた企画書を渡した上で久保率いるロックバンドNo! Galersがアレンジをまとめ上げて、完全パッケージメディアに仕上げるための海外のエンジニア達を管理する作業を一手に担う[316][317][5]

宣伝戦略

レコーディングと同じ程に宣伝を大事にしている。「a-haのように楽曲の内容を最初に知って、そこからどういうアーティストなのか」と思われるとその後が続くかどうか心配になるため、「チャーリー・セクストンみたいに楽曲より先にアーティストそのものを宣伝して、キャラクター性を知ってもらう」ことを優先している[318]。TMの「Love Train/We love the EARTH」からアーティストのプロモーションとして、カラオケのビデオに歌っている本人達を登場させることを幾度と提案していたが、当時のソニー・ミュージックエンタテインメントの内規・肖像権の問題で通らなかった。TMの宣伝会議に出ても「何故アーティストが来ているんですか?」と直接迷惑そうな言い方をされ、小室も「何故この辺の問題が、演歌界ではスムーズにことが進むのかがおかしかった」と語っている。逆にプロデューサーとして出ると言いたい事を全て言えて、アーティスト・現場スタッフとしての視点で話せて説得力も持った。篠原の「恋しさと せつなさと 心強さと」で本人出演の許可を得たことで、「交渉過程のゴタゴタで、霧が晴れた感じがした」と語っている[104]

テレビCM・主題歌等のタイアップでは、特にテレビCMに関して「CM・ドラマで流れる15秒~1分の制限の中で引きつけねばならない。でもCDを買ったら『そこしかインパクトがなかった』というのではいけないので、手法としては『1つの波を作り、その中から一部をタイアップ用に分ける』という考え方です」[59]「15~30秒ながら、MTV並みの完成度を持つ映像を作るわけですから、僕がCMのタイアップに関わるのは既に一種のコラボレーションだと考えているんですよ。社内会議の投票で他:7・僕:3だともう僕の入る余地は無いから席を立ちます。スポンサーにはそういう制作現場の重みを理解したうえで、数々のミュージシャンの中から僕を価値を見出して欲しい」[105]と特別視している。

バンドリーダー

楽曲提供や音楽プロデュースと並行して、TM NETWORKglobeGABALLなどの音楽ユニットのリーダーとしても活動する。ユニットの一員としての活動はレコード会社のディレクターや芸能事務所に任せるのではなく、飽くまでもメンバーによる提案・主導で行い、マネジメントスタッフもそれを可能にできるほどの柔軟性のあるスタッフが配置された[319]。ライブ活動にもプロデューサーとして一歩引いた目線で指揮するより、ミュージシャン・舞台監督として現場で直接指揮しながらメンバーとして参加する。それは自分を含むメンバーの顔を覚えやすくし、一定の印税が確保され、所属事務所の経費・交通費・宿泊代・公演活動に割くスケジュールの削減にもなった。他に所属している人数の多いバンドにかかる固定給との差額はレコーディング費用・衣装代に回している[320][321][65]

それ故に他の芸能人と比べ個人レーベル・個人企業・個人スタジオを設立した数が比較的多い。小室曰く「今日思いついたアイディアを明日実践する機動力を持って面白いことをするため」「必ず結果を出す前提で一から十まで好き勝手やりたい放題行うための責任表明」とのこと[307]。しかし、後に「僕は事業運営に向いていなかった」と親交のあるテリー伊藤に述懐していた[308]

「シンセサイザー・シーケンサーが発達すれば、演奏はやがてコンピューターの役割になる。しかし、曲作りとボーカルは人間の役割だ。だったらフロントマンは作家とボーカリストで事足りる」という発想から[注釈 34]、5,6人の大所帯のバンドより少人数の音楽ユニットを志向している[注釈 35][320]

より高い演奏レベルを求め、どんなジャンルやビートにも対応できるようにドラマーベーシスト等起用するその生楽器を専門とするスタジオ・ミュージシャンバックバンドを楽曲・プロジェクト毎に変えるようにしている[320]。基準は「そのとき一番上手な人」であり、それは固定メンバーの腕・成長具合で起こるトラブルを未然に防ぎ、企画に関わる人数が多くなったときの金銭的なリスクを回避した[65][323]

小室は「TM NETWORKの活動の延長線上であり、突き詰めると僕の関わる企画の全てがTM NETWORKでの試みが原点である」[324]「どのユニットも、必要なアーティストやスタッフを集めて、自分のやりたいアイディアを形にするのが共通点」[325]「僕がメンバーになることで、歌詞・サウンド・メンバーのキャラクターがストレートで生々しくて、色濃くなります」[326]「プロデューサーからミュージシャンに戻れる場所」[327]「音楽ユニット自体がプロジェクト・イベント・新しいサウンドの実験室であり、活動第1弾としてシングルを出し、それをコンセプトにしたアルバムを制作した後、最終的にはアルバムをテーマにしたコンサートを行うのを早めに展開して、『このプロジェクトはここまでで終了』と区切るのが基本である。こうしないと、僕も他のメンバーも今後どう進んだらいいのか困ってしまう」[328][329][330]と語っている。

美術設定への関与

TMデビュー前から「本物の音と派手なビジュアルは反比例しない。イギリスでは音もビジュアルも格好いいバンドがどんどん出てくるのに、何故日本では未だにTシャツとジーンズなのか」という思いから[331]、ビジュアル面でもコーディネートを欠かさず、規模の大小にかかわらずライブ・インタビュー前にはメイクをスタイリスト付きで入念に施し[332][152]、雑誌に乗せる写真も厳選する。写っている表情も隅までチェックし、「ナチュラル」「自然体」と評されそうな写真は極端なまでに避け[333]、「自分をどう見せるか」を常に意識している[152]

「男子・女子の両方に共感を得て、安定感はありつつ、化ける可能性があり、数年後も負けないマーケット」を作るために、CD・PVのジャケットデザイン・書体・英語の大文字と小文字・タイトルの入れ方・色調にまで細心の注意を払っている。特に女性アーティストをプロデュースする際の基本方針として、まず「女の子が『あの人かっこいい、あの人みたいになりたい』という願望を抱くような女性像を作る」と心がけ、女性の「個性の強い、葛藤と揺らぎを抱えながらもラインに対して反抗する女の子らしさ」は出しても女性の「コンプレックスを感じさせるセクシーな部分」は出さないために、肌を強調する映像の撮影をする際はモノクロを基調にし、身体の露出にセクシーさを感じさせないようにしている。そのときのブランドを把握し、「どんな楽曲を提供するか」より先にまず「どんなファッションが提供先のキービジュアルになれるのか」と周囲と区分けできるように考えることもあり、極力コンサバファッションはしないように固めている[275][179][58]

アルバムジャケットのイメージの参考にするために、「エリート・モデル・マネジメント」「ブルーミングデールズ」「バーニーズ・ニューヨーク[注釈 36]カルバン・クライン」「GAP[注釈 37]等アメリカのファッション関係のホームページを回っている[148]

アーティストの素材撮影のカメラマンはレコード会社の人材ではなく、アーティストの違ったセールスポイントを引き出すために広告代理店の人材を起用している。印刷される紙の材質を調べながら選んで、どんな機材で撮影して狙った通りの質感を出すかを一緒に練り上げていく[292]

舞台演出への関与

スタジオミュージシャン時代にYMOのライブに行った際に「数々の高級な機材を積み上げて、その中央に毅然と佇む」メンバーの魅せ方に憧れ、小室も「全ての会場にレーザーサラウンドシステムを搭載するのは当たり前で、会場では気球が飛び、地方への移動には広告宣伝車が10台以上連ねる」のを理想としながらも「自分にはできない、ならいっそのことやらないことに決める方が格好良い」と諦めていた[334][335]。しかし、エピックのスタッフから「ヒット曲が出たら、小室君のやりたいライブをやらせてあげるよ」と言われて奮起し、CDのセールス枚数を考慮しつつ[336]ライヴステージの設計・演出にも、積極的に情報を集めて指示を出すようになる。

1980年代はステージの進行は秒刻みでコントロールされ、「ステージ上で振動が起こる時点で物語が始まっているのに、波にノってきた所で急に非現実から現実に戻されるのが自分はいやだ」という思いからMCは極力排除し[257]、アンコールも行わなかった[332]。サウンド面では体育館等元々設計がコンサート向けではない会場で行う場合は1枚5万円はする吸音材を最低100枚床に貼り込み、照明を組み込んだ総重量6t以上のスピーカーを音質を考慮し前と後ろに置き、さらに宙吊りにする[280][185]。音楽だけでなく視覚面でも感動してもらうために、音楽と舞台に用意された大量のバリライト等の照明・スクリーンに映る映像のシンクロの具合・照明の光量にも注意を払い、音のタイミング優先で同時制御し、演奏の途中でボーカルの人差し指の先にステージの全照明を集める[注釈 38]等、360度光と音が飛び交い、それを体感できるように演出した[332][194][185]。この時点でステージエンジニアと舞台演出のための機材は、音色作りのスタッフより多く[284]、視覚面はアーティストのキャラクターやパフォーマンスより、照明やスクリーンを重視したライブ演出を志向するようになった[337]。ライブツアーは開催地・規模で予算が決まるため、照明器具にかける予算が限られている場合は、小室が自腹を切った[338]

1990年代以降は、楽曲の間奏中はダンサーとDJにスポットライトが当たるように小室が照明スタッフ・カメラマンに指示したことにより、ステージの奥行きを出し、画のバリエーションを増やした[339]。ライブ会場にはテレビスタジオ5軒分の機材を持ち込み、事前に用意された100以上の演出映像ソースの他、10台のカメラによるライブで取り込んだ映像は、即高速計算されてリアルタイムCGとなってスクリーンに映し出される。コンサートが行われる時間はテレビの特番サイズを意識し、場面転換は15秒のCMを流し、演奏時の映像はメンバーのパフォーマンスの拡大映像だけでなく、メンバー出演の収録映像も事前に用意する等、テレビ放送局の送出技術を応用するようになる[113]ドーム規模の会場でライブを行う際には、ドームでの公演専用の音響機材の開発を指揮し、「ドームでの公演は音が悪い」という風評を払拭した[340]。キーボードの脇にディスプレイを置き、色んな角度から映るステージ中央部分を見ながら、イヤーモニターを使ってメンバーとサポートミュージシャンにどのように動くか指示を出す・ミスの修正・今後の演出の強化に役立てる等、「舞台に立つメンバーを格好良く見せる」「ステージを豪華にする」「閃きを早く実行する」ために駆使する[341][179]等の舞台演出に採算度外視で挑んでいる[342]

「テープよりも、楽器から直接出る音でレコードを再現したい」「シンクボックスで動かしているE-mu Drumulatorの音だけをドラマーに送って、ヘッドホンでモニターしたい。クリック音だと周囲の音量にかき消される」「テクノロジーの最先端をライブで使いたい」「ディスコの規則正しいリズムに慣れちゃっているから、その方が気持ち良い」「ドラマーも機械に合わせてやらせると、窮屈になるけど、すごくしっかりぴたりとくる」「僕の場合、このやり方が正解だった」という小室の意向から、1985年・TM NETWORK「DRAGON THE FESTIVAL TOUR featuring TM NETWORK」より、ライブシステムは専門のプログラミングスタッフを起用した上でコンピューターでコントロールしている[4]。2005年以降は完全にデジタルの機材で整備されるようになった。低音から高音までのレンジが幅広くフォローされて、人間の耳には聞こえないが、体で感じることができる音域まで表現した。松浦勝人は「ホールが壊れてしまうと本気で心配したほど圧倒的だった」と語っている[298]

ライブのリハーサルは面積の広いスタジオにPublic Addressを持ち込んで行う。まずレコーディングの要領での打ち込み作業から始まり、大変な時間がかかるため「ライブハウスでミュージシャン同士で集まって、すぐに音を出し合う」タイプのリハーサルができない[4]。回数も少なく、大抵は長くて通しで1週間・準備は打ち込みのデータを渡し、細かい点の確認のみで反復練習はほとんどしない。これについては「本番でのセッション・即興演奏が好きで最初から決めた上で出来上がってしまうと長いツアーの場合3・4回で飽きる」[343]「ライブのリハーサル所か、本番にかける時間すらもったいないから、その時間をレコーディングに回せば1曲できる」と語る[344]

インターネットの開発・プロモーション

1990年代より「インターネットでアクセスしてきた人が、最新情報を得られるような環境にしたい」という姿勢でインターネット、特に音楽配信ウェブサイトの必要性を説いていた。最初は楽曲のデータ・リズム・アレンジの管理・やり取り、海外のスタッフからプロフィールを頼まれた時の送付に使用するつもりで、シンセサイザーのプログラミング作業の延長線上で研究していた[105][173]が、次第に並々ならぬ関心を抱き、1995年11月22日より自身の当時の公式サイト「Planet TK」にて、

  • NTTの音楽圧縮技術「TwinVQ」を用いた簡単な配信の実験[345]
  • 自身の制作した楽曲の試聴サービス[345]
  • ライナーノーツと歌詞の掲載[345][注釈 39]
  • クリスマスにサイト限定オリジナル楽曲のアップロード[345]
  • バナーの活用によるレコード会社・楽器メーカーからの広告収入を利用しての公式サイトの運営費の確保[345]
  • 日英2ヶ国語に対応したデータベース・バイオグラフィの紹介による両サイドの翻訳の手間の解消[346]
  • 「TK MIDI ZONE」にてEOS B900EXにて読み込みができる「Planet TK」オリジナルリミックスのMIDIデータの有料配信[346]
  • 通信カラオケ機器向けのMIDIデータの配信[347]
  • 小室の動向をデジタルカメラを持った事務所のスタッフが追いかけ、その様子を次々とネット上で公開する[105]

等のネット配信による活動を主催していた。「もし小・中学生がECサイトにアクセスしたらどう感じるか」「如何にコストを下げて、時間短縮するか」「レコードからCDに切り替わった時、どんな状況だったか」を常に意識しながら、シミュレーションするように指導していた[112][347][169]

1999年6月、小室とインテルの共同開発でPentium IIIが搭載されたパソコン向けのコンテンツ「P3TK」[注釈 40]が配信された[348]。小室がプロデュースした曲の中から50曲の1コーラス分の試聴、640×480ドットと大画面で最新のPVのダウンロード[349]、メッセージ・スペシャルライブのビデオ画像配信、ゲーム、オークション、チャット、オリジナル壁紙、スクリーンセーバー、抽選プレゼント[350]等が提供された。

2000年にはTM NETWORKの新曲を無料で配信する試みを行うが、その時の音質を「カセットテープ並み」と消極的に見ていた[351]。2005年6月avex内に設立された高音質配信研究機関「High Definition Sound laboratory」のエグゼクティブアドバイサーに就任、当時新しくavexにより設立された音楽配信サイト「@MUSIC HD Sound」(現在はmoraと共有化)より試験的にglobeの楽曲を「スタジオマスター音源並み」の音質での配信・数々の企業に音楽配信とデジタル・オーディオ・ワークステーションのプロモーションを行い、Appleへ率先して幾度も訪問し、シンポジウムに出席した[352]。2005年8月iTunes Storeの日本でのサービスが始まるとその様子を「黒船来航」と喜びのコメントを出した[353]

2012年5月「日本だけSONYの曲がiTunes Storeに置いてないのは変じゃないですか?もう売ってくれても良いじゃないかな」と自身のTwitter上で発言する等の問題提起に尽力し、多くの反響を呼んだ。2012年11月7日にSONY発売の楽曲の配信がスタートされた際「アポロ11号NASAから、発射する瞬間みたいだった」[354]「僕の役目はここまで」とコメントした[355]

音楽配信のメインストリームがダウンロードから、ストリーミングへと移り変わるシーンを「まるで蛇口をひねれば出てくる水のようになっている。それは便利ですが、その分だけ希薄になってしまう。例えばビートルズの名曲とアマチュアの新人の曲が、表面的には同一線上にあることになる」と危惧し、「利用した上で発表することで、その楽曲が『これはすごく特別な作品なんですよ』と言えるようになるかも」「NFTで転売された回数や拡散された回数が、再生回数のような指標になる。転売はチケットの転売問題などで『悪』とされていますが、NFTの仕組みであれば一番最初に作ったクリエイターに還元できるので、ストレートなリスペクトと言える」という狙いから[356]、2021年「Internet for Everyone」をパートごとに6トラックに分解し、NFTとして出品する形で非代替性トークンへの参加を始めた。2022年、ソロアルバム「JAZZY TOKEN」の未収録曲を「敢えて完成形ではないデモの状態、これこそ唯一無二のNFT作品になりうるのでは」と考えて、出品した[357]

後進への対応

プロになりたいという志を持つアマチュアに対しては「夢を与える産業の裏側を公開しないのが美徳かというと、そんなことはない。音楽はヒットしないと意味がない。だから僕に対してどんな感情を持ってもいいから、『とりあえずここから入ろう』と少しでも思って育ってくれたら嬉しい」という意向から楽曲の機材の選択・音作りの感覚・コード進行・メロディーのパターン・歌詞のイメージを戦略的にアピールし、他よりも制作時の裏話・苦労話・エピソードを積極的に公開している[282][109][283]。業界人に対してもキャリアに関係なく「作曲する時点で側近のスタッフが過程・手法の全部を知って驚くようなエンターテイメント性がある」「昨日頼んだ仕事がもう出来上がっていて、その時点で相応のクオリティになっている」という定評を持ってくれるように心がけている[263]

それ故にプロとしての心構え・立ち振る舞い方等のアドバイスも多くしている。

創作のコツ
「思いついたメロディはテープ・譜面・データにとって置いた方がいい。なかなか曲とかも『Aメロ→Bメロ→サビ』とぱっと思いつかないでしょう。そういうときに『昔とって置いた4小節をAメロに当てはめてみよう』とかね。聴く側は飽きっぽいし、メロディを読まれるとつまらないからなるべく組み合わせたほうが面白いと思う。作った月日が違うと発想も変わる。僕は締め切りに追われるので、どうしてもその日に作ることが多いけど、皆はとって置く事ができるから。CMの30秒・8小節作る位の気持ちで考えた方が気が楽になるでしょう」[71]
「曲を作る時、楽器の前で知ってる曲・自分が過去に作った曲を鼻歌で歌いながら作る。そこで始めて聞くメロディが出ると、どこかで活かせないかを探す」[304]
「アイディアに困ったとしても、『この前のネタをもう一度やってみよう』と引き出しとして引っ張り出せる。それは長い間の経験の蓄積であって、1985年~1990年の時にはできなかった。やってみて『反応が良くなかった』『失敗した』というのは悪いことじゃなくて、寧ろそれも自分の中の過程・データとしてとって置くこと。それが自分の引き出しになりますから」[304]
「最初は人真似でもいい。自分が素朴に『良いな』と思うものはそれが洋服であれ、曲であれ、記憶の中に留めて置く。そして自分のアイディアが必要になったら、そのコピーから始めていいと思います。仕事で使ってはまずいですので、勉強・トレーニングと言う意味で。僕はピアノ・音符の読み方を人から習ったことが一度もなくて、レコードを聞いて、それを真似する所からスタートしたんです。それでも必ずオリジナルの作品は作れるようになれます」[304]
「皆が共感できる普遍性のある分かりやすさを重視しても、迎合してはだめ。オタクと言われようが、『自分の部屋で作ったものを配信するだけ』という気持ちで数打ってそれの何発かが当たればそれが普遍性のある作品になる」[358]
楽典の勉強は絶対にして置いた方がいいと思います。まずはクラシック音楽を聴くことですね。知れば知るほどヒントになる部分が沢山あるジャンルだと思いますよ。第三楽章や第四楽章の主題の後ろで第一楽章のメインテーマが演奏されることがあります。僕の作る曲は第三楽章だけが作品としてリリースされているような形なんですよ」[60]
「ちょっと歌いづらい歌を作ると、みんながそれに挑もうとするのでいっぱい歌ってくれる。だからちょっと歌いづらい曲がいい」[359]
ミュージシャンとして
「リズムのキープは気を付けた方がいい。じゃないとせっかくのアレンジ・コード進行がモタって曲の流れが死んでしまう。コードが変わるとき、手を移動させるときにどうしても手が遅れてしまう。『どうして小室さんは遅れないんですか?』とよく言われるけど、僕だって遅れているよ。コードが離れれば離れるほどリズムはその分遅れてるよ。『移動する前の最後のコードは少し早めに手が離れて短く弾いている』とか『反対に少し早くタッチしてる』等、テクニックでいかにも『ちゃんとリズムをキープしてますよ』ってごまかしてるんですよ」[360]
「機材の選び方は買う時点で決めた方が絶対お得。何しろ1ヵ月前に新製品を買っても、1ヵ月後にはもうすぐに違う新製品が出ちゃってるんだから。ある程度諦めて、キリのいい所で買わないとね。どうせ次から次に新しいのが出て、目移りしちゃうんだから。同時に『どれ位の予算で』『どんな機能のついた機材で』『自分の役割は弾き語りか?バンドか?』等どういう目的かをハッキリ決めてから買いに行きましょう。悩んでるんなら、カタログとにらめっこするよりも、店の人に聞いてみるといいよ」[184]
「これからキーボードをやろうという人は、安くてもいいから発展性のある楽器を買うべきです。今だとバージョンアップできるものが多いから、自分が上手くなった後の事を想像して幅のある楽器を選んで欲しい」[361]
「センス・アイデアを磨く事。冷たい言い方だけど、キーボードは特にセンスに左右されやすいから、才能がある人は始めからある程度上手いんです。その辺りの見極めは早くやるように。そのためには、ボーカルも含めて他のパートをよく研究する事です。すると『自分がどの楽器と相性がいいのか』がわかってくる。僕もギターやってみたけど全然ダメでしたから(笑)」[361]
「生音に触れておく必要はありますね。これからキーボードをやる人は特に。サンプリング・シンセサイザーの音色作りをする時に、生音を知らないと想像の世界だけになってしまう。僕なんか助かったのは小さい頃クラシックを聴いてたから。例えば『ヴァイオリンの音はどういう響きで、弦のすれる音はこうだ』『オーケストラも生だとこんなに迫力がある』『上手いドラマーの生音を身体で感じておく』と、機械で再現する時でも雰囲気を生音に近づけるための基準を思い浮かべることが出来る。やっぱり、ピアノ・ヴァイオリン・ドラムの生音には敵わないから」[10]
「音像のシュミレーションは大事だと思う。『音』と『音が出た後の伝わり方』という分け方をしたら、今はもう5:5じゃないからね。4:6か3:7位の伝わり方の方が大事だと思う。スタジオの鳴りが無かったらどうしようもない作品がたくさんあるでしょ。そういう部屋の音、もっと言えば空間を伝わる音を知っておく必要もある。手を叩いたり、声を出してみたりして、『広い所ではこういう風になるんだ』『響かない部屋ではこういう感じなんだ』『地下道ではこういう音がするのか』等至るところでね。そういう音像を確かめる作業は今後絶対やってて損はないと思います」[10]
「鎖国状態にならないで、世界に目を向けてほしい。ヒットを作るためのマニュアル本を読んだり、学校の講義を受けたりして『勉強』として学んでほしくない[107]。世界に進出するには、いくつもの自分の世界を作れるタレント性が必要。音楽にボーダーラインは無いけど、相手に合わせたローカライズは必要。地元は勿論アジアでの人気も両方ないと駄目。最低でもバイリンガルであるべき、できれば海外に移住してその土地のミュージシャン・エンジニアと仕事して海外の音像を学んで欲しい[362][137]
「僕やB'z松本孝弘君を目標にしてくれるのは本当に嬉しいですが、『この人の曲は誰のどんな曲から影響を受けたのか』と深く紐解いて欲しい」[107]
「スポーツ選手の場合は1回失敗するとそこで人生が変わる。それを見ていると音楽の人は楽をしすぎ。特にバンドの場合ちょっと間違っても『まぁいいか』『走っているけど、編集してズラせばいいや』『音が外れちゃったけどピッチ・クオンタイズを掛けて合わせておこう』『最後コンプレッサーでまとめちゃえばなんとかなるよ』となりがち。生舞台での大変な失敗等の経験・練習・音質の向上をどんどん進めて元を出す人間が一番しっかりした方がいい。気持ちよく不快な思いをさせないようにというのがエンターテイメントの基本」[363][242]
ディズニーパークみたいに、内側の仕組みを全て隠してしまうことが当たり前になった中、僕はその裏返しで『スイッチを押して、そうするとどこがどう動き出すのか』をテレビ番組の収録・ライブツアーに関わらず意図的に見せるようにしている。『これだけ苦労してこの音が出てますよ』というプロセスを観客に教えてあげたかった。これはYMOと彼らが演奏している時に次に演奏する曲のプログラミングを行うシーンを見せていた松武秀樹さんの影響なんです」[257]
仕事の進め方
「色んな会社の人が、会議でホワイトボードに『小室哲哉』と書いていた。方法・売り方・売れ方・『小室はこうやっている』…真似をされたり、参考にされたり、それは嬉しいことで。どんどん真似して欲しい」[181]
「職種を2つ以上持ち、平行すること。そうすれば違うファンも開拓できるし、選択肢も広がっていく。別方面が上手くいかないときの救いにもなる[注釈 41]
「打ち合わせのときに、『僕ではない、他のアーティスト風にしてほしい』という要望が出たときに大切なのは『僕の色はいらないのか!』と怒ることではなく、どれだけ相手のオーダーに近づけるかということ。働く上では一度、自分の色を全部消して別人になる必要に迫られることがあるかもしれません。でも、自分の願望やエゴを出さなくても実は自分の色はちゃんと出る。どんなに消したつもりでも確かに残る。だから、ときには相手の要望を『分かりました』と受け止めてみることも大事なことだと思います」[365]

注釈

  1. ^ 特に一職業としての音楽プロデューサーに対する思い入れは強く、「プロデューサーという言葉を浸透させたのは僕で間違いないですね。『全体を統率する者がいないと駄目なんだ』ということを業界に一応認知させることができたかなと思います」と話している[57]
  2. ^ 小室にとってのイントロは「自分の音楽の趣味や実験を集約させる場」「カラオケ等で女の子が会話するための場」という意味を持たせている。MARCも「自分のパートでは歌うやつがいなくてもいい」と割り切っている[58]
  3. ^ 一つに「冒頭から最高音」もう一つは「比較的低い音から始めて最高音へ徐々に上げていく」流れがある[60]。ハイトーンのボーカルには赤ちゃんの泣き声を意識している。基本的には「本能的に声を絞り出して」「喉から声を出さないで」「赤ちゃんは本当に心から泣きたいからファルセットを使わないで」「高いキーで泣くように」歌うように指示し、「そばに来て・助けて」というような欲求を訴える雰囲気を出すようにしている[61]
  4. ^ 「下手すると10曲中9曲は使っている。僕にとっては循環コードとしてよく使っている基本コード。外国のヒット曲の中には、マドンナカルチャー・クラブ等このパターンを上手く使った楽曲が沢山ある」と語っている[77]
  5. ^ 「僕の一連のヒット曲の王道パターンの一つであり、自分のオリジナリティやメロディを振り返るときには外せない」[82]「『この4つで何百曲も作れる』と豪語できる」[83]と強い思い入れを語っている。
  6. ^ 甲斐よしひろは「吉田拓郎、さらにいうとボブ・ディランが多用するパターン」と評している[84]
  7. ^ 「僕はこれでメジャーレーベルと契約できて、メジャーデビューできた」と語っている[88]
  8. ^ 「『sus4だけじゃだめだ。add6やadd9もメロディやリフに入れていこう』と思い立った時に出会った。これで何曲書けたか数えられないくらい」と語っている[88]
  9. ^ 「美里さんの詞の世界を参考に、『いろんな角度から見る一つのテーマがあったとしたら、自身の視点から同じテーマを書くとこうなる』というアプローチ的手法で作詞していた」[98]「渡辺さんの影響でドア・イノセント・ジェントル・少年・少女をテーマにするようになった」[86]と語る。
  10. ^ 「彼は仕事柄、女性の台詞も書く。だから作詞においても、男性が女性に成り済まして書いたようなわざとらしさが全くない。『自分に脚本家の真似はできないが、自分なりの書き方を探さなければ』と思った」[99]と語る。
  11. ^ 「山下さんみたいに流行語を使わない、10〜20年後でも何かに当て嵌めようとすれば誰でも主人公になれるような、あまり時代に寄り添い過ぎない普遍的なワードしか使わない」と語る[100][101]
  12. ^ 「せめて音楽位は女の人の味方にならないといけないと感じて作った」と語る[102]
  13. ^ ピーター・バラカンが指摘していた[121]
  14. ^ ただし、この手法を麻生香太郎からは「小室に文句を言ったり、注進できるような人が周りにいなくなっているんです。本人は偉そうにしているわけでもないのに、周りが持ち上げてしまって、変な形の裸の王様になってしまっている。彼の英語の歌詞やタイトルを見ていると『流石におかしい』と思う部分がよく出てくる。和製英語をストレートに出す表現とか。チェックする暇も無ければ、その方面に詳しい人材もいなかった」と当時の状況を振り返っている[124]
  15. ^ これに対して澤野は「耳に残らずに流れていくようなメロディも作品の演出上で情景を表すためにやっているので、何が良くて何が悪いかというものでもないのですが…。僕は小室さんの作った作品のようにメロディの残る楽曲があるサウンドトラックが好きですし、そうした作品が世に増えたらいいと思う」と語っている[39]
  16. ^ ただし、久保こーじは「小室ブームの時期においては、事前にある程度時間をかけて下準備と練習を繰り返しているにも関わらず、取材陣の前では5分で楽曲を作り出したかのような素振りを見せていた部分もあり、必要以上に『天才であることを演出できているか』を心配していた」と語っている[152]
  17. ^ その直後に突発的に新しいメロディ思いつくことがあるので、それが活かされつつ、楽曲全体の足枷にならないために最初からこの段階で終わらせることもある[63]。その状態をDJ KOO曰く「音数がすごく少ない。メロディも無くて、リズムとシンセがコードで入ってるくらい」と例えている[182]
  18. ^ 個々のシンセサイザーでも特徴が違い、「楽曲作りに威力を発揮する機材」「アレンジで役に立つ機材」等とそのときの局面で切り替えている[183]
  19. ^ 譜面はスタジオ内で共有するために手弾きでコンピューターにもインプットさせる形で行い、手書きはしない[184]
  20. ^ ただし、hitomiと作業する場合は、デビュー前にhitomiに一定期間日記を付けさせた結果「どこで探してきたんだという位古い言葉を使うのが好き」[65]「思っていた以上に丁寧で、同世代の女性の代弁者になれる」[186]と見込んだため、hitomiがメモの落書きの要領で書いた歌詞に対して小室が歌詞を厳選し、音源を後付けしていく方針をとった[187]
  21. ^ 小室は「本格的に意識したのは『Love Train/We love the EARTH』を制作した時から」とのこと[5]
  22. ^ ただし、この発言は「久米宏さんをフィルターとした番組である「ニュースステーション」の放送時間帯での久米さん以上の年齢の視聴者の反応を考慮したフェイク」とも答えている[192][145]
  23. ^ 3小節以上使うと著作権使用料が発生するため、2小節以内に抑えている。
  24. ^ ただし、自ら「生歌では困難」と称する程のメロディではレコーディング技術を駆使してクリアした部分がある[62]
  25. ^ 特にシールドケーブルに対しては「シールドケーブルの中を音が流れるだけでも、その音の音質は劣化する。それを防ぐために1本100万円以上の最高品質のものを指定している[206]」「今までのスタジオの建築費にはどれ程無駄遣いしたか分からない[36]。しかし、シールドケーブルに関しては今でも無駄遣いだとは思わない[206]」と話している。
  26. ^ ただし、音声圧縮に対しても「いい音が全てではなく、無料で試聴できたり、早く聴けたりするなど圧縮にもメリットがある。確実に音質は劣化するが、圧縮=劣化=ダメということではない」と一定の理解を示している[47]
  27. ^ ただし、この作業は小室が「自分で48chのスタジオを用意できたからこそできることで、外部の貸しスタジオでやろうとしたら、大変な手間になる」と語っている[65]
  28. ^ それでもフロントに出ていた理由として、「プロモーションの都合上、一緒に登場しなければいけなかった自分の周囲に対するせめてもの弁解として『with t』等を付けた」[274]「ミュージシャンとしての小室哲哉を演出したかった」[275]「TMの固定ファンを取り込もうとしていた」[276]と答えている。
  29. ^ 「ナイル・ロジャースはマドンナの『Like a Virgin』をプロデュースしたけど、ターゲットとした市場は世界の10億人くらい。それに対し日本が1億人だとすれば、たった1割。そこで『たかだか1~2割程度なら、敢えて日本の音楽ファンにだけ向けて作らなくても、『Like a Virgin』みたいな曲を作って、日本でも世間にごり押しすれば1億人に広まるんじゃないか』と思った」と語っている[191]
  30. ^ プロデュースする人全員に小室が思い描いたイメージ・キャラクターは、相手の本質とは違う勝手なイメージであったとしても0から作り上げる。一番難しいのは自らも正式メンバーとして所属する音楽ユニットで、ただ小室の主導で動かすのではなく「自分も映るんだ、僕たちは何になればいいんだ?」と悩みながら、メンバーの内面に入り込んで意向を汲んだ上でテーマや方向性等の構想を固めていき、「大衆に認知されるためにはどうするか」を考えている[135][278]
  31. ^ 基準として「鼻声は駄目。声が顔のイメージと一致しない人も駄目。初対面で声が抜けて耳と五感に響けばそれで良かった」[104][273][289]「『誰からも好かれる声』ではなく『頑張ればあの人になれる、明日カラオケに行ってちょっと歌ってみようかな…という希望を持てるような、嫌われない・気持ちの良い声質』」を基準に選び[62][290]と語っている。
  32. ^ なお、実際には一般人の運転には危険が伴うため、製造したダイムラーは購入者の技能を調べた上で販売している。詳細は当該項を参照。
  33. ^ 特に後者の方法は「こんな内容で叩かれないだろうか?」というプレッシャーとストレスの解消・スランプの防止・アイディアの開発に役立ったという[286][310]
  34. ^ ただし、2000年代以降はボーカルの声を事前に打ち込み、ボーカルに合わせて鍵盤で弾いてコーラスの代わりにしたことから、VOCALOIDにも一定の関心を示している[62]
  35. ^ 特に3人編成には「意思疎通が密になり、それぞれのキャラクターが際立たせ、役割分担がやりやすい、一番バランスのとれた人数」[322]「音楽に規則を作って『何を排除して、何に徹するか』を事前に考えれば、メンバーに個別の個性が出て、レコード会社にもメリットのある提案ができて、いい聴こえ方の音響演出ができると思って、1983年頃から真剣に戦略として考え始めた。これはYMOの影響が大きい」[263]と称している。
  36. ^ 「サイトのデザインからしてすごく凝っている」と評している[148]
  37. ^ 「彼らは大量のニーズがないと成り立たない規模で展開している。それに対して消費者はみんな広告塔として、ブランド名付きTシャツを着て喜んで歩いて応援している。あの関係は今の僕たちにはないですね。彼らの様な、ブランド名付きTシャツが広まるように流通する直接的な音楽を作りたい」と評している[109]
  38. ^ この照明の演出を見た渡辺美里は「私も同じような演出をやりたい」と直接スタッフに申し入れた程気に入った[284]
  39. ^ 小室は「文字や画像なんて、今(1996年当時)のホームページの環境でもフォローできる。CDのプレス・ジャケットの印刷・パッケージ化が終わった後でも、幾らでも新しい情報を盛り込み、提供することができるようになるため『手遅れ』という発想自体が無くなる」と語っている[105]
  40. ^ 「P3」は「Pops」「Power」「Passion」という意味を込めている。
  41. ^ 「でも、このギリギリで必死で切羽詰まった感じは1990年代は通じたけど、今の時代にそぐわないかもしれない」とも答えている[364][205]

出典

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