生実藩
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幕末の領地
千葉郡の領地は7300石であった[1]。
『旧高旧領取調帳』によれば、相模国鎌倉郡の1村は笠間村(現在の横浜市栄区笠間)で、村高は800石余であった。
脚注
参考文献
- 『千葉県教育振興財団研究紀要 第28号 房総における近世陣屋』千葉県教育振興財団、2013年 。
関連項目
外部リンク
先代 (下総国) |
行政区の変遷 1623年 - 1871年 (生実藩→生実県) |
次代 印旛県 |
注釈
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 『寛政譜』では、酒井重澄が生実で2万5000石を与えられた時期は明示されていない。元和8年(1622年)に16歳で家光に御目見したのち、しばしば加増を受けたとある[15]。『徳川実紀』によれば、堀田正盛と酒井重澄に官位や知行で上下が生じないよう、正盛が3万石を与えられた際に重澄にも3万石を与えられたとあるが(典拠として『藩翰譜』を挙げる)[14]、『寛政譜』を見る限りは重澄は3万石を与えられておらず、正盛が3万石を越えるのは重澄の改易後である。参考までに、堀田正盛は元和6年(1620年)に13歳で家光に御目見し、元和9年(1623年)に700石、寛永2年(1625年)に5000石、寛永3年(1626年)に1万石、寛永10年(1633年)に1万5000石、寛永12年(1635年)に3万5000石と加増を受けている[16]。
- ^ 『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版社、1996年)p.1301「近世大名配置表」では、生実藩主として酒井氏を挙げない。
- ^ 『角川日本地名大辞典』の「生実藩」の項目では「森川氏入封前に,元和末年から寛永10年にかけて酒井重澄が生実を居城として2万5,000石を領有していたと見えるが,不詳」とある[13]。
出典
- ^ a b “第4章>第六節>第二項 生実藩の藩政”. 千葉市史 第2巻(ADEAC所収). 2022年10月31日閲覧。
- ^ “生実”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月31日閲覧。
- ^ a b c d e “小弓(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月31日閲覧。
- ^ a b “北生実村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月31日閲覧。
- ^ “南生実村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月31日閲覧。
- ^ “塩田町”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月31日閲覧。
- ^ “おゆみ野の昔の様子”. おゆみ野いきいき生活. 首都圏ケーブルメディア. 2022年10月31日閲覧。
- ^ “鎌取町”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月31日閲覧。
- ^ “生実郷(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月31日閲覧。
- ^ “生実郷(近代)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月31日閲覧。
- ^ “第4章>第一節>第二項 幕府政治と支配の特質”. 千葉市史 第2巻(ADEAC所収). 2022年10月31日閲覧。
- ^ a b 『房総における近世陣屋』, p. 30.
- ^ a b c “生実藩”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月31日閲覧。
- ^ a b c 『大猷院殿御実紀』巻廿二・寛永十年五月十三日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第二編』pp.291-292。
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第三百六十三「酒井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1052。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百四十四「堀田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.411。
- ^ “通史編 第四章>第一節 初期の多古支配者>一、保科氏”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年2月25日閲覧。
- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第四百八「森川」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.94。
- ^ 簗瀬裕一「小弓公方足利義明の御座所と生実・浜野の中世城郭」『中世城郭研究』6号(2000年)/所収:滝川恒昭 編著『旧国中世重要論文集成 安房国 上総国』戎光祥出版、2022年 ISBN 978-4-86403-378-7 2022年、P340-345.
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