ディエゴ・マラドーナ ディエゴ・マラドーナの概要

ディエゴ・マラドーナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/09 21:06 UTC 版)

ディエゴ・マラドーナ
Diego Maradona
名前
本名 ディエゴ・アルマンド・マラドーナ
Diego Armando Maradona
愛称 Pelusa

Barrilete Cósmico
Pibe de Oro
D10S
ラテン文字 Diego MARADONA
基本情報
国籍 アルゼンチン
生年月日 (1960-10-30) 1960年10月30日
出身地  ブエノスアイレス州 ラヌース
没年月日

2020年11月25日(2020-11-25)

(60歳没)
身長 165 cm
体重 69 kg
選手情報
ポジション MF / FW
利き足 左足
ユース
1968-1969 エストレージャ・ロハ
1970-1974 ロス・セボジータス
1975-1976 アルヘンティノス・ジュニアーズ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1976-1982 アルヘンティノス・ジュニアーズ 166 (116)
1981-1982 ボカ・ジュニアーズ(loan) 40 (28)
1982-1984 バルセロナ 36 (22)
1984-1991 ナポリ 188 (81)
1992-1993 セビージャ 26 (5)
1993-1994 ニューウェルズ 5 (0)
1995-1997 ボカ・ジュニアーズ 30 (7)
通算 491 (259)
代表歴
1977-1979  アルゼンチン U-20 24 (13)
1979-1994 アルゼンチン [1] 91 (34)
監督歴
1994 マンディユー・デ・コリエンテス
1995 ラシン・クルブ
2008-2010 アルゼンチン
2011-2012 アル・ワスル
2013-2017 CDリエストラ(アシスタントコーチ)
2017-2018 アル・フジャイラ
2018-2019 ドラドス・デ・シナロア
2019-2020 ヒムナシア・ラ・プラタ[2][3]
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

概要

1976年にアルゼンチン・リーグにおいて史上最年少でプロデビューを果たし、SSCナポリではセリエA優勝2回、UEFAカップ優勝1回に貢献した立役者となる。アルゼンチン代表においても1977年に歴代最年少(16歳)で出場、1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権を優勝、FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場し、1986年大会ではチームを牽引して優勝に導き、大会MVPに選出された。同大会の準々決勝イングランド戦で見せた「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルは、マラドーナを象徴するプレーとして後世に語り継がれている。このような実績からペレと並んで史上最高のサッカー選手、あるいはスポーツ史上最も偉大な選手と評されている[4][5]

現役引退後は監督として複数のクラブを歴任、2008年にはアルゼンチン代表監督に就任。2010年大会では南米予選を突破したが、本大会では準々決勝で敗れ、同大会終了後の2010年7月に解任された。2020年11月25日、ブエノスアイレス郊外の自宅で死去した[6]

選手時代からたびたび違法薬物の使用が取り沙汰され、現役引退後も入退院を繰り返したが、引退から時間が経った現在でもマラドーナの信奉者は多くアルゼンチンではマラドーナのことを「神の子」と崇拝する宗教が生まれ、ナポリでは旧市街にマラドーナを讃える祭壇が設けられているなど、高い人気を誇っている[7]

クラブ経歴

幼少期

マラドーナは1960年10月30日、ブエノスアイレス南部のラヌース (Lanús) に貧しい家庭の子として生まれた[8]。住んでいた掘立小屋にはぬいぐるみやゲームもなかったが[9]、ひとり立ちができるようになった3歳の時に叔父からサッカーボールをプレゼントされ、自宅近くにあるゴミ捨て場の近くでサッカーボールを蹴るようになった[9]

地元の小学校に入学してすぐに仲良くなった友人と6歳のころから毎日ボールをけって遊ぶようになったが[10]、9歳の時にAAアルヘンティノス・ジュニアーズの少年チームであるセボリータス(Los Cebollitas、小さな玉葱)に、すでに同チームでプレーしていた友人がコーチに「自分より巧い友達」としてマラドーナの加入を推薦し[11][12]、練習でのトレーニングマッチで卓越した動きを見せてコーチを驚かせ[13]、その技術を認められて同チームに加入した[13][14]。セボリータスはマラドーナの加入後大差での連勝を続け、136試合とも151試合ともいわれる連続での無敗記録を作った[15]

幼少時代はペルーサ(Pelusa、毛深い奴/縮れ髪)と呼ばれるおとなしい少年だったが[16]、10歳の時にはプロリーグ戦のハーフタイムショーでリフティングを披露して拍手喝采を浴びるほどの技術を身に付けており[17][18]、現地の新聞で「将来有望な名手」として紹介された[18]。また、土曜日の人気娯楽番組への出演を依頼され、サッカーボールだけでなくオレンジや空き瓶でのリフティングを披露した[17]。13歳時にアルゼンチン政府主催で行われた公式の大会で準決勝進出を果たした際には、マラドーナは新聞で「ペレの弟」と紹介された[19]

1973年、12歳の時にはCAリーベル・プレートから契約金200万ペソでのオファーがあったが、クラブや父親が時期尚早だと反対したためセボリータスにとどまった[20][21][22]。少年時代の憧れの選手はCAインデペンディエンテリカルド・ボチーニだった[23]

プロデビュー期

ユース時代
(1973年)

13歳の時に学校を辞めてサッカーに専念することとなった[24]。1974年にAAアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチーム昇格を果たし[25]、15歳の誕生日にはクラブから家族全員が住めるほどの大きさのアパートが提供された[26]。在籍時にはエル・ピベ・デ・オロ(El Pibe de Oro、ゴールデンボーイ)という愛称を授かった[27]

1976年10月20日、アルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳11か月でタジェレス・デ・コルドバ戦にて初出場[28]。この試合は0-1でタジェレスにリードを許している場面での後半に途中出場し、交代してすぐにゲーム全体の流れを変える動きを見せ、タジェレスの選手から執拗にマークを受けた[29]。試合はこのまま終了して敗れたものの、地元の新聞からも試合での動きを高く評価された[29]。同年11月14日のCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ戦でプロ初ゴールを決めた[30]

プリメーラ・ディビシオン(国内1部リーグ)のナショナルリーグにおいて翌1977年は49試合に出場して19得点、1978年は35試合に出場して26点を挙げ[31]、1979年に26得点、1980年に43得点を挙げて得点王を獲得[31]。1979〜1981年にアルゼンチン年間最優秀選手賞、1979年〜1980年に南米年間最優秀選手賞を受賞した[31]。アルヘンティノス時代は166試合に出場して116ゴールを挙げた[32]

ボカ・ジュニアーズ

ボカ・ジュニアーズ時代(1981年)

1981年2月13日、幼少時からの熱狂的なファンであったボカ・ジュニアーズへのレンタル移籍交渉がまとまった。アルヘンティノスへ400万ドルの移籍金が支払われ、さらにボカはアルヘンティノスの負債110万ドルを肩代わりすることになった。4月10日のスーペルクラシコではボカの全3得点を挙げる活躍でCAリーベル・プレートを下し、移籍してすぐにファンのアイドルになった[33]

この年にはリーグ優勝を果たしたが、マラドーナ獲得時の莫大な移籍金などが負担となってボカの財政状況は悪化し、マラドーナも20歳にしてリーグ戦200試合以上に出場していたことから疲労がピークに達していた。1982年5月末、約700万ドルの移籍金でスペインのFCバルセロナに移籍することで合意に達した[34]

FCバルセロナ

FCバルセロナ時代(1982年)

1982年6月4日、マラドーナはFCバルセロナとの移籍契約に調印し、アルヘンティノスに移籍金510万ドル、ボカに移籍金220万ドルが分割払いで支払われた[35]カンプ・ノウで行われたお披露目にはクラブ新記録の5万人が詰めかけた[36]。1982-83シーズン、開幕戦となったバレンシア戦で移籍後初ゴールを決めると [37]、序盤のバルセロナダービーでは決勝ゴールを決め、その2日後のUEFAカップウィナーズカップ2回戦・レッドスター・ベオグラード戦では2得点を決めて華々しいスタートを切ったが[38]、度重なる夜遊びやコカイン使用疑惑でホセ・ルイス・ヌニェス会長との関係が悪化し始めた[39]。マラドーナもウイルス性肝炎や鬱状態などの病気に悩まされ、クラブもリーグ4位となったがコパ・デル・レイ決勝でレアル・マドリードに2対1で優勝を手にした。

度重なるマークによる乱闘騒ぎ

1983-84シーズン、セサル・ルイス・メノッティが監督に就任すると、9月のハビエル・クレメンテ率いるビルバオ戦でゴイコエチェアからタックルを受けて左膝腱を損傷、3か月欠場の深手を負い、わずか勝ち点1差でビルバオに優勝を逃してしまう。 またコパ・デル・レイ決勝のビルバオ戦でも、度重なる激しいマークに遭い0対1で得点のチャンスを逃した。 そのマラドーナも試合直後に度重なるマークに激怒し、ジャージ姿の相手選手の顔面を膝蹴りを見舞い、気絶させて乱闘騒ぎを起こしたことが決定打となりヌニェス会長との関係が最悪な状態にまで陥り、その後スペインサッカー連盟から3か月間出場停止を言い渡された。 そこで副会長でヌニェス会長の右腕でもあるジョアン・ガスパールがクラブに留まる気があるかを尋ね、「残留するのなら、会長との仲を取り持つ」と5年の契約延長を提示したがマラドーナがそれを拒否したため、クラブは放出の断を下した[40]

SSCナポリ

SSCナポリ時代。母国代表の同僚ダニエル・パサレラ(右)と(1985年)

1984年6月29日、イタリア・セリエASSCナポリへの移籍が実現し、サッカー史上最高額の推定移籍金1300万ドルがFCバルセロナに支払われた[40]。7月5日にスタディオ・サン・パオロで行われたお披露目会見にはスタジアムに7万人のサポーターが駆け付け[41]、マラドーナもヘリコプターからピッチに降り立つパフォーマンスで登場し[42][43]、「僕はナポリの貧しい少年たちのアイドルになりたい。なぜって彼らは、アルゼンチン時代の僕と同じだからだ」とコメントした[44]。マラドーナはサポーターから「ナポリの王」と呼ばれて愛され[44]、シーズンチケットが瞬く間に売れたことから、莫大な移籍金および給料を払ってもなおクラブの財政は潤った。マラドーナとブルーノ・ジョルダーノカレカの攻撃トリオは頭文字からマジカ(Ma・Gi・Ca、魔法)と呼ばれ、クラブの黄金時代を築き上げた[45]。ナポリでは公式戦通算115ゴールを挙げた[46]

1984-85シーズン、1984年8月22日のコッパ・イタリアアレッツォ戦でゴールを決めるデビューを飾り[47]、9月22日、第2節のサンプドリア戦でPKからセリエA初ゴールを決め[47]、2月24日のラツィオ戦では移籍後初のハットトリックを達成した[47]。リーグ戦では合計14得点を決めて得点ランキング3位に入り、1985-86シーズンは11ゴールを挙げ[47]、チームをリーグ3位に押し上げた。1986-87シーズンはクラブ史上初のセリエA優勝を飾り、コッパ・イタリアとの2冠を達成。これまで北部の2チーム(トリノ、ユベントス)しか達成していない国内2冠を南部のナポリが達成できたことを非常に誇りにしていると自伝で語っている。代表でのワールドカップMVPの活躍と合わせて世界最優秀選手賞に選ばれた。

一方で、愛人がマラドーナの子どもを出産したシナグラ事件(後述)などもあって気分が不安定で、子どもの認知を渋ったために地元メディアから攻撃された[48]。1987-88シーズンには15得点を決めてアルゼンチン人として初のセリエA得点王に輝き、1988-89シーズンにはUEFAカップを制覇した。(準決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では1stレグ、2ndレグ共に2アシストずつを決め、決勝のシュッツガルト戦では1stレグでゴールを決めると[47]、2ndレグではフェラーラとカレカのゴールをアシストした。)1988年以降は負傷で試合を欠場する頻度が増え、監督やクラブ会長との確執も取り沙汰された。1990 FIFAワールドカップを控えた1989-90シーズン、第25節のASローマ戦での2点目のゴールでナポリでの公式戦通算100ゴールを達成すると[47]、2度目のセリエA優勝を飾った。

1990年から1991年にかけて、マラドーナは麻薬使用やマフィアとの関連が報道されてマスコミから集中砲火を浴び、1991年3月24日、第26節のサンプドリア戦に出場しゴールを決めた後[47]イタリアサッカー連盟から15か月間の出場停止処分を受けた。喧嘩別れのような形になったものの、後にSSCナポリはマラドーナの功績を称えてマラドーナの背番号10を永久欠番とした[49]。SSCナポリ時代には税金を滞納し、税務局から3700万ユーロ(約40億円)もの支払いを求められており、イタリアに入国する際にはその都度金品を没収されている[50]

選手生活の終盤

1991年には、Jリーグ発足に向けて補強を進めていた名古屋グランパスエイトへ年俸や契約金を併せ総額15億円という契約で加入がほぼ内定していた[51]。交渉は順調に運び、残すは名古屋の親会社であるトヨタ自動車の決定を待つのみであったが、決まりかけた日本行きはマラドーナのコカイン使用疑惑によって立ち消えとなった。

その後、FIFAがマラドーナの移籍交渉に介入したこともあり、1992年9月にスペインのセビージャFC移籍が決定した。チケットの売り上げという点ではクラブに貢献したが、荒んだ生活や怠慢な練習態度などからカルロス・ビラルド監督と対立し、26試合に出場してわずか5得点しか挙げることができなかった[52]。1993年6月のレアル・ブルゴスCF戦で後半開始早々に交代を指示され激怒し、アルゼンチンに帰国した。

1993年10月、マラドーナはセビージャFCとの契約の残り期間に対して400万ドルを支払う条件でアルゼンチンのニューウェルズ・オールドボーイズに移籍した[53]アルフィオ・バシーレ監督によってアルゼンチン代表にも復帰したが、契約問題のこじれからニューウェルズでは7試合しか出場できず、練習不参加や試合欠場などの理由により1994年2月に解雇された。1994 FIFAワールドカップのドーピング違反でFIFAから再び15か月間の出場停止処分を受け、処分期間中は国内2チームの監督を務めた。

1995年10月、14年ぶりにボカ・ジュニアーズへ復帰、チームの韓国遠征において韓国代表との親善試合に出場して復帰、FKからアシストを決めた[54]。髪にボカのシンボルカラーである金色のメッシュを入れてプレーした。1996年にはリーグ戦で5本連続してPKを失敗し、引退騒動を起こした。スイスでの薬物依存症治療を経てボカと再契約し、1997年7月には公式戦に復帰した。同年10月25日のスーペルクラシコへの出場を最後に、自身の37歳の誕生日となる10月30日に現役引退を発表した。


注釈

  1. ^ この時現役時代以来25年ぶりにカンプ・ノウを訪れ、FCバルセロナのジョゼップ・グアルディオラ監督と歓談した。
  2. ^ 結局、カストロは参列しなかった。
  3. ^ 1986年からはエル・パイス紙による選考も行われ、そちらが公式の選考扱いになっている。
  4. ^ ファン投票による結果。
  5. ^ 1986 FIFAワールドカップのイングランド戦で決めた2点目が選ばれた。

出典

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