1958 FIFAワールドカップ
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| 1958 FIFAワールドカップ 1958 FIFA World Cup Världsmästerskapet i fotboll 1958 |
|
|---|---|
| ブラジル代表のペレ |
|
| 大会概要 | |
| 開催国 | |
| 日程 | 1958年6月8日 - 6月29日 |
| チーム数 | 16 (3連盟) |
| 開催地数 | 12 (12都市) |
| 大会結果 | |
| 優勝 | |
| 準優勝 | |
| 3位 | |
| 4位 | |
| 大会統計 | |
| 試合数 | 35試合 |
| ゴール数 | 126点 (1試合平均 3.6点) |
| 総入場者数 | 919,580人 (1試合平均 26,274人) |
| 得点王 | |
| < 19541962 > | |
1958 FIFAワールドカップ(英: 1958 FIFA World Cup)は、1958年6月8日から6月29日にかけて、スウェーデンで開催された第6回目のFIFAワールドカップである。ブラジルが決勝でスウェーデンを5対2で破り、史上4ヶ国目の優勝国となった。この大会で当時17歳のペレが世界の舞台にデビューを果たした。
予選
スーダンがイスラエルとの対戦を拒否した為、イスラエルがアジア・アフリカ枠の代表となった。しかし、1度も試合をせずに予選通過というのはFIFAでも問題視され、欧州予選各組2位の中から抽選されたウェールズとの大陸間プレーオフが開催される事となり、ウェールズがこれを制して本大会出場を決めた。
出場国
出場選手は1958 FIFAワールドカップ参加チームを参照。
| 大陸連盟 | 出場 枠数 |
予選 | 組 予選順位 |
出場国・地域 | 出場回数 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| UEFA | 2+10 | 開催国 | 2大会ぶり4回目 | ||||
| 前回優勝国 | 2大会連続4回目[1] | ||||||
| 欧州予選 | 1組 | 1位 | 3大会連続3回目 | ||||
| 2組 | 1位 | 2大会連続5回目 | |||||
| 3組 | 1位 | 2大会連続4回目 | |||||
| 4組 | 1位 | 2大会連続4回目 | |||||
| 2位 | 初出場 | ○ | |||||
| 5組 | 1位 | 2大会連続3回目 | |||||
| 6組 | 1位 | 初出場 | |||||
| 7組 | 1位 | 3大会連続4回目 | |||||
| 8組 | 1位 | 初出場 | |||||
| 9組 | 1位 | 2大会連続2回目 | |||||
| CONMEBOL | 3 | 南米予選 | 1組 | 1位 | 6大会連続6回目 | ||
| 2組 | 1位 | 4大会ぶり3回目 | |||||
| 3組 | 1位 | 2大会ぶり3回目 | |||||
| CONCACAF | 1 | 最終予選 | 1位 | 3大会連続4回目 | |||
| CAF/AFC | 1 | 最終予選 | 出場国無し | ||||
- 備考欄の「○」は大陸間プレーオフに勝利の上、出場が決定したチーム。
本大会
概要
|
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 (2014年11月)
|
ソビエト連邦が初めて大会に参加したほか、イギリスを構成するイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4ヶ国が初めて予選ラウンドに参加した。優勝経験のある3チームのうち、地区予選から参加したウルグアイとイタリアがいずれも本大会出場を逃す波乱があった。前回大会から大会の方式が変えられた。16チームが地区予選を突破して大会に参加し、4カ国ずつ4つのグループに分けられるのは前回同様だが、グループ内では他の全てのチームと必ず1度対戦するようになり、また、延長戦も廃止された。勝点は、勝利:2点、引分:1点、敗戦:0点と定められた。2位と3位のチームが同じ勝ち点で並んだ場合には、プレーオフが実施され、得失点差はグループリーグ突破に影響を与えないことになった。
ブラジル代表のペレは対ソ連戦まで試合に出ることは無く、チームは2対0で勝ったものの得点やアシストを決めることも無かった。ブラジルは勝点5でグループ4を1位で突破し、ソ連とイングランドが勝点3で並んだため、プレーオフが実施された。アナトリー・イリーインが後半22分に得点を決め、1対0でソ連が決勝トーナメントに進出した。オーストリアは2敗1分と振るわずグループリーグで姿を消した。
グループ1でも北アイルランド対チェコスロバキアのプレーオフが行われ、2対1で北アイルランドが勝利し、グループリーグを突破した。西ドイツが勝点4で1位通過し、アルゼンチンはグループリーグで敗退した。グループ3では、ウェールズがプレーオフでハンガリーを下し、1位通過のスウェーデンとともに決勝トーナメントに進出した。前回準優勝のハンガリーは、1956年のハンガリー動乱の影響から主力選手が亡命し、代表チームとしての力が大きく低下していた。
英国4協会の中でスコットランド代表がもっとも強豪国揃いのグループ2に入り、結果的に1分2敗のグループ最下位で大会を去った。フランスはこの大会の得点王となるジュスト・フォンテーヌが6得点を決め、グループ1位で通過した。ユーゴスラビアが2位になり、勝点差1でパラグアイが3位になった。プレーオフが行われなかったのはこのグループだけである。
準々決勝でもフォンテーヌは2得点を決め、フランスは北アイルランドに4対0の大差で勝利した。西ドイツ代表のヘルムート・ラーンは決勝点となる1得点を決め、ユーゴスラビアを1対0で下すのに貢献した。スウェーデンは2対0でソ連に勝利した。ブラジル対ウェールズではペレが得点を決め1対0でブラジルは準決勝に進出した。
準決勝でスウェーデンは西ドイツを3対1で下し、決勝に進出した。フランス対ブラジル戦ではフォンテーヌが1得点を決めたが、ペレがハットトリックを決め、5対2と一方的な展開となった。3位決定戦でジュスト・フォンテーヌは4得点を決めて、西ドイツを6対3で下し、この大会での通算得点数を13とし、得点王となった。この記録は現在でも破られていない。
決勝戦はソルナのロースンダ・スタディオンで行われ、約5万人が観戦した。開始わずか4分でスウェーデンは1得点を決めリードを奪ったが、ババが即座に1点を決めて追いつき、ハーフタイム前に1得点を決めて、ブラジルが逆転した。後半はペレが支配して2得点を決め、チームメートのマリオ・ザガロが合間に1得点を決めて、完全に試合を決めた。スウェーデンは1得点を返したものの、終わってみれば準決勝と同じ5対2であり、ブラジルは初めてジュール・リメ杯を手にした。欧州開催の大会で南米勢が優勝した、唯一の大会となっている。
会場一覧
| サンドヴィク | エスキルストーナ | ソルナ (ストックホルム郊外) |
マルメ | ヘルシンボリ | ノーショーピング |
|---|---|---|---|---|---|
| イェルンファーレン | トゥナファーレン | ロースンダ・スタディオン | マルメ・スタディオン | オリンピア・スタディウム | ノーショーピング・イドロッツパルク |
| 収容人数: 20,000 | 収容人数: 22,000 | 収容人数: 52,400 | 収容人数: 30,000 | 収容人数: 27,000 | 収容人数: 20,000 |
| ヨーテボリ | ボロース | ハルムスタッド | エレブルー | ウッデバラ | ヴェステロース |
| ウレヴィ・スタディオン | リャファーレン | オーリャンズ・ヴァル | エイラファーレン | リムネルスファーレン | アロスファーレン |
| 収容人数: 53,500 | 収容人数: 15,000 | 収容人数: 15,000 | 収容人数: 13,000 | 収容人数: 17,778 | 収容人数: 10,000 |
結果
グループリーグ
グループ 1
| 順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 4 | 3 | 1 | 2 | 0 | 7 | 5 | +2 | |
| 2 | 3 | 3 | 1 | 1 | 1 | 4 | 5 | -1 | |
| 3 | 3 | 3 | 1 | 1 | 1 | 8 | 4 | +4 | |
| 4 | 2 | 3 | 1 | 0 | 2 | 5 | 10 | -5 |
プレーオフ
グループ 2
| 順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 4 | 3 | 2 | 0 | 1 | 11 | 7 | +4 | |
| 2 | 4 | 3 | 1 | 2 | 0 | 7 | 6 | +1 | |
| 3 | 3 | 3 | 1 | 1 | 1 | 9 | 12 | -3 | |
| 4 | 1 | 3 | 0 | 1 | 2 | 4 | 6 | -2 |
| フランス |
7 - 3 | |
|---|---|---|
| フォンテーヌ ピアントニ ウィスニェスキ コパ ヴァンサン |
レポート | アマリージャ ロメロ |
グループ 3
| 順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 5 | 3 | 2 | 1 | 0 | 5 | 1 | +4 | |
| 2 | 3 | 3 | 0 | 3 | 0 | 2 | 2 | 0 | |
| 3 | 3 | 3 | 1 | 1 | 1 | 6 | 3 | +3 | |
| 4 | 1 | 3 | 0 | 1 | 2 | 1 | 8 | -7 |
プレーオフ
グループ 4
| 順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 5 | 3 | 2 | 1 | 0 | 5 | 0 | +5 | |
| 2 | 3 | 3 | 1 | 1 | 1 | 4 | 4 | 0 | |
| 3 | 3 | 3 | 0 | 3 | 0 | 4 | 4 | 0 | |
| 4 | 1 | 3 | 0 | 1 | 2 | 2 | 7 | -5 |
プレーオフ
決勝トーナメント
| 準々決勝 | 準決勝 | 決勝 | ||||||||
| 6月19日 | ||||||||||
| 4 | ||||||||||
| 6月24日 | ||||||||||
| 0 | ||||||||||
| 2 | ||||||||||
| 6月19日 | ||||||||||
| 5 | ||||||||||
| 1 | ||||||||||
| 6月29日 | ||||||||||
| 0 | ||||||||||
| 5 | ||||||||||
| 6月19日 | ||||||||||
| 2 | ||||||||||
| 2 | ||||||||||
| 6月24日 | ||||||||||
| 0 | ||||||||||
| 3 | ||||||||||
| 6月19日 | ||||||||||
| 1 | 3位決定戦 | |||||||||
| 1 | ||||||||||
| 6月28日 | ||||||||||
| 0 | ||||||||||
| 6 | ||||||||||
| 3 | ||||||||||
準々決勝
準決勝
3位決定戦
決勝
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
優勝国
| 1958 FIFAワールドカップ優勝国 |
|---|
ブラジル 初優勝 |
得点ランキング
| 順位 | 選手名 | 国籍 | 得点数 |
|---|---|---|---|
| 1 | ジュスト・フォンテーヌ | 13 | |
| 2 | ヘルムート・ラーン | 6 | |
| ペレ | |||
| 4 | ババ | 5 | |
| ピーター・マクパーランド | |||
| 6 | ティヒ・ラヨシュ | 4 | |
| アグネ・シモンソン | |||
| クルト・ハムリン | |||
| ズデネク・ジカーン |
脚注
- ^ 旧ドイツ時代を含む。
外部リンク
1958 FIFAワールドカップ
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「ニコライ・ガブリロヴィッチ・ラティシェフ」の記事における「1958 FIFAワールドカップ」の解説
1958 FIFAワールドカップでは2試合で審判を担当した。 グループリーググループ3: スウェーデン代表対メキシコ代表 グループリーググループ3プレーオフ: ウェールズ代表対ハンガリー代表
※この「1958 FIFAワールドカップ」の解説は、「ニコライ・ガブリロヴィッチ・ラティシェフ」の解説の一部です。
「1958 FIFAワールドカップ」を含む「ニコライ・ガブリロヴィッチ・ラティシェフ」の記事については、「ニコライ・ガブリロヴィッチ・ラティシェフ」の概要を参照ください。
「1958 FIFAワールドカップ」の例文・使い方・用例・文例
- 父は1958年にオックスフォードを出た
- 1958年の夏にそのピアニストは衝撃的な凱旋を行った
- 1958年の中頃に
- パレスチナ国家の建設に向けて取り組むために1958年にヤセル・アラファトによって設立されたパレスチナの政治で軍の組織
- 米国の風刺小説の作家(1879年−1958年)
- 米国のブルース音楽家で、伝統的ブルース音楽を編曲し発表した(1873年−1958年)
- 米国の歌手で、4人の兄弟といっしょに歌い始め、その後1980年代に非常に成功したスターになった(1958年生まれ)
- スペイン人の叙情詩人(1881年−1958年)
- イタリア人の1958年から1963年までの教皇で、第2バチカン公会議を召集した(1881年−1963年)
- 米国の電気技術者で、数々の自動車の改良(電気スターターを含む)を行った(1876年−1958年)
- ハンガリーの振付師で、ラバン式ダンス表記法を開発した(1879年−1958年)
- 米国の物理学者で、サイクロトロンを開発した(1901年−1958年)
- 1980年代の米国のポップ歌手でセックスシンボル(1958年生まれ)
- 英国の哲学者(1873年−1958年)
- 英国人の詩人(1880年−1958年)
- 米国の物理学者(オーストリア生まれ)で、排他原理(その結果、周期表の理論的基礎を提供する)を提案した(1900年−1958年)
- 教皇で、第二次世界大戦中は中立を維持し、ヒットラーに迫害されたユダヤ人を助けなかったことで後に批判された(1876年−1958年)
- アイルランド人の劇作家で、ダブリンの劇場のマネージャー(1886年−1958年)
- ユーコン領域での生活について書いたカナダの作家(イングランド生まれ)(1874年−1958年)
- 産児制限運動家で、1921年にロンドンで最初の避妊クリニックを開いた(1880年−1958年)
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