1998 FIFAワールドカップ・予選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/17 10:10 UTC 版)
1998 FIFAワールドカップ・予選 | |
---|---|
大会概要 | |
日程 | 1996年3月10日 – 1997年11月29日 |
チーム数 | 174 (6連盟) |
大会統計 | |
試合数 | 643試合 |
ゴール数 | 1922点 (1試合平均 2.99点) |
得点王 | ![]() (19点) |
← 1994
2002 →
|
1998 FIFAワールドカップの予選には、174のナショナルチームが参加した。本大会に出場できるのは32チームで、初出場したのは日本、クロアチア、ジャマイカ、南アフリカ。予選を免除されたのは開催国のフランスと前回優勝国のブラジル。
今予選から、勝利時の勝ち点は「3」となった[1]。
出場枠
ヨーロッパ
(UEFA) |
南米
(CONMEBOL) |
北中米カリブ海
(CONCACAF) |
アフリカ
(CAF) |
アジア
(AFC) |
オセアニア
(OFC) |
合計
|
|
本大会 出場枠 |
15
|
5
|
3
|
5
|
3.5
|
0.5
|
32
|
各大陸予選
- ヨーロッパ(UEFA) - 出場枠:14+開催国
-
開催国 -
フランス
-
グループ1 -
デンマーク
-
グループ2 -
イングランド
-
グループ3 -
ノルウェー
-
グループ4 -
オーストリア
-
グループ5 -
ブルガリア
-
グループ6 -
スペイン
-
グループ7 -
オランダ
-
グループ8 -
ルーマニア
-
グループ9 -
ドイツ
-
ワイルドカード -
スコットランド
-
プレーオフ -
クロアチア、
イタリア、
ベルギー、
ユーゴスラビア
- 南米(CONMEBOL) - 出場枠:4+前回優勝国
-
前回優勝 -
ブラジル
-
予選突破 -
アルゼンチン、
パラグアイ、
コロンビア、
チリ
- 北中米カリブ海(CONCACAF) - 出場枠:3
-
予選突破 -
アメリカ合衆国、
メキシコ、
ジャマイカ
- アフリカ(CAF) - 出場枠:5
-
グループ1 -
ナイジェリア
-
グループ2 -
チュニジア
-
グループ3 -
南アフリカ共和国
-
グループ4 -
カメルーン
-
グループ5 -
モロッコ
- アジア(AFC) - 出場枠:3.5
-
グループ1 -
サウジアラビア
-
グループ2 -
韓国
-
プレーオフ -
日本
-
大陸間プレーオフ進出 -
イラン
- オセアニア(OFC) - 出場枠:0.5
-
大陸間プレーオフ進出 -
オーストラリア
大陸間プレーオフ
本大会出場チーム

チーム | 出場回数 | 連続出場回数 | 前回出場年 |
---|---|---|---|
![]() |
12 | 7 | 1994 |
![]() |
7 | 1 | 1990 |
![]() |
10 | 5 | 1994 |
![]() |
16 | 16 | 1994 |
![]() |
7 | 2 | 1994 |
![]() |
4 | 3 | 1994 |
![]() |
7 | 1 | 1982 |
![]() |
4 | 3 | 1994 |
![]() |
1 | 1 | - |
![]() |
2 | 1 | 1986 |
![]() |
10 | 1 | 1990 |
![]() |
10 | 1 | 1986 |
![]() |
14[2] | 12[2] | 1994 |
![]() |
2 | 1 | 1978 |
![]() |
14 | 10 | 1994 |
![]() |
1 | 1 | - |
![]() |
1 | 1 | - |
![]() |
5 | 4 | 1994 |
![]() |
11 | 2 | 1994 |
![]() |
4 | 2 | 1994 |
![]() |
7 | 3 | 1994 |
![]() |
2 | 2 | 1994 |
![]() |
3 | 2 | 1994 |
![]() |
5 | 1 | 1986 |
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7 | 3 | 1994 |
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2 | 2 | 1994 |
![]() |
8 | 1 | 1990 |
![]() |
1 | 1 | - |
![]() |
10 | 6 | 1994 |
![]() |
2 | 1 | 1978 |
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6 | 3 | 1994 |
![]() |
9 | 1 | 1990 |
脚注
外部リンク
1998 FIFAワールドカップ予選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 23:57 UTC 版)
「ポール・ガスコイン」の記事における「1998 FIFAワールドカップ予選」の解説
欧州選手権終了後にヴェナブルズの後任としてグレン・ホドルが監督に就任したが、引き続き代表に招集され、ワールドカップ・フランス大会予選に出場。1997年10月11日に敵地のローマで行われたイタリア戦は0-0の引分けに終わったが、この試合の結果により予選グループ首位で本大会出場を決めた。自身はこの試合を選手キャリアにおいて最高のパフォーマンスを発揮した試合の一つに挙げている。翌1998年の本大会に向けた28人の代表候補に選ばれ、同年5月のスペイン合宿に参加したが、ホドルはガスコインの体調と精神面を懸念して大会直前にメンバーから外す決定を下した。 ガスコインを欠いたイングランド代表は決勝トーナメントに進出したが、アルゼンチンに敗れてベスト16で敗退。この結果について当時のチームメイトだったデビッド・ベッカムは2003年に出版した自伝の中で「ガッザがいれば違った結果になっていたかもしれない。ガッザなら彼にしか為し得ない何かをチームにもたらしたはず」と発言している。その後、代表チームに招集される機会はなく、1998年5月29日に行われたベルギーとの親善試合が最後の試合出場となった。イングランド代表での通算成績は国際Aマッチ57試合出場10得点。
※この「1998 FIFAワールドカップ予選」の解説は、「ポール・ガスコイン」の解説の一部です。
「1998 FIFAワールドカップ予選」を含む「ポール・ガスコイン」の記事については、「ポール・ガスコイン」の概要を参照ください。
「1998 FIFAワールドカップ・予選」の例文・使い方・用例・文例
- 1998年6月23日にいなくなるまで彼女はオークランドに住んでいた
- 彼女は1998年までスペインに住んだ
- ベンチャー企業を対象とした第2店頭株市場は1995年に創設され、1998年に廃止された。
- その病気は最近では1998年に大流行した。
- 彼らは 1998 年の冬季オリンピック大会を長野に招致しようと決議した.
- このクレジットカードは 1998 年 3 月いっぱいまで有効です.
- 軍艦は1998年に使用を中止された
- エジプト、アルジェリア、パキスタン、バングラデシュで上部機構をアルカイダと他の武装組織に提供した1998年にウサマ・ビンラディンによって組織されたテロリストグループ
- (表面上セキュリティ理由のために)1998年に首都とされたカザフスタンの人里離れた都市
- 米国の政治家で、ロサンゼルス初の黒人市長に選出された(1917年−1998年)
- アメリカ人の心理学者(イングランド生まれ)で、多変量研究に基づいた人間行動の広い理論を展開した(1905年−1998年)
- 米国の生化学者で、白血病と痛風の治療薬を開発したことで知られる(1905年−1998年)
- 英国の生理学者で、アンドリュー・ハックスレーとともに、神経インパルスの伝達でのカリウムとナトリウム原子の役割を発見した(1914年−1998年)
- 日本の映画製作者で、日本の民間伝承と、西洋のスタイルの演出法を一体化させたことで知られる(1910年−1998年)
- 米国の俳優(1914年−1998年)
- 米国のテニス・プレーヤーで、1920年代と1930年代に女子テニスの中心であった(1905年−1998年)
- 米国の振り付け師で、クラシックバレエに人間らしい感情をもたらし、ブロードウェイ・ミュージカルを現実的に活気付けた(1918年−1998年)
- 宇宙飛行士で、1961年に初めて米国の準軌道飛行用ロケットで飛行をした(1923年−1998年)
- 米国の歌手で映画俳優(1915年−1998年)
- 米国の小児科医で、保育に関する多くの本が世界の周りの子供のしつけに影響を及ぼした(1903年−1998年)
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