1982_FIFAワールドカップとは? わかりやすく解説

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1982 FIFAワールドカップ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/13 14:46 UTC 版)

1982 FIFAワールドカップ: 1982 FIFA World Cup)は、1982年6月13日から1982年7月11日にかけてスペインで開催された12回目のFIFAワールドカップ。芸術の国にふさわしく、大会ポスターはパブロ・ピカソと並ぶ巨匠であるジョアン・ミロが作成し、開会式はミロの絵をピッチに人文字で描くというものであった。この大会から、初めて国際サッカー連盟(FIFA)がワールドカップ本大会全24出場国に1次リーグ毎に計100万スイス・フラン(当時約1億2083万3千円)ずつ、総額4200万スイスフラン(当時約50億7498万6千円)の賞金を支給した[1]。FIFA本部がスイスチューリッヒにあるため、スイスフラン建てで賞金を支払った[2]。以降、賞金は2006年ドイツ大会までスイスフラン建てで支払った。得点王は、6ゴールを挙げたイタリアパオロ・ロッシが受賞した。


  1. ^ 2014 FIFAワールドカップ statistical kit-FIFA公式HP、2014年5月20日
  2. ^ 週刊サッカーマガジンNO.1256 2009年9月15日号
  3. ^ 旧ドイツ時代を含む。
  4. ^ a b c W伝説1_80 2010, p. 97.
  5. ^ 後に脊髄を折る重傷であったことが判明した。
  6. ^ a b 勝負の鍵を握るのは11メートルの戦い? W杯におけるPK戦のデータをおさらい”. サッカーキング (2018年6月30日). 2018年9月20日閲覧。
  7. ^ イングランド、W杯史上初のPK戦勝利。4度目の挑戦で負の歴史に終止符【ロシアW杯】”. フットボールチャンネル (2018年7月4日). 2018年9月20日閲覧。
  8. ^ なお、ファハド王子は2008年北京オリンピックのハンドボール競技で無効とされたアジア予選を仕切っていたアジアハンドボール連盟会長であるアフマド王子の父であり、同連盟の初代会長でもある。


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1982 FIFAワールドカップ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/05 12:39 UTC 版)

アルナウド・ダヴィド・セザル・コエリョ」の記事における「1982 FIFAワールドカップ」の解説

1982 FIFAワールドカップでは2試合審判担当した2次リーググループB: 西ドイツ代表イングランド表 決勝戦: イタリア代表対西ドイツ代表

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1982 FIFAワールドカップ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:38 UTC 版)

死の組」の記事における「1982 FIFAワールドカップ」の解説

メキシコでは、1982年スペイン開催された1982 FIFAワールドカップの際も死の組という表現用いられた。2次リーググループC前回大会優勝アルゼンチン2度優勝を誇るイタリア3度優勝を誇るブラジル集ったが、3ヶ国の中で準決勝進出できるのはわずか1ヶ国であった。第1戦ではイタリアが、第2戦ではブラジルアルゼンチン勝利し第3戦は突破懸けたイタリアブラジル直接対決となったイタリアリードしてブラジル追いつくという展開が2度続いたが、パオロ・ロッシハットトリックイタリア3-2勝利し準決勝進出決めたイタリア準決勝ポーランドを、決勝西ドイツ下し3回目優勝飾った。 1982 FIFAワールドカップ 2次リーグ グループCイタリアブラジルアルゼンチン得点失点勝ち点 イタリア3-2 2-1 5 3 4 ブラジル 2-33-1 5 4 2 アルゼンチン 1-2 1-32 5 0

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1982 FIFAワールドカップ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:14 UTC 版)

ディエゴ・マラドーナ」の記事における「1982 FIFAワールドカップ」の解説

アルゼンチン代表は1978年大会優勝メンバーマラドーナディアスユース世代加え、1982 FIFAワールドカップに出場した21歳マラドーナ10番付けて出場し第1ラウンド2戦目のハンガリー戦でワールドカップ初ゴールを含む2得点挙げた第2ラウンド初戦イタリア戦では、「殺し屋」ことクラウディオ・ジェンティーレ徹底的にマークされた。続くブラジル戦では味方選手ファウル受けた際、マラドーナバチスタ下腹部蹴り報復行為レッドカード受けたマラドーナブラジルの「黄金の中盤」のパス回し翻弄されており、本当パウロ・ロベルト・ファルカンに対して怒っていたと述べている。チーム1-3敗れ大会を去ることになった

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1982 FIFAワールドカップ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:56 UTC 版)

FIFAワールドカップ開催国」の記事における「1982 FIFAワールドカップ」の解説

候補国: スペイン 西ドイツ イタリア スペイン西ドイツは、1974年1982年双方開催となるよう協力体制取っており、ここでは西ドイツ辞退したことで、スペイン無投票開催国選ばれた。 投票結果: スペイン 西ドイツ辞退1974年開催に絞る) イタリア辞退

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1982 FIFAワールドカップ

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ミシェル・プラティニ」の記事における「1982 FIFAワールドカップ」の解説

エトリ ボッシ ジャンヴィオン トレゾール アモロス ジレス ティガナ ジャンジニ プラティニ ロシュトー シクス 1982 FIFAワールドカップ準決勝西ドイツ戦のスタメン1982年6月の本大会で1次リーグイングランドクウェートチェコスロバキアと同じ組となった初戦イングランド戦ではプラティニ精彩欠き 1-3敗れたが、第2戦のクウェート戦では回復し、ジレス、ジャンジニの揃った中盤率いてクウェート4-1勝利第3戦のチェコスロバキア戦は1-1引分けグループ2位2次リーグ進出果たした2次リーグでは初戦オーストリア戦は太股肉離れ回復していなかったため欠場した が、代わって出場したティガナが好調なプレー見せた。このことでフランスのメディアの間では「体調万全ではないプラティニ諦めるべきではないか」との意見多数占めた監督イダルゴ悩んだ末にプラティニ、ジレス、ジャンジニ、ティガナの4人を中盤同時に起用する道を選択した2次リーグ最終戦北アイルランド戦では4人のパスワーク中盤制圧するだけでなく、チャンスと見るとゴール前に飛び出す流動的なサッカー4-1勝利し準決勝進出。この試合復活果たしたことでメディアからの批判封じ込めた。 準決勝西ドイツ戦は17分に先制点許した10分後の27分に味方選手ペナルティエリア内で倒され獲得したPKプラティニ決め1-1同点とした。試合1-1スコアのまま延長戦へと突入したが、プラティニとジレスが変わらず好調維持延長前半2分にジレスのパスからトレゾールがシュート決めて勝ち越し延長前半12分にはプラティニパスからジレスがシュート決め3-12点差に突き放したここから西ドイツ反撃にあい3-3同点のまま決着はつかず、ワールドカップ史上初のPK戦 の末に4-5敗れた3位決定戦では他の主力選手と共に欠場 しポーランド敗れ4位となった20代中盤選手として円熟期迎えたプラティニ中心としたポゼッションサッカーは、同じく、この大会席巻したブラジルと共に高い評価得たブラジル中盤黄金の4人(クワトロ・オーメン・ジ・オーロ)と呼ばれたのに対しフランスのメディアは、この時の中盤アレクサンドル・デュマ三銃士準え四銃士」と呼んだ

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