1994 FIFAワールドカップ・予選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/01 02:59 UTC 版)
1994 FIFAワールドカップ・予選 | |
---|---|
大会概要 | |
日程 | 1992年3月21日 - 1993年11月17日 |
チーム数 | 147 (6連盟) |
大会統計 | |
試合数 | 497試合 |
ゴール数 | 1446点 (1試合平均 2.91点) |
得点王 | ![]() |
← 1990
1998 →
|
1994 FIFAワールドカップの予選について本項では述べる。
当初147チームが参加を表明し、このうち、開催国のアメリカ合衆国と前回優勝国のドイツは予選を経ずに本大会出場権を獲得。残る22枠が予選により争われた。実際に予選に参加したのは130チームであった。
出場枠
(CAF) |
(UEFA) |
(CONMEBOL) |
(CONCACAF) |
(AFC) |
(OFC) |
|
|
本大会 出場枠 |
3 | 13 | 3.5 | 2.25 | 2 | 0.25 | 24 |
各大陸予選
- ヨーロッパ予選 - 出場枠:12+前回優勝国
- グループ1:イタリア・スイスが予選通過
- グループ2:ノルウェー・オランダが予選通過
- グループ3:スペイン・アイルランドが予選通過
- グループ4:ルーマニア・ベルギーが予選通過
- グループ5:ギリシャ・ロシアが予選通過
- グループ6:スウェーデン・ブルガリアが予選通過
- 南米予選 - 出場枠:3.5
- グループ1:コロンビアが予選通過 / 大陸間プレーオフ進出:アルゼンチン
- グループ2:ブラジル・ボリビアが予選通過
- 北中米カリブ海予選 - 出場枠:1.25+開催国
- メキシコが予選通過 / 大陸間プレーオフ進出:カナダ
- アフリカ予選 - 出場枠:3
- グループ1:ナイジェリアが予選通過
- グループ2:モロッコが予選通過
- グループ3:カメルーンが予選通過
- アジア予選 - 出場枠:2
- サウジアラビア・大韓民国が予選通過
- オセアニア予選 - 出場枠:0.25
- 大陸間プレーオフ進出:オーストラリア
大陸間プレーオフ
大陸間プレーオフでは、まず出場枠に「0.25」の付いている組み合わせ(北中米カリブ海予選2位チーム 対 オセアニア予選優勝チーム)で対戦を行い、続いてその勝者と南米予選の大陸間プレーオフ進出チームで対戦を行う。
CONCACAF/OFC
CONCACAF・OFC/CONMEBOL
アルゼンチンが本大会出場権を獲得した。
その他
- アジア予選最終予選で日本は、最終戦のロスタイムでの失点もあって僅差で3位に転落し、本大会出場を逃した(ドーハの悲劇)。
- また欧州予選グループ6では、フランスが最終戦の試合終了間際でブルガリアにゴールを奪われ、ブルガリアに本大会出場権を奪われる結果となった(パリの悲劇)。
- 欧州予選グループ2では、サンマリノが大きく格上のイングランドに対し、試合開始後8.3秒で1ゴールを決めるという珍事が起きた。ただし試合はイングランドが7-1で勝利している[1]。
- 南米予選グループ2のブラジルはこの予選で、ワールドカップの予選としては初めての敗北を喫した(ボリビアに0-2で敗戦)。またグループ1のコロンビアはアルゼンチン相手にアルゼンチンホームの試合で5-0と大勝し、最終的にもグループ1を1位通過で決めている。
- アフリカ予選最終予選グループ2の初戦、セネガルに向かうザンビアの選手を乗せた飛行機が墜落、ほとんどの代表選手を失うというガボン航空惨事が起きた。しかしそれでも新しい選手が善戦し、最終的にはグループ首位のモロッコに勝ち点1差まで迫る結果であった。
外部リンク
1994 FIFAワールドカップ予選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/01 04:37 UTC 版)
「ポール・マーソン」の記事における「1994 FIFAワールドカップ予選」の解説
マーソンは敗退となった1994 FIFAワールドカップ予選にも引き続き招集された。1-1で引き分けた緒戦のノルウェー代表戦に出場し、2戦目のオランダ代表戦にも負傷したポール・ガスコインと交代で出場した。試合は終盤にPKを与えてしまい2-2の引き分けに終わった。1993年に開催されたUSカップのブラジル代表戦とドイツ代表戦に出場し、ドイツ代表戦では1-2とリードされている終盤に20ヤードの距離からシュートを放ったが、ボド・イルクナーに止められてしまった。1993年10月13日に行われたワールドカップ予選のオランダ代表戦では先制ゴールを奪われた後に同点となるチャンスを得たが、マーソンが放ったフリーキックはポストに弾かれた。 予選敗退後のイングランド代表監督にはテリー・ヴェナブルズが就任したが、ヴェナブルズはマーソンについてはその大量に飲酒をする生活習慣からチームには含まれないと話した。マーソンは自叙伝『How Not to be a Professional Footballer』の中でUSカップのためにシカゴ滞在中に起こった出来事についてこう記述している。飲酒後に一人で街の中の脇道に逸れ、危険なエリアに入り込んでしまったマーソンは酩酊状態であったが、ケンカの仲裁を試みた。しかし、マーソンに対して相手は敵意を向けてきたため、マーソンはホテルに逃げ帰った。翌朝にFBIがホテルに訪れ、選手たちにこの街の危険性について説明したが、FBIの面々はマーソンが無傷で戻ってきたことに対して驚きを示した。
※この「1994 FIFAワールドカップ予選」の解説は、「ポール・マーソン」の解説の一部です。
「1994 FIFAワールドカップ予選」を含む「ポール・マーソン」の記事については、「ポール・マーソン」の概要を参照ください。
「1994 FIFAワールドカップ・予選」の例文・使い方・用例・文例
- 北米自由貿易協定は1994年に始まった。
- 商標法条約は1994年10月27日に採択された。
- 1994年度全米オープンテニス選手権大会.
- 1994年 6 月 25 日自筆署名捺印の上作成[発行].
- 1994年 (9 月)から 95 年 (6 月)までの学年.
- この法律は 1994 年 4 月 1 日に遡及する.
- 1994年にシンフェーン党の秘密の武装派としてアイルランドで形成されたテロ組織
- その市は1994年、共和党に投票した
- ナタールは1994年にクワズル・ナタールに改名された
- 英国の作家で、ドイツ生まれ(1905年−1994年)
- 米国の作家で、若い黒人青年とそのアメリカ社会での奮闘を描いた(1914年−1994年)
- 英国の化学者(エジプト生まれ)で、有機化合物の構造を研究するために結晶学を用いた(1910年−1994年)
- フランスの劇作家(ルーマニア生まれ)で、不条理劇の主要な主唱者(1912年−1994年)
- 南アフリカの政治家で、1994年に民主的に選出される最初の大統領になるため刑務所から釈放された(1918年生まれ)
- ギリシア人の映画女優(1925年−1994年)
- 英国の脚本家(1929年−1994年)
- 米国の化学者で、化学結合の性質を研究した(1901年−1994年)
- 英国の哲学者(オーストリア生まれ)で、科学理論が真実であることは決して証明できないが、それらを反証しようとすることで検証されると主張した(1902年−1994年)
- 米国の女優(イングランド生まれ)で、多くステージに、しばしば彼女の夫ヒューム・クローニンと一緒に出演した(1909年−1994年)
- オランダの経済学者で、計量経済学における業績で知られる(1903年−1994年)
- 1994_FIFAワールドカップ・予選のページへのリンク