1994 FIFAワールドカップ・アジア予選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 04:07 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動1994 FIFAワールドカップ・アジア予選は、アジア地区の1994 FIFAワールドカップ・予選である。アジアサッカー連盟(AFC)から30チーム(後に2チームが棄権)が参加した。出場枠は2。
- 1次予選
- 30チームを5チームずつ6グループに分け、各グループで2順の総当たり戦(ダブルセントラル方式)を実施。各グループ1位のチームが最終予選に進出する。
- 最終予選
- 進出した6チームが、カタール・ドーハでの集中開催方式で1順の総当たり戦を行う。上位2チームが本大会出場権を得る。
1次予選
グループA
国 | 勝点 | 試合数 | 勝 | 引分 | 敗 | 得点 | 失点 | 得失点差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
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13 | 8 | 6 | 1 | 1 | 28 | 4 | 24 |
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12 | 8 | 6 | 0 | 2 | 18 | 4 | 14 |
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8 | 8 | 3 | 2 | 3 | 12 | 13 | -1 |
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7 | 8 | 2 | 3 | 3 | 12 | 15 | -3 |
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0 | 8 | 0 | 0 | 8 | 2 | 36 | -34 |
グループB
開催地:1順目はイラン・テヘラン、2順目はシリア・ダマスカス
国 | 勝点 | 試合数 | 勝 | 引分 | 敗 | 得点 | 失点 | 得失点差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
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9 | 6 | 3 | 3 | 0 | 15 | 2 | 13 |
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9 | 6 | 3 | 3 | 0 | 14 | 4 | 10 |
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6 | 6 | 2 | 2 | 2 | 10 | 5 | 5 |
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0 | 6 | 0 | 0 | 6 | 3 | 31 | -28 |
ミャンマーは棄権。
グループC
国 | 勝点 | 試合数 | 勝 | 引分 | 敗 | 得点 | 失点 | 得失点差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
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15 | 8 | 7 | 1 | 0 | 19 | 6 | 13 |
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11 | 8 | 5 | 1 | 2 | 22 | 8 | 14 |
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10 | 8 | 5 | 0 | 3 | 12 | 12 | 0 |
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2 | 8 | 1 | 0 | 7 | 6 | 19 | -13 |
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2 | 8 | 1 | 0 | 7 | 4 | 18 | -14 |
グループD
開催地:1順目はレバノン・ベイルート、2順目は大韓民国・ソウル
国 | 勝点 | 試合数 | 勝 | 引分 | 敗 | 得点 | 失点 | 得失点差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
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15 | 8 | 7 | 1 | 0 | 23 | 1 | 22 |
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9 | 8 | 3 | 3 | 2 | 9 | 6 | 3 |
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8 | 8 | 2 | 4 | 2 | 8 | 9 | -1 |
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5 | 8 | 2 | 1 | 5 | 9 | 19 | -10 |
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3 | 8 | 1 | 1 | 6 | 8 | 22 | -14 |
グループE
開催地:1順目はマレーシア・クアラルンプール、2順目はサウジアラビア・リヤド
国 | 勝点 | 試合数 | 勝 | 引分 | 敗 | 得点 | 失点 | 得失点差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
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10 | 6 | 4 | 2 | 0 | 20 | 1 | 19 |
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8 | 6 | 3 | 2 | 1 | 21 | 4 | 17 |
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6 | 6 | 2 | 2 | 2 | 16 | 7 | 9 |
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0 | 6 | 0 | 0 | 6 | 1 | 46 | -45 |
ネパールは棄権。
グループF
開催地:1順目は日本・東京、2順目はアラブ首長国連邦・ドバイ
国 | 勝点 | 試合数 | 勝 | 引分 | 敗 | 得点 | 失点 | 得失点差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
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15 | 8 | 7 | 1 | 0 | 28 | 2 | 26 |
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13 | 8 | 6 | 1 | 1 | 19 | 4 | 15 |
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8 | 8 | 4 | 0 | 4 | 13 | 7 | 6 |
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4 | 8 | 2 | 0 | 6 | 7 | 28 | -21 |
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0 | 8 | 0 | 0 | 8 | 0 | 26 | -26 |
最終予選
国 | 勝点 | 試合数 | 勝 | 引分 | 敗 | 得点 | 失点 | 得失点差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
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7 | 5 | 2 | 3 | 0 | 8 | 6 | 2 |
![]() |
6 | 5 | 2 | 2 | 1 | 9 | 4 | 5 |
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6 | 5 | 2 | 2 | 1 | 7 | 4 | 3 |
![]() |
5 | 5 | 1 | 3 | 1 | 9 | 9 | 0 |
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4 | 5 | 2 | 0 | 3 | 8 | 11 | -3 |
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2 | 5 | 1 | 0 | 4 | 5 | 12 | -7 |
その他
- この最終予選で日本は、最終戦のイラク戦でロスタイムに同点に追いつかれたために、ワールドカップ初出場を逃している。(ドーハの悲劇を参照)
- 最終予選に進出した6か国のうち、イラク・イランの両国は当時、開催国であるアメリカ合衆国の経済制裁下にあったため、それらの国が本大会に出場した際の懸念を示す声もあった [1]。
- 最終予選の審判団は全て欧州サッカー連盟出身者で構成された[1]。この理由として、大会のゼネラル・コーディネーターを務めた国際サッカー連盟のハビエル・オテーロは「アジアの国同士の対戦は、どの国の審判がやっても微妙な問題がからむので難しい。たとえば、日本対イラクの試合をクウェートの審判が担当するのは、中立国とはいえ、大きな問題がある。ヨーロッパ人ならばそうしたプレッシャーはより少なくてすむはず」と説明した[1]。
出典
- ^ a b “No.26 レフェリーは大陸を超えて”. サッカーの話をしよう 大住良之オフィシャルアーカイブサイト (1993年10月26日). 2013年1月4日閲覧。
「1994 FIFAワールドカップ・アジア予選」の例文・使い方・用例・文例
- 北米自由貿易協定は1994年に始まった。
- 商標法条約は1994年10月27日に採択された。
- 1994年度全米オープンテニス選手権大会.
- 1994年 6 月 25 日自筆署名捺印の上作成[発行].
- 1994年 (9 月)から 95 年 (6 月)までの学年.
- この法律は 1994 年 4 月 1 日に遡及する.
- 1994年にシンフェーン党の秘密の武装派としてアイルランドで形成されたテロ組織
- その市は1994年、共和党に投票した
- ナタールは1994年にクワズル・ナタールに改名された
- 英国の作家で、ドイツ生まれ(1905年−1994年)
- 米国の作家で、若い黒人青年とそのアメリカ社会での奮闘を描いた(1914年−1994年)
- 英国の化学者(エジプト生まれ)で、有機化合物の構造を研究するために結晶学を用いた(1910年−1994年)
- フランスの劇作家(ルーマニア生まれ)で、不条理劇の主要な主唱者(1912年−1994年)
- 南アフリカの政治家で、1994年に民主的に選出される最初の大統領になるため刑務所から釈放された(1918年生まれ)
- ギリシア人の映画女優(1925年−1994年)
- 英国の脚本家(1929年−1994年)
- 米国の化学者で、化学結合の性質を研究した(1901年−1994年)
- 英国の哲学者(オーストリア生まれ)で、科学理論が真実であることは決して証明できないが、それらを反証しようとすることで検証されると主張した(1902年−1994年)
- 米国の女優(イングランド生まれ)で、多くステージに、しばしば彼女の夫ヒューム・クローニンと一緒に出演した(1909年−1994年)
- オランダの経済学者で、計量経済学における業績で知られる(1903年−1994年)
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