プロ入り前から現役引退まで
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「井原正巳」の記事における「プロ入り前から現役引退まで」の解説
水口町立貴生川小学校(現:甲賀市立貴生川小学校)でサッカーを始め、滋賀県立守山高等学校時代はフォワードであった。高校時代の2学年先輩に美濃部直彦がいる。高校卒業後は筑波大学へ進学して蹴球部に所属。大学1年時に当時のユース代表監督であった松本育夫の勧めでディフェンダーに転向した。筑波大学2年時に日本代表に選出され、1988年1月27日のアラブ首長国連邦との親善試合でAマッチ初出場を果たした。 筑波大学時代、当時ディフェンダーだった中山雅史とセンターバックでコンビを組んでいた。二人はユース代表でもセンターバックを務め、アルバイトも同じ所でするなど公私共に仲が良かった。 大学卒業後は日産自動車サッカー部(現:横浜F・マリノス)に入部、一時はボランチも経験したが、ディフェンダーとしてプレーした。1993年Jリーグ開幕節 (5月15日) のヴェルディ川崎戦に出場、同年5月29日のジェフユナイテッド市原戦ではJリーグのオウンゴール第1号を記録した。1994年5月4日のヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴール、1995年のチャンピオンシップ、ヴェルディ川崎戦の2ndレグではダイビングヘッドによる決勝ゴールを決め、マリノス初のJリーグ年間優勝に大きく寄与した。 1990 FIFAワールドカップ・アジア予選では朝鮮民主主義人民共和国に競り負け1次予選敗退。AFCアジアカップ1992ではグループリーグ最終戦のイラン戦で、敗退濃厚な中での終盤に起死回生となる三浦知良の決勝ゴールをアシストするなど、初のアジア制覇に貢献。1994 FIFAワールドカップ・アジア予選でも全試合に先発フル出場したが、あと一歩のところでW杯出場権を逃す「ドーハの悲劇」を経験した。94年アジア大会ではベスト8で敗退したが、その準々決勝の韓国戦では終盤に一時は同点となる目の覚めるようなスーパーロングシュートを決めた。95年に柱谷哲二が代表を退いて以降は、加茂周代表監督によってキャプテンに指名され、以降出場した試合すべてでキャプテンマークを巻いた。1998 FIFAワールドカップ・アジア予選最終予選では苦戦を強いられながらも、アウェイでのウズベキスタン戦でロングフィードから終了間際の呂比須ワグナーの同点ゴールをアシスト。最終節のカザフスタン戦で代表で最後となるゴールを決め第3代表決定戦進出に貢献すると、イラン代表と決戦を制し、日本のW杯初出場へ導いた。3戦全敗となった1998 FIFAワールドカップでは、大会直前に負傷したが、キャプテンとして 全試合に先発フル出場した。1999年、コパアメリカではグループリーグの2試合に出場したが、ボリビア戦で 後半83分に、この試合で2度目の警告を受けて退場処分になった。次の代表戦となったイラン戦は出場停止であったが、トルシエ監督は出場停止であるという理由のみで招集しなかった訳ではないとコメント、以降再び招集されることはなかった。 前身の日産時代から10シーズンをマリノスでプレーし「ミスターマリノス」とまで言われたが、松田直樹との世代交代策によるマリノスからのコーチ就任要請を蹴って、2000年にジュビロ磐田へ移籍。更に2001年からは、以前日本代表で共に戦った福田正博が在籍していた浦和レッドダイヤモンズにも移籍した。5月19日のガンバ大阪戦での移籍後初ゴールは、現役最後のゴールとなった。同年行われた2002年W杯1次リーグの組み合わせ抽選会ではアジア代表としてドロワーを務めた。 2002年のJリーグ最終節、古巣横浜F・マリノス戦で戦で先発フル出場をしたのを最後に、チームメイトの福田正博と共に現役を引退した。Jリーグ通算297試合、5得点。2004年1月4日、国立競技場で引退試合が開催され、この時ゴールを決めた。
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