プロ入り前・現役時代
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実家は魚屋。5人兄弟の長男で、叔父は徳島県弁護士会の副会長であった。上田の徳島の実家のすぐ近くには、高校の後輩となる元西鉄選手でプロゴルファーの尾崎将司、その実弟でゴルファーの健夫・直道の実家があった。海南高校時代から捕手で、3年次の1954年には夏の甲子園県予選で準々決勝に進出するが、撫養高に惜敗。学業成績も優秀で、高校時代は野球の練習と生徒会の活動を同時に行いつつ、毎朝しっかりと勉強していたため、睡眠時間は4時間程度であったという。担任からは「野球なんかやらずに、東大へ行って弁護士になれ」と勧められ、上田も高校卒業後の1955年、弁護士になるつもりで関西大学二部法学部に進学。関西大には学校推薦で無試験で進学するよう薦められたが、上田はそれを断り筆記試験に臨んだところ、400点満点の入試で実力で合格に十分な298点を取ったところに野球推薦での+100点のボーナスを加えた結果398点となり、受験生全体でダントツの成績になってしまったという。野球部では村山実とバッテリーを組んで活躍し、関西六大学野球リーグでは4度の優勝を経験。2年次の1956年には全日本大学野球選手権大会に出場。1年上の三塁手、難波昭二郎ら強力打線の活躍もあり、決勝で島津四郎・人見武雄らのいた日大を降し、西日本の大学としては初の優勝を飾る。3年次の1957年、4年次の1958年の同大会では、全盛期の立大にいずれも準決勝で敗退。リーグ通算68試合に出場し、258打数66安打、打率.256、1本塁打の記録を残した。学生時代から大変な勉強家で、読書量も豊富で学生時代にはナポレオン・ボナパルトの著作を全て読破していた。 プロ入りには消極的であったが、「東洋工業からの出向社員として3、4年プレーし、その後は東洋工業で」との条件を出して熱心に口説いた広島カープの誘いに応じ、大学卒業後の1959年に入団。プロ入りしたものの弁護士の夢も捨ててはおらず、1年目の同年は日南キャンプに六法全書を持ち込んで野球の練習の合間に法律の勉強もした。開幕後は田中尊・川原政数と併用され、53試合に捕手として先発出場。正捕手の田中を脅かす存在となり、長谷川良平など主力投手の評価も高かったが、右肩を壊す。2年目の1960年には川原、新人の西山弘二などの捕手も台頭して出場機会が減少し、3年目の1961年限りで現役を引退。
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