バーティー・ピーコックとは? わかりやすく解説

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バーティー・ピーコック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/27 02:24 UTC 版)

バーティー・ピーコック
ピーコックの像(コールレーン)
基本情報
国籍 北アイルランド
生年月日 (1928-09-29) 1928年9月29日
出身地 コールレーン
没年月日 (2004-07-22) 2004年7月22日(75歳没)
身長 168cm[1]
代表歴
1949-1961 北アイルランド 31 (2)
1955 イギリス 1 (0)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

バーティー・ピーコック英語: Bertie Peacock, 1928年9月29日 - 2004年7月22日)は、北アイルランドロンドンデリー州コールレーン出身のサッカー選手、サッカー指導者。元北アイルランド代表選手、同監督。1955年にはイギリス代表にも選出された。

来歴

1947年5月16日、生まれ故郷のクラブであるコールレーンの選手として、Connor Cup決勝の第2戦でプロデビューを果たした。チームは4-1でバリーメナ・ユナイテッドに勝利した。その後、グレントランへ移籍し、1949年にはセルティックへ移籍した。1957年、ハムデン・パークで行われたスコティッシュリーグカップ決勝でレンジャーズに7-1の記録的大差で勝利した試合で主将を務めた。セルティックでは450試合以上に出場し、スコティッシュリーグ・ディビジョンAスコティッシュカップでも優勝を果たした。北アイルランド代表としても、中心選手として1958 FIFAワールドカップで準々決勝に進出したチームを支え、「小さな蟻」(The Little Ant)と呼ばれた。北アイルランド代表では31試合に出場し、2得点を記録した。[1][2][3]

1961年、グリノック・モートンブラックプールからのオファーを断り、選手兼監督としてセルティックからコールレーンへ移籍した。監督として1965年にアイリッシュカップ初優勝、1972年に2回目の優勝を果たし、1974年にはアイリッシュ・フットボールリーグ初優勝を果たした。選手としてはコールレーンで通算359試合31得点を記録した。1962年から1967年の間は北アイルランド代表監督も務め、1964年にジョージ・ベストパット・ジェニングスを代表デビューさせた。コールレーン監督を退任後は長年に渡り、クラブの副会長を務めた。[1][2][3]

過去にジョナサン・スペクターポール・スコールズウェイン・ルーニーなども参加したミルクカップの創設者の一人である[1][2][3]

1986年、大英帝国勲章(MBE)を受章した[2]

2004年7月22日(木曜日)、75歳で亡くなった[1][2][3]

所属クラブ

監督歴

脚注

  1. ^ a b c d e Tributes paid to Peacock”. UEFA.org (2004年7月25日). 2015年9月9日閲覧。(英語)
  2. ^ a b c d e Bertie Peacock”. Coleraine Football Club. 2015年9月9日閲覧。(英語)
  3. ^ a b c d Football Irish NI great Peacock dies”. BBC SPORT (2004年7月22日). 2015年9月9日閲覧。(英語)
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