ロベルト・プルッツォとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ロベルト・プルッツォの意味・解説 

ロベルト・プルッツォ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/01 02:55 UTC 版)

ロベルト・プルッツォ
名前
愛称 Il Bomber[1]、O Rei di Crocefieschi[1]
ラテン文字 Roberto Pruzzo
基本情報
国籍 イタリア
生年月日 (1955-04-01) 1955年4月1日(68歳)
出身地 クロチェフィエスキ
身長 178cm
選手情報
ポジション FW
ユース
1971-1973 ジェノアCFC
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1973-1978 ジェノアCFC 143 (57)
1978-1988 ASローマ 240 (106)
1988-1989 ACFフィオレンティーナ 13 (1)
代表歴2
1978-1982 イタリア 6 (0)
監督歴
1998-1999 ヴィアレッジョ
1999-2000 テーラモ
2000-2001 アレッサンドリア
2002 パレルモ
2004-2005 フォッジャ (アシスタント)
2005-2006 サンベネデッテーゼ (アシスタント)
2008-2009 SSDチェントブキ
2009 ジェノアCFC (ユース)
1. 国内リーグ戦に限る。年月日現在。
2. 年月日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ロベルト・プルッツォ(Roberto Pruzzo,1955年4月1日 - )は、イタリアリグーリア州ジェノヴァ県クロチェフィエスキ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。空中戦の強さを活かして多くのゴールを挙げ、同世代ではイタリア最高のストライカーの一人とされ、ASローマ最高の選手の一人とされる。プルッツォのキャリアにおいて、ハードワークをこなし、得点能力の高いセンターフォワードとして知られた[2]

選手経歴

クラブ

ジェノヴァ県クロチェフィエスキ出身で、15歳の時、ジェノアCFCのユースチームに入団。チームがセリエAに昇格した1973年、18歳でトップチームに合流し、12月2日のチェゼーナ戦でプロデビューした[1]。初年度は19試合に起用されたが、無得点に終わり、チームはセリエBに降格した[1]。翌1974-75シーズン、セリエBでリーグ戦12得点を挙げた[1]。1975-76シーズンにはセリエBで優勝し、そのシーズンのセリエBの得点王に輝いた[1]。1976-77シーズン、10月3日のASローマ戦でセリエA初得点を挙げた[1]。このシーズン、惜しくもセリエAの得点王には届かなかったが、リーグ戦で18ゴールを決め、フランチェスコ・グラツィアーニに次いでランキング2位となった[1]。1977-78シーズン、キャプテンに就任したが、このシーズンは9得点に終わった[1]。6シーズン在籍したジェノアでは、163試合68得点を記録した[1]

1978-79シーズン、ユヴェントスASローマが争奪戦を繰り広げたが、ローマが獲得した[1]。プルッツォは1980年代のイタリアで最も優秀なストライカーとなり、1982-83シーズンにセリエA制覇し、コッパ・イタリアも4度優勝を経験した。セリエA得点王に3度輝き、コッパ・イタリアでも得点王になった。ホームのオリンピコで行われたリヴァプールFCとのUEFAチャンピオンズカップ 1983-84決勝では、ゴールを挙げたがチームはPK戦で敗れた。

1986年のセリエA・USアヴェッリーノ1912戦において、イタリア人としては唯一となる1試合5得点を記録した。ローマでは公式戦318試合で138得点を挙げた[1]

1989年にACFフィオレンティーナに移籍した。このシーズンのリーグ戦では13試合に出場したのみに終わったが[1]、来シーズンのUEFAカップ出場権をかけた古巣ローマとのプレーオフでは、ステファーノ・ボルゴノーヴォが起用出来ないことから、先発起用された[1]ロベルト・バッジョのアシストから決勝点を記録し、フィオレンティーナのUEFAカップ出場権獲得に貢献した[3]。この試合を最後に現役を引退した[1]

代表

クラブでの実績にも関わらず、イタリア代表では1978年から1982年に6試合に出場したのみとなっている。1978年9月23日にトルコ戦でフル代表デビュー[1]。イタリアで開催されたEURO1980のメンバーに選出され、イタリアは4位となり、1980 ムンディアリートにも出場した[4][5]1982 FIFAワールドカップは代表メンバーから外れ、出場できなかった[6]

指導者経歴

1990年代後半から指導者としてのキャリアをスタートさせ、ヴィアレッジョテーラモアレッサンドリアの監督を務め、フランコ・センシイタリア語版から新たにマウリツィオ・ザンパリーニがオーナーになったばかりのパレルモ でも監督を務めた。その後、フォッジャ、サンベネデッテーゼでアシスタントコーチを務めた。

2008年12月[7]から2009年3月まで、セリエDのアマチュアクラブのSSDチェントブキで監督を務めた[8]

タイトル

クラブ

ジェノアCFC
  • セリエB:1回 (1975-76)
ASローマ
  • セリエA:1回 (1982-83)
  • コッパ・イタリア:4回 (1979-80,1980-81,1983-84,1985-1986)

個人

  • セリエA得点王:3回 (1980-81,1981-82,1985-86)
  • コッパ・イタリア得点王:1回 (1979-80)[9]
  • ASローマ殿堂入り:2012[10]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Roberto Pruzzo, 'O Rei de Crocefieschi': l'indimenticato bomber di Genoa e Roma”. GOAL (2022年4月1日). 2023年9月1日閲覧。
  2. ^ Il personaggio: ROBERTO PRUZZO”. 2015年1月19日閲覧。
  3. ^ Il passato e' domani: Fiorentina in coppa Uefa” (Italian). Sport Mediaset. 2015年1月19日閲覧。
  4. ^ Roberto Pruzzo - National-Football-Teams.com
  5. ^ Nazionale in cifre: Pruzzo, Roberto” (Italian). figc.it. FIGC. 2015年4月22日閲覧。
  6. ^ Bearzot: 'Football is first and foremost a game'”. FIFA.com. 2017年3月9日閲覧。
  7. ^ “Pruzzo riparte dal Centobuchi” (Italian). La Roma 24. (2008年12月2日). http://www.laroma24.it/index.php?show=article&artid=514 2010年3月12日閲覧。 
  8. ^ “Bomber Pruzzo esonerato dal Centobuchi” (Italian). Il Tempo. (2009年3月28日). http://www.iltempo.it/sport/2012/12/12/bomber-pruzzo-esonerato-dal-centobuchi-1.221057 2010年3月12日閲覧。 
  9. ^ Italy - Coppa Italia Top Scorers”. RSSSF (2015年6月4日). 2015年6月15日閲覧。
  10. ^ Hall of Fame 2014: Ghiggia, Ancelotti, Voeller and Candela inducted”. asroma.it. 2015年4月22日閲覧。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ロベルト・プルッツォ」の関連用語

ロベルト・プルッツォのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ロベルト・プルッツォのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのロベルト・プルッツォ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS