2004年~2008年:低迷期の中でのストライカーへのコンバート
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「フランチェスコ・トッティ」の記事における「2004年~2008年:低迷期の中でのストライカーへのコンバート」の解説
カペッロや複数の選手がチームを去った2004-05シーズンはローマは低迷するものの、トッティ自身は得点を重ねてセリエAでは12得点を挙げた。10月3日のインテルナツィオナーレ・ミラノ戦でセリエA通算100得点を達成。また12月19日のパルマ戦ではセリエA通算107得点とし、ロベルト・プルッツォを抜き、ローマのクラブ史上最も多くの得点を記録した選手となった。チームは最終的に8位でシーズンを終え、コッパ・イタリアでは決勝戦に進出したもののインテルに敗れて準優勝に終わった。 ルチアーノ・スパレッティが就任した2005-06シーズンからは、4-2-3-1フォーメーションの中でセンターフォワードとして起用されるようになった。最前線のポジションであるにも関わらずたびたび中盤でのビルドアップを担い、それにより攻撃的ミッドフィルダーとウイングの攻め上がるためのスペースが生まれるといった場面が度々生じた。ここシステムは後に「4-6-0」、あるいは「0トップ」と表現され、トッティの役割は「偽9番(英語版)」と呼称されるようになった。ローマは同シーズンに開幕9連勝というクラブ新記録を達成するが、10連勝をかけた2006年2月19日のエンポリ戦にて、開始直後にエンポリのリカルド・ヴァニーリ(英語版)のバックチャージを受けて転倒し、腓骨の骨折および靭帯損傷の大怪我を負った。同年のワールドカップ出場は絶望視されたが、驚異の回復力を見せ、5月11日のインテルとのコッパ・イタリア決勝戦に途中出場しピッチに復帰した。手術中には足首に金属板が取り付けられていたが、トッティの主治医は彼のプレーに影響を及ぼさないよう、翌シーズンまでは金属板は取り外さないこととした。また骨折の回復を速めるために、テリパラチドの適用外治療を受けた。 2006-07シーズンはセリエAではキャリアハイの26得点を記録し、自身初となるセリエA得点王を獲得、また同時にヨーロッパにおける年間最多得点者に与えられるゴールデンブーツ賞を受賞した。ローマはセリエAではインテルに及ばず2位に留まり、チャンピオンズリーグでは準々決勝でマンチェスター・ユナイテッドに敗れたが、コッパ・イタリアではACミランを破って優勝を果たした。2007年のバロンドールにもノミネートされ、10位にランクインした。 2007-08シーズンには1-0で勝利した8月29日のスーペルコッパ・イタリアーナのインテル戦において、相手ゴール前でペナルティーキックを獲得し、それをダニエレ・デ・ロッシが決めてローマの勝利に貢献した。2008年1月16日の4-0で勝利したコッパ・イタリアのトリノ戦ではキャリア通算200得点を達成。同年1月28日には5度目のセリエAイタリア人最優秀選手に選ばれた。翌2月24日、フィオレンティーナ戦でセリエAでの出場試合数を386試合に伸ばし、1960年代のローマのキャプテンであったジャコモ・ロージの記録に並び、同27日のインテル戦でその記録を破った。3月9日の2-0で勝利したSSCナポリ戦ではローマでの通算出場試合数500試合を達成し、自身はペナルティキックから2点目のゴールを決めた。だが4月19日のリヴォルノ戦で右膝を負傷し、4ヶ月間の離脱を強いられ残りのシーズンの棒に振ったが、同シーズンのローマはクラブ記録となる勝ち点82を記録しインテルと最終節まで優勝争いを演じ、またコッパ・イタリアでは再びインテルを降し連覇を達成した。この決勝戦にはトッティは出場していなかったものの、キャプテンとして優勝カップを受け取り、トッティはローマの歴史上において最も多くのタイトルを獲得したキャプテンとなった。
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