1979 FIFAワールドユース選手権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/03 02:28 UTC 版)
| 1979 FIFAワールドユース選手権 | |
|---|---|
| 大会概要 | |
| 開催国 | |
| 日程 | 1979年(昭和54年)8月25日 - 9月7日 |
| チーム数 | 16 (6連盟) |
| 開催地数 | 4 (4都市) |
| 大会結果 | |
| 優勝 | |
| 準優勝 | |
| 3位 | |
| 4位 | |
| 大会統計 | |
| 試合数 | 32試合 |
| ゴール数 | 83点 (1試合平均 2.59点) |
| 総入場者数 | 454,500人 (1試合平均 14,203人) |
| 得点王 | |
| 最優秀選手 | |
| < 19771981 > | |
1979 FIFAワールドユース選手権(英: 1979 FIFA World Youth Championship)は、1979年(昭和54年)8月25日から9月7日にかけて、日本で開催された2回目のFIFAワールドユース選手権である。別名'79ワールドユースサッカー。東京、大宮、横浜、神戸の4都市で合計32試合が行われた。決勝は国立霞ヶ丘競技場で行われ、アルゼンチンが初優勝を果たした。また、MVPにあたるゴールデンボールにディエゴ・マラドーナが選ばれた。
概要
大会はマラドーナ擁するアルゼンチンが圧倒的な強さで優勝して幕を下ろした。アルゼンチンはFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会で同国を初優勝に導いたセサル・ルイス・メノッティがユース代表の監督も務め、マラドーナ以外にも、ラモン・ディアスらのタレントを擁し、技巧的なパスワークと圧倒的な攻撃力で大会を席巻し日本のサッカーファンの人気を集めた。
日本は地元開催という事もあって松本育夫監督の厳しい指導の下、海外遠征や長期合宿を繰り返し大会に挑んだが、0勝2分1敗でグループリーグ敗退に終わっている。
出場国
| 大陸連盟 | 出場 枠数 |
予選大会 | 予選順位 | 出場国・地域 | 出場回数 |
|---|---|---|---|---|---|
| AFC | 1+2 | 開催国 | 初出場 | ||
| AFCユース選手権 | 1位 | 初出場 | |||
| 5位 | 初出場 | ||||
| CAF | 2 | アフリカユース選手権 | 1位 | 初出場 | |
| 2位 | 初出場 | ||||
| CONCACAF | 2 | CONCACAFユーストーナメント | 1位 | 2大会連続2回目 | |
| 2位 | 初出場 | ||||
| CONMEBOL | 3 | 南米ユース選手権 | 1位 | 2大会連続2回目 | |
| 2位 | 初出場 | ||||
| 3位 | 2大会連続2回目 | ||||
| UEFA | 6 | UEFAジュニアトーナメント | 1位 | 2大会連続2回目 | |
| 2位 | 初出場 | ||||
| 3位 | 初出場 | ||||
| 5位 | 2大会連続2回目 | ||||
| 5位 | 2大会連続2回目 | ||||
| 5位 | 初出場 | ||||
会場一覧
| 都市 | スタジアム名 |
|---|---|
| 東京 | 国立霞ヶ丘競技場 |
| 大宮 | 埼玉県営大宮公園サッカー場 |
| 横浜 | 三ツ沢公園球技場 |
| 神戸 | 神戸市立中央球技場 |
結果
グループリーグ
グループ A
| 順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 4 | 3 | 2 | 0 | 1 | 3 | 2 | +1 | |
| 2 | 4 | 3 | 1 | 2 | 0 | 2 | 1 | +1 | |
| 3 | 2 | 3 | 0 | 2 | 1 | 3 | 4 | -1 | |
| 4 | 2 | 3 | 0 | 2 | 1 | 1 | 2 | -1 |
すべて現地時刻
グループ B
| 順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 6 | 3 | 3 | 0 | 0 | 10 | 1 | +9 | |
| 2 | 4 | 3 | 2 | 0 | 1 | 9 | 4 | +5 | |
| 3 | 2 | 3 | 1 | 0 | 2 | 5 | 3 | +2 | |
| 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 16 | -16 |
すべて現地時刻
|
1979年8月26日
19:00 |
| アルゼンチン |
5 - 0 | |
|---|---|---|
| ディアス マラドーナ |
レポート |
|
埼玉県営大宮公園サッカー場(大宮)
観客数: 15,500人 |
|
1979年8月28日
19:00 |
| インドネシア |
0 - 6 | |
|---|---|---|
| レポート | パワシュ ヤニェツ バラン ブダ |
|
埼玉県営大宮公園サッカー場(大宮)
観客数: 9,000人 |
|
1979年8月30日
19:00 |
| ユーゴスラビア |
5 - 0 | |
|---|---|---|
| スマイッチ ミロサヴリェヴィッチ ムリナリッチ |
レポート |
|
埼玉県営大宮公園サッカー場(大宮)
観客数: 7,500人 |
グループ C
| 順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 4 | 3 | 2 | 0 | 1 | 6 | 1 | +5 | |
| 2 | 3 | 3 | 1 | 1 | 1 | 2 | 3 | -1 | |
| 3 | 3 | 3 | 1 | 1 | 1 | 1 | 3 | -2 | |
| 4 | 2 | 3 | 1 | 0 | 2 | 3 | 5 | -2 |
すべて現地時刻
グループ D
| 順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 6 | 3 | 3 | 0 | 0 | 8 | 0 | +8 | |
| 2 | 4 | 3 | 2 | 0 | 1 | 8 | 2 | +6 | |
| 3 | 2 | 3 | 1 | 0 | 2 | 3 | 7 | -4 | |
| 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 10 | -10 |
すべて現地時刻
決勝トーナメント
| 準々決勝 | 準決勝 | 決勝 | ||||||||
| 9月2日 - 大宮 | ||||||||||
| 0 (3) | ||||||||||
| 9月4日 - 神戸 | ||||||||||
| 0 (4) | ||||||||||
| 0 | ||||||||||
| 9月2日 - 神戸 | ||||||||||
| 1 | ||||||||||
| 2 (5) | ||||||||||
| 9月7日 - 東京 | ||||||||||
| 2 (6) | ||||||||||
| 1 | ||||||||||
| 9月2日 - 東京 | ||||||||||
| 3 | ||||||||||
| 5 | ||||||||||
| 9月4日 - 東京 | ||||||||||
| 0 | ||||||||||
| 2 | ||||||||||
| 9月2日 - 横浜 | ||||||||||
| 0 | 3位決定戦 | |||||||||
| 1 | ||||||||||
| 9月6日 - 東京 | ||||||||||
| 0 | ||||||||||
| 1 (3) | ||||||||||
| 1 (5) | ||||||||||
すべて現地時刻
準々決勝
|
1979年9月2日
19:00 |
| パラグアイ |
2 - 2 (延長) |
|
|---|---|---|
| ロメロ アチュカーロ |
レポート | ドゥマンスキ ポノマレフ |
| PK戦 | ||
| 5 - 6 |
|
神戸市立中央球技場(神戸)
観客数: 8,500人 |
|
1979年9月2日
19:00 |
| アルゼンチン |
5 - 0 | |
|---|---|---|
| マラドーナ カルデロン ディアス |
レポート |
|
国立霞ヶ丘競技場(東京)
観客数: 20,000人 |
準決勝
3位決定戦
決勝
優勝国
| 1979 FIFAワールドユース選手権優勝国 |
|---|
アルゼンチン 初優勝 |
得点ランキング
| 順位 | 選手名 | 得点数 |
|---|---|---|
| 1 | 8 | |
| 2 | 6 | |
| 3 | 5 | |
| 4 | 4 | |
表彰
| 賞 | 受賞選手・チーム | 備考 |
|---|---|---|
| ゴールデンボール(大会MVP) | 優勝 | |
| シルバーボール | ベスト8 | |
| ブロンズボール | 優勝 | |
| ゴールデンシューズ(得点王) | 8得点 | |
| シルバーシューズ | 6得点 | |
| ブロンズシューズ | 5得点 | |
| フェアプレー賞 | 1回目 |
脚注
- ^ AFCユース選手権1978で2位のイラク、同3位の北朝鮮、クウェートが出場を辞退したため、同グループA・2位のインドネシアが繰り上げで出場。[1]
- ^ OFC代表のオーストラリアと所属連盟未定のイスラエルとのプレーオフに勝利し本大会出場。
関連項目
外部リンク
1979 FIFAワールドユース選手権
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「ディエゴ・マラドーナ」の記事における「1979 FIFAワールドユース選手権」の解説
マラドーナは20歳以下代表チームのキャプテンとして、日本で開催された1979 FIFAワールドユース選手権に出場。6試合中5試合で6ゴールを決め、ワールドユース初優勝に貢献した。チームメイトのラモン・ディアスが8ゴールを挙げてゴールデンシューズ賞(得点王)となり、マラドーナはゴールデンボール賞(MVP)に選出された。圧倒的な攻撃力をみせたアルゼンチンユース代表について、マラドーナは「文句なしに、自分のキャリアの中で一番素晴らしいチームだった」、「僕らは猛獣のようにプレーしていたけど、大いに楽しんでもいたんだ。一番大事なことだけど、ファンがとても喜んでくれた。(中略)いずれにしろ、あのチームのことは決して忘れない。素晴らしいチームだった」。
※この「1979 FIFAワールドユース選手権」の解説は、「ディエゴ・マラドーナ」の解説の一部です。
「1979 FIFAワールドユース選手権」を含む「ディエゴ・マラドーナ」の記事については、「ディエゴ・マラドーナ」の概要を参照ください。
「1979 FIFAワールドユース選手権」の例文・使い方・用例・文例
- 私は1979年10月22日に東京で生まれました
- 教育省長官の職は1979年に設けられた
- 厚生省長官の職は1979年に議会によって設けられた
- 1953年に創設され1979年に2つの省に分割された、かつての行政府の長
- 米国が中華人民共和国を認識した後、カーターは1979年に台湾に対する承認を取り消した
- 1979年から1990年までニカラグアの反革命的なゲリラ部隊
- 過激派パレスチナ人テロリスト集団で、1979年に創設され、パレスチナでのイスラム国家の創設と、イスラエルの破壊をに取り組む
- パレスチナ解放人民戦線の派閥によって1979年に形成されるが、重要なメンバーがアル・ファタハの派閥に加わるために去った1980年代に解散したテロ集団
- 1979年、ソビエト軍がアフガニスタンに侵入した
- 英国の生化学者(ドイツ生まれ)で、1928年にアレクサンダー・フレミングによって発見されたペニシリンを分離、精製した(1906年−1979年)
- 米国の作家で、小説で知られる(1904年−1979年)
- 人気がある米国の指揮者(1894年−1979年)
- 英国の物理学者(ハンガリー生まれ)で、ホログラフィに関する業績で知られる(1900年−1979年)
- 米国のピエロ(1898年−1979年)
- 米国の政治哲学者(ドイツ生まれ)で、資本主義や現代技術の人間性を失わせる影響を危惧した(1898年−1979年)
- フランスの振付師でバレエダンサー(ロシア生まれ)(1895年−1979年)
- フランスの経済学者で、ヨーロッパで欧州共同市場を擁護した(1888年−1979年)
- イタリアの化学者で、ポリマーの研究で知られる(1903年−1979年)
- イタリアの建築家で、鉄筋コンクリートの使用の先駆者となった(1891年−1979年)
- イランのシャーで、イスラム原理主義者により1979年に退位させられた(1919年−1980年)
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